「東南アジア系」と差別用語について。

このところ、ヘイトスピーチや差別に関する用語、事件に関しての糾弾が、かまびすしい。
日本が右傾化している、という、世界的な懸念があり、それに対して、国内外で、たくさんの人たちが神経をとがらせているようである。
また、現在の日本の様相が、第二次世界大戦中のドイツで、起こった非常に極端な民族主義に似ている、という懸念があって、それで、あたかも「赤狩り」のように、言葉遣いに神経質になっているようである。

以前から、もう20年も前から、こうした「差別的表現」に関して、日本はずいぶんと対応を変化させてきているようだ。
ほんの10年前の映画を観ても、テレビ放映にあたって、当時と現在とでは、表現の範囲がちがっているところがあり、あらかじめ、ということで、但し書きがついている場合がある。
現在、問題となっている、戦争中を描いた漫画「はだしのゲン」にしても、言葉遣いや表現が、差別的である点が問題になっているようだ。

私たち、文筆家にとっても、ここ数十年の「差別的表現への枠」は、言葉のひとつひとつに至るまで、非常に範囲がせばまってきたところがある。
文筆を職業にする人たちにとっては、表現の幅のせばまりと同時に、あらぬ誤解をされることもあって、とても肩身の狭い思いをするものだ。
たとえば、すでに「土人」という言葉は、こうしてワープロで打っていても、漢字に変換できないようになっている。
あるいは、「片手落ち」という表現があるが、こうした言葉も、障がい者を連想させるということで、すでに使用禁止だという。
「障がい者」という言葉表現でさえ、「障害」「障碍」と、言い換えを、ほんの数年のうちに、変化している状況である。

先日わたしは、ツイッターで、こんなことをつぶやいた。
ツイッターはほんの140文字の字数のなかで、限られたことを書くものである。
「つぶやき」というゆるさもあってか、あまり意識することもなく言葉を打ち込むこともあるし、また、そこに書いたことの意味が、説明不足になることもあるようだ。

私のそのときの「つぶやき」というのは、格安航空会社ピーチの、低空飛行事故問題であった。
以前から、日本における格安航空の仕組みに疑問を持っていた。
それは、エア・ドゥの経営に関する報道で聞いた話であるが、どのようにして、航空運賃を下げるか、コストを下げるか、という点で、乗務員つまり、人件費のコストを下げる方法が、紹介されていた。
人件費のコストをどのように下げるかというと、日本人ではなく、東南アジアの人を雇って、人件費を下げるのだそうである。
日本の会社に勤務し、日本で働くのである、それなのに、日本人を雇うと人件費つまりお給料が高いのだが、東南アジア系の人を雇うと、人件費が安いのだそうだ。
これは、どういうことなのだろう?と思った。
ひとつは、日本国内の乗務員、パイロットやフライトアテンダントの訓練の基準が満たされていないのではないか、という疑問である。
日本国内で定められている基準、教育・訓練は果たされているのだろうか。
もうひとつの疑問は、日本国内で働くにも関わらず、なぜ、東南アジア系の人だと、お給料が安いのか、という疑問である。
仕事の内容が同じであるなら、どんな人種であろうと、どんな民族であろうと、どの国の出身であろうと、お給料は同じ金額であるべきではないだろうか。
教育・訓練にも同じコストをかけるべきであるし、お給料も同じコストをかけるべきである。
それを「しなくて済む」のが、東南アジア系の人を雇うということなら、何かがまちがってはいないだろうか。
こうしたところに、むしろ差別や格差を感じていたのである。

そして、日本国内で、ピーチの事故が起こったときに、パイロットが管制官と意思疎通ができていなかった、という報道を聞いたので、もしかしたら言葉が通じなかったか、あるいは、(日本人に対するのと労働の基準がちがうので)超過勤務で疲労していたのではないか、パイロットとしての訓練が足りなかったのではないか、と、さまざまな心配をしたのであった。
それで、事故原因の究明と、二度と事故を起こさないために、という意味のことで、気持ちのつぶやきを、ツイッターで書いたのである。
その際「乗務員は東南アジア系の人ではないか」という言葉遣いをしたのが、読者にはまったく逆の方向で、捉えられたようなので、むしろ困惑している。

ヘイトスピーチは極端であるにしても、このところの日本は、ずいぶんと表現にこだわるようになったのではないだろうか。
言葉の表現を制限するというのは、心の在り方を制限するものであるように思う。
それで、匿名のインターネットの現場で、ありったけの言葉を使って気持ちを思う存分に発散するようにもなるのかもしれない。

極端なヘイトスピーチや、民族排外主義がどのようにして起こるのか、私にも、わからない。
ただ、きょうの記事では、私自身が誤解されたことの遺憾と、その誤解の解明と、それから、今後の言葉遣いについて、課題をいただいた、ということで、こうしてブログ記事を書かせていただいた次第である。