2014年2月19日水曜日

オリンピック・女子フィギュアスケート。

今夜、日本時間の深夜の時間帯に、
冬季オリンピック・ソチ五輪の、女子フィギュアスケートの競技が行われる。
日本では、今、関東地方の大雪のために、いろいろと大変な状況でもあるけれども、
選手にとっては、4年に一度の、いや、一生にそう何度もない、大きな舞台であり、大きなチャンスのときである。
遠くロシアを思いながら、心から応援したいものだ、と思う。
幸い、テレビ中継の電波はつながっていて、改めて「つながり」というものを、感じさせられている。

フィギュアスケートの競技は、ショートプログラムと、フリーと、それから、これは競技の点数とはあまり関係ないのだが、エキシビションというのがある。

フィギュアスケートの競技がなぜ、こうして三つの種目に分かれているのか、みなさんご存知かもしれないが、改めて、楽しみのために、ここで少し書いてみようと思う。

まず、ショートプログラムであるが、これは、技術である。
スケートの技術を披露して、競うものである。
たとえて言えば、学校の国語の時間に、文章の単語や漢字、句読点を習うようなものだろうか。
そして、それらの技術が採点される。
フィギュアスケートのショートプログラムでは、ジャンプや回転、スケーティングなど、何項目もの技術が、試されることになっている。

ずっと以前は、リンクの上に、まっすぐに線を引いたその上を線の通りに滑ってみたり、あるいは、円を描いた上を、滑ってみたりした。
その後、音楽に合わせることになったが、ショートプログラムが、技術を中心に採点される場面であることに、変わりはない。

また、ショートプログラムの点数順で、フリーの滑走順が決まる。
これは、学力テストで、上位10名に入った学生が、二次試験、最終試験を受けるようなものである。
フリーでは、スケートの技術のほかに、その上に、というべきであろうか、演技、芸術点が採点される。

これは、国語の文章でいえば、表現力、ストーリーを自分で創って、それを人々により高い芸術的視点をもとに、伝える、という競技であろうか。

それを考えると、本当に、フィギュアスケートというのは、文章とよく似ている。
文章を書く人は、技術力は基礎の基礎として、高いレベルを維持していなければならなくて、いつでもそれを披露できるようでなければならない。
そして、その上に、プロフェッショナルであれば、観ている人に、感情や思い、思想や哲学、感動までも伝えられるようにならなければならない。

ショートプログラムとフリーとで、合計点を合わせて、最終得点となる。
ショートプログラムで高い点数をとっていても、フリーのほうが、比重が大きいので、逆転できるチャンスはあるが、やはり、どんな仕事でも、技術力は高いほうが、評価されるのではないだろうか。

そこで、メダルが決まると、今回のソチオリンピックの場合は、閉会式の前日に行われる予定のようであるが、エキシビションがある。
この、エキシビションは、競技の採点の対象にはなっていない。
しかし、とても華やかで楽しいものである。

以前私の母は、このエキシビションが一番楽しみだ、と言っていた。
それは、ショートでもフリーでも厳格な採点がなされていて、衣装やライトアップ、使用する音楽もとても厳しい基準があるし、そして選手たちが、競技、という場面なので緊張している場合が多くて、観ているほうが、はらはらするからである。
まったく母親らしい気持ちである。

でも、点数と順位が決まってからの、エキシビションは、選手たちが、あたかも「NO SIDE」といわんばかりに、とても仲が良く、とてもリラックスしていて、華やかな衣装や、競技で使用してはいけない技も、披露してくれる。
これらは、選手たちからの、観客に対するサービスであり、感謝であり、そしてまた、アンコールでもある。

そして、エキシビションは、高まった技術と、高まった芸術と、競技の場を離れた、自由な表現がある。

本当のプロの文筆家になったら、こうした、技術あって当たり前、表現力あって当たり前、そのうえで、楽しんで感謝して書ける、文章作家になれるのかなぁ、…と思う。
いつか、自由自在の境地で書けるまで、まずは技術と、そして心を磨くことなのだろうか。
女子フィギュアスケートの競技には、いつも励まされる思いがする。