2014年2月18日火曜日

国家主義。

国家主義とは何か。
きょうは、このテーマを論じてみようと思う。

国家主義とは、簡単なたとえをとってみれば、
家が大事、そしてそこに暮らす人々の健康や幸せ、命というものは、
家の次に大事、という考えである。

箱が大事で、その箱の中にある命は、二番目だ、という考え方である。

かつての日本の家制度、家父長制度は、
そこの家の娘さんが、好きでもない男性のところに嫁いで、
泣いて暮らしたとしても、
「家のため」ということで、彼女の気持ちを踏みにじることは、平気だった。
優先順位として、家という箱が大事で、命はその下にあったのである。

老舗の店の暖簾も、そうかもしれない。
老舗の店を継続し繁栄させていくために、
跡継ぎの息子がどんなに学問ができても、
どんなに好きな女性がいても、
まずは老舗の店を継続させることが大事で、
息子の気持ちや時には、相手の女性を選択する権利まで、
二番目三番目になってしまうのである。

本来は、人を幸せに、健康に生きさせるために、
家や店があるのではないだろうか。
箱だけ残っても、そこに暮らす人々が幸せでなければ、
何の意味もないのである。

今、オリンピックのさなかである。
オリンピックは、世界中からそれぞれの国が、代表選手を出して、
国対国、の戦いを行うところである。
スポーツというルールのあるゲームに昇華しているけれども、
本質的には、国と国との戦いという点で、
世界大戦に近いところがあるのかもしれない。
「国の威信をかけて」「国の名誉をかけて」という。

こうしたときに、人は自然に、自分の出身国を応援する。
これは、健全な愛国心(パトリオティズム)である。
健全な愛国心は、自分自身が依って立つところの、
母系集団を、自然に愛する、大切にする、という意味である。
自分の母国は、自分のアイデンティティの基盤を作る、
とても大切なものである。

このごろ、こうした「郷土愛」「健全な愛国心」が、
失われているかもしれない。
東京に出てくると、出身地を隠そうとする人がけっこうたくさんいる。
自分が生まれて育った場所、地域を、愛せないどころか、
憎む人もたくさんいる。
これは、心が、あまり健全ではない、ということである。

このパトリオティズムが、行き過ぎたところが、
ナショナリズムつまり、国家主義となる。
健全か、健全ではないか、の境目は、
「命と比べて、優先順位はどちらか」という点である。

国が勝てれば、ひとりひとりの兵の命は二の次、これが、
ナショナリズム、歪んだ母国愛である。

ナチスのユダヤ人収容所では、
本当に最後の最後まで生き残った人たちは、みな、
最後の最後まで、食べるものを分け合った人たちである。
「私ひとり生き残ればそれでいい」という考えの人は、
どんどん先に、死んでいったのである。

そうなると、幸せとは何か、という論法になってくる。
それは、次の機会にゆずることにしよう。
ただ、「幸せ」という概念は、そのものとして存在する、ということが、
とても大切だと思っている。