人口のブラックホール現象について。


今、人口問題で課題となっているのは、「人口のブラックホール現象」だそうである。
少子高齢化や、限界集落など、人口問題をめぐってはさまざまなテーマが課題となってきた。
これに対応する工夫が求められている。

人口のブラックホール現象に対してとる態度は、まずは、あまり悲観的にならずに、てきぱきと対処することであるかと思う。
というのは、日本全体を見るような立場、たとえば、政治家であるとか、社会問題の評論家といった人たちにとっては、人口は都市に集中しすぎることなく、まんべんなく広がっている状況が理想的であるだろう、と思える。
だが一方で、暮らす人々にとっては、自らの人生設計やより豊かな生活、暮らしやすさを求めて、移住・移転することも、とても大切なことであるだろうと思える。
それから、特に歴史の長い故郷に暮らす人にとっては、跡継ぎもなく「自分にとって」大切な村が消えてしまうことへの、失望や不安があるのではないかと思えるが、世代を継ぐ新しい人たちにとっては、やはり先人の思い出を継ぐために生まれてきたのではない、ということも重要であると、私は思う。

人口問題は、このところ、特に「減少」が言われているが、ほんの30年前までは「人口の爆発的増加」のほうが、大問題であった。
20年後、50年後の人口の予測をして、それだけたくさんの人たちが人口過密地帯でどのように暮らすのか、社会学者にとって、人口増加のほうが問題だったのである。
現在ではそのときの政策もあってか、人口の安定とそして、減少となっている。
この経緯を考えると、これからまた30年ほどで人口が増え始めることも考えられると思う。
実際に、少子化対策は次々に取られている。

そうした将来のことを踏まえて、いくつか、てきぱきとした対応策を考えてみた。
ひとつは、ブラックホール現象となった村落を、「整理整頓」することである。
いくらかの金額と人手はかかることであるが、建物をそのまま放置することは、危険が予測される。
使わなくなった建物はきれいに整理して、片づけることが必要であるかと思う。
そしてここで思うのが、まったくきれいな、人のいない更地にしてしまうのではなく、これからまた暮らす人々が集まるために、ライフラインを残しておくことである。
せっかく先人が拓いた土地なので、電気やガス管、水道管、主要な建物をいつでも復活可能な程度に残して維持管理しておくことも大切かと思う。

また、そうなる前の状態の村落においては、役場、郵便、病院、学校、警察(交番)、食料品店などの、生活をある程度まで保持できる設備を、なんらかの方法で、残すことが必要かと思われる。
「何らかの方法」というのは、国や地方自治体で、という意味である。
こうして、生活の最低限のレベルが維持できる設備・環境が整っていれば、まったくのブラックホールとはならないと思える。

次に、都市化、都市への人の心の思い、というものを考えてみたい。
私が、都市と農村、現金収入ということで思うのは、トルストイの名作「アンナ・カレーニナ」のなかで、重要人物のひとりであるリョービンが、農村での暮らしと、都市での暮らしを行ったり来たりするなかで、実感する、不思議な思いのことである。
農村では、一年間一生懸命に働いて、一年の収穫を得る。
それは主に、食物である。
また、農村では、暮らしに現金を使うことが少ないのかもしれない。
だが、都会での生活には、何をとっても、現金が必要なのである。
リョービンは、都会にいると、農村で働いて稼いだ「一万円札」が、いったん崩すと、すぐになくなってしまうことに、不思議な気持ちを抱く。
これは、私たち現代人にも共通して言えることではないだろうか。

農家の人たちが、一年間を働いて作物を収穫し、そこから得た収入が500万円だったとする。
この500万円を都会で消費するのはあっという間なので、労働と現金との関係がうまくつかめなくなってくる。
このテーマはトルストイの時代から、まだまだ疑問の多い問題であり、私も「感覚の問題なのか」「農村の生活スタイルの問題なのか」という点で、疑問が解けない。
NHKのテレビ小説「花子とアン」でも、主人公の花子は、自宅の農家の働き手となるよりも、現金収入のある就職口を選ぶのである。
もっと多くの現金収入をめざすなら、都会で就職するのが一番収入が高かったと言える。

次に、日本の現状として、今存続している地方の村落と、東京の都会について考えてみたい。
この、地方の村落の生活スタイルと、都会の生活スタイルとでは、時代にして、100年はちがうのではないか、というくらい、趣がちがうようである。

実際、日本の近代化は、ここ百年で驚くべき速さで進んできた。
現代ではインターネットの普及も目覚ましいが、それは都市部だけで急速に進み、地方では、ゆっくりと進んでいるようである。
まるで時間の流れ方がちがっているかのようである。
都市での生活スタイルに、地方の生活スタイルが追いついてくるまでには、相当の時間とお金が必要になりそうであるし、また積極的な都市化が必要かもしれない。

それもたとえば、レコードの時代からアイポッドの時代までの間に、CDの時代、カセットテープ、MDディスク、があったかのごとく、「レコードの時代」から、「アイポッドの時代」へと、「飛び級」的な手法が必要なのかもしれない、と思う。

というのは、実際の私の知人で、村落に暮らしているけれども、インターネットを駆使する生活を送っていて、現在では、通信販売で購入した品物はまずまちがいなくどこの市町村にも配達されるようになっているので、何の不自由も感じない、というのである。
こうして、インターネットの設備強化が、もしかすると特効薬になるのでは、と思うことがある。
メール、クレジットカード、インターネットバンキング、そして、配達である。
そこにライフラインがあれば、暮らしとしては充実しているといえるだろう。

人口のブラックホール現象について、さまざまな角度からこれからも検討して行きたいものである。

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