2014年1月10日金曜日

不妊治療について。事実婚。婚外子。

不妊治療について。 このところ、事実婚でも体外受精を行うことにした、というニュースがあり、結婚や妊娠、出産に関する論議が、高まっているようだ。 また、少子高齢化とともに、不妊治療が注目されている。 ずっと昔には、子どもというのは、5人きょうだい、7人きょうだいというのも、珍しくなかった。 子だくさんな家庭は多かったものである。 それが、いつ、どうして、子宝が授かりづらくなり、こうして、産婦人科医の手助けまで必要となったのだろう。

私は、生物学を専攻していたので、大学構内では、生殖や繁殖に関する専門用語を使うことは、女子学生であってもふつうであったので、ここではそうした用語を使って、考えてみることにする。 あらかじめ、ご了承願いたいと思う。

私をはじめとして、生物学の学生たちは、繁殖や生殖に関して、専門的な知識を持っていた。 そして、実習も含めて、話題豊富に語り合う環境にあった。 学友の寮で鍋をつつきながら、性と生殖について、とても気楽に語り合うことができたのである。 それで、私が学生であった当時から、試験管ベビーや、体外受精というのは、人間のレベルにおいても、一般的になってきたので、それらの話題を、屈託なく行ったものである。 「人間のレベルにおいて」というのは、畜産においては、とっくに体外受精が行われていたからである。

学生、という年ごろもあり、若かった私たちは、性や生殖行為に関しても、フランクに語り合ったものである。 そうした結論というのが、生物学のゼミ全員一致、男子も女子も一致したところが、要するに、不妊治療というのは、不毛だ、というものである。

というのは、人間においても、馬や牛においても、自然な生殖行為というのは、とても精神的にデリケートな問題だからである。 たとえ、馬や牛に、生殖行動を起こさせようとしても、他者が回数を見守って記録しているような環境では、行動を起こせないものである。

現代の、産婦人科が、どのような見地のもとに、またどのような思想のもとに、またどのような心理的基盤のもとに、不妊治療を行っているのか、わからないが、これは、本来は、とてもデリケートで、秘密のうちに行われるものであって、オープンにした途端に、男女間、夫婦間の、心が、プライドが、傷ついてしまうものなのだ。 そして、プライドを傷つけられたオスが、生殖行為を積極的に行うかというと、これは否である。 オープンにすればするほど、自然な生殖行為は、遠ざかってしまうのである。

また、これは、私たち生物学の学生たちの見解であったが、本当に排卵日に生殖行為を行うと、妊娠にいたるのか、という問題である。 私たち学生の結論では、人間は動物であり、「交尾排卵」ということが起こりうる、そして、むしろそのほうが、有効な妊娠への過程となる、というのが、ひとつの見解であった。

そしてまた、もうひとつ、私がとても思うことがある。 それは、「子どもは天の神様からの預かりもの」という考え方や、「子宝は、コウノトリが運んできてくれるもの」という考え方である。 子だくさんの家庭があるような昔の社会においても、「嫁して三年、子なきは去る」というような、女性への、評価があったものだ。 そして、五体満足の子宝が授かるように、たくさんの子宝祈願、安産祈願の神社・信仰・儀式が、昔から現代でも続いている。

生命というのは、一種、神秘的なものであり、神様の領域である、と私は思うのである。 自分の人生の充実のために、一家の跡継ぎのために、そういった目的で、生きた心と体を、子どもを産みだす機械のように捉えているあたりに、なにか神様の逆鱗に触れるところが、あるのではないだろうか。 生命ということ、ひとりの人間の命を授かる、ということ、その命を、責任持って育てるということを、今一度、問い直すべきではないだろうか。 特に、不妊治療に通う女性は「何のための子宝なのか」という点を、もう一度、考えてはどうかと思う。