絶賛放送中の「花子とアン」。
夏休みの子どもたちも巻き込んで、昭和の時代や、女性たちの生き方、ときには女性たちのファッション、あるいはときには、ヒロインとその友達の「夫」「彼氏」「恋愛」をめぐって、華やかに話題が起こっている。
私はこうした、誰もが見ているようなテレビドラマを題材にして、会社や学校で話題にしたり、あるいはツイッターやブログで、ミニ討論をしてみるのは、とてもよいことだと思っている。
今週「ラジオのおばさん誕生」では、特に、働く女性である花子を支える、夫の働きが際立った週であったと思う。
もともと作家であり翻訳家である花子に、ラジオの仕事が舞い込んできたのは、「腹心の友」である、蓮子のつながりである。
蓮子が以前の結婚で九州にいたときに、確か「福岡日報」とかいうような新聞社で、記者をしていた黒沢という男性が、東京に来て、ラジオの仕事をしていたのである。
そして、ラジオで、子ども向けに、「女性の声で放送をしたい」という要望が発生したときに、花子に白羽の矢が立てられたのである。
翻訳家である花子になぜ、ラジオの仕事が来たのだろうか。
今では、作家がラジオ番組を担当することはめずらしくはないが、花子の仕事はどちらかといえば、女性アナウンサーのような記事の読み上げである。
当時も今も、教育を受けた女性、賢い女性、西洋風の思想を身に着けた女性、そして、臆することなく積極的に前に出てくる女性は、とても重宝されたように思う。
その重宝ぶりは、ただ、「賢い女性が少ないから」という理由であるようだ。
それにしても、ラジオの仕事とは、たいしたものである。
当時としてはとても珍しく、先駆けであり、誰もがうらやむ仕事だったのではないだろうか。
仕事の話を持ってきたのは、何よりも腹心の友、友はコネクションも呼んでくれる。
この仕事を、「引き受けてみたら」と優しく微笑んでくれたのが、夫の英治である。
また、ラジオ局に挨拶に行くときに、保護者のように連れて行って、男性同士の社会の引き継ぎをしてくれたのが、夫の英治である。
また、放送の仕事で緊張するから、と、子どもの写真を持たせてくれたのも、夫の英治である。
女性が社会で仕事をするときに、保護となり盾となり、仕事の仕方を教え、社会の仕組みを教え、ときには、緊張のほぐしかたや休み方まで教えてくれる、それが、夫の役割であった。
女性が、社会のなかで、能力を出し切って仕事をするためには、何よりも周囲の人々、そして、男性の支えが必要となる。
その「男性の支え」とは、職場の男性であり、家族である。
父であり、夫であり、兄でもあるだろう。
花子は、父にも夫にも兄にも恵まれ、触発を受けている。
また、今週は、職場で、厳しい扱いを受けるのだが、これは試練というよりも、やはり仕事は厳しい、甘い考えではやっていけない、という教訓であるように思う。
まるで嫌味を言っているような、先輩のアナウンサーであっても「アナウンスというのはこうあるべき」と厳しく諭してくれているようである。
こうした中で、花子は、仕事というものを体得していくようである。
ここで、妹の「もも」が、花子の仕事に挑む様子を見ているシーンがあるのだが、「もも」は、何を感じただろうか。
私は、教育を受けた女性と、受けなかった女性との格差を感じる。
また、結婚に恵まれた女性と、恵まれなかった女性の格差を感じる。
またもうひとつ言えば、「好きな男性と結婚できた女性」と、そうではなかった女性との格差を感じるものである。
どちらにしても、花子の職場での苦労は、妹のももには、かけ離れた世界であることが物悲しい。
この家の姉妹間格差をどうこう言うのは、簡単なことである。
しかし、父親の吉平にしてみれば、子どものうちの誰かひとりに力を入れて教育をし、兄妹たちはそれを経済面で支えた、そのまわりまわった経済効果が、20年後、30年後に出ていて、妹たちも両親たちもよい暮らしへと向上しているのではないかと思われる。
それにしても、北海道の開拓から逃げてくるなんて、北海道民としては、「どうなのかな」と思えるところもあった。
みんな苦労して、原野を切り拓いて、今の雄大な北海道があるのだ。
自由と民主と、西欧風な気風を楽しめればよかったのに、とちょっと残念に思う。
今週の、「ラジオのおばさん誕生」では、ストーリーの流れが掴みずらいところがあり、来週から来月のラストに向けて、つながりの週だったのではないか、と思われる。
来週からはいよいよ、蓮子と花子と、女流作家たちの、女性解放運動が始まるのではないか、と思われる。
これは見逃せないところである。
ところで、村岡英治と花子の演技であるが、結婚して何週間、いや何年か経ったからか、とても夫婦らしくなってきた。
花子の両親役が、本当にほのぼのとした、これ以上ないほどの夫婦を醸し出しているのを考えると、まだまだ初々しいかんじもする。
これから、女性解放運動に、花子が参加していくにあたって、大きなテーマとなるのが、その夫たちである。
花子が仕事を持つ女性であること、妻が仕事をしていることを、夫はそんなに手放しで応援できるものだろうか。
もちろん、理想としても、夫が自分自身で持つ主義としても、「女性は仕事をするべきだ」「女性の仕事を応援するべきだ」という強い意志はあるだろう。
しかし、女性の社会参加は常に、男性のプライドとの戦いである。
職場の先輩や、学校の先生、仕事の仲間なら、男性が女性を心から応援し励ますことはあるだろう。
しかし、夫となると話はまたちがってくるのではないだろうか。
実際に、仕事を持つ女性が、夫婦不仲のために離婚にいたったり、仕事を続けていくために女性が、「結婚か仕事か」の選択にせまられ、仕事を選ぶことは、多いのである。
また、現代の社会でも、女性の社会参画のために、男性の応援や、なかでも、「意識変革」が必要だと言われているが、その意識変革を、どのようにやり遂げて行けばよいのだろうか。
今、村岡英治に降りかかっている課題は、まさにそのあたりである。
一方、蓮子の現在の夫である、宮本龍一は、蓮子との結婚前から、主義主張として、女性の自立、女性の自由を訴えていたところがあり、ここは鉄板となっているようだ。
本当に、本当に、だがしかし、「夫」というものは、妻の自立を、手放しで、なんの障害もなく、乗り越えていけるものなのだろうか。
夫といっても、男である。
男として、一人前かそれ以上の仕事をしたい、もっともっと成功したい、という気持ちは強いのではないだろうか。
そして、そのときに、妻に仕事や人生の「支え」になってほしい、仕事の手助けをしてほしい、仕事のスタッフになってほしい、と思うものではないだろうか。
また、昭和初期のこの時代、ほかの夫婦が、妻が夫を立てて支えて、立身出世をさせてあげている状況のなかで、英治ひとりが、「私は妻を支えます」「妻の成功が夫である自分の成功です」と言えるものなのだろうか。
夜、妻が仕事で家を留守にしているときに、ひとり台所に立ち、自炊をする夫が、妻の仕事と仕事での成功を、妬むことはないだろうか。
もともと、夫婦は対等であり、平等である。
これは、江戸時代でも平安時代でも変わらない。
この夫婦の対等意識が、妻の仕事を支えるべきという、主義主張とぶつかるとき、英治の心のなかで、葛藤は起こらないものなのだろうか。
来週以降の、「花子とアン」では、夫婦の葛藤も見せてほしいところである。
また、それを乗り越える英治の姿も、見せてほしいところである。
また、女性解放運動に伴う、男性たちの抵抗と、意識変革も、大いに期待するところである。