2014年4月9日水曜日

「花子とアン」第一週「花子と呼んでくりょう!」感想。

春になった。
春四月、というと、楽しみなのは、NHK朝の連続テレビ小説である。
毎年、というわけではないが、学校や仕事のライフスタイルに沿って、朝の連続テレビ小説を、観ていた数年間があり、その後も、「ちょっと面白そう」と思うと、やっぱりこの半年も、ヒロインと一緒に過ごして行こうかと考えてしまう。
「花子とアン」は、モンゴメリの「赤毛のアン」を日本語に翻訳した、翻訳家である村岡花子さんの生涯をモチーフに、ドラマ化したものである。
文筆を生きがいとした女性であり、作家でもあり、また、私自身が子どものころ、何度も読み返した「赤毛のアン」を日本に紹介したかた、ということで、とても楽しみである。
もちろん、「村岡花子」という名前は、ずっとずっと以前から、よく知っていた。
たぶんずっと子どものときから、アンといえば、村岡花子さん、だったように思う。

その後、複数の翻訳家が、「赤毛のアン」の翻訳に取り組み、アニメ化もされている。
それでも、読み返してみようと思うのは、やはり村岡さんの「アン」である。

一週目は、NHK朝ドラの定番というかテンプレートでもあるが、ひとりの女性の一生または半生を描くものであるので、幼少時代が出てくる。
ヒロインも子役である。
ヒロイン花子は、山梨県の生まれだそうである。
これは、初めて知る事実、というかんじがする。
考えてみれば、作家の生涯は、ドラマ化されたり小説になったりあるいは分析をされたりもするが、翻訳家の生涯は、あまりひんぱんに目にするものではないかもしれない。
時は、明治時代の中盤である。
このヒロイン花子は、幼いころから文才を発揮して、それを目に留めた父親が、当時まだ珍しかった女学校へ入学させて、教育を受けさせることになる。
この女学校は、キリスト教系のミッションスクールである。

どこかで聞いた話だ、と思ったら、昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、晩年の八重と新島襄のふたりが取り組んでいたのが、教育であった。
それも、明治維新のあと、海外から入ってきた教育、キリスト教教育、英語教育、そして、女子教育である。
とすると、言ってみれば、八重の作った学校に、ヒロイン花子が通い始める、ということになる。
これは、素敵なつながりである。

江戸時代と明治維新の動乱の時代を生きた女性、新島八重が、晩年に取り組んだのは、近代化であり、教育であった。
その教育の礎を築いて一生を終えたわけである。
そして、新しい女性教育の基礎の次の時代に、村岡花子の時代がある。

そして、あえて言えば、子どものころ、大好きな「赤毛のアン」を読んで育った私たちの世代へと、女性教育の時代は、バトンタッチされていくのである。

明治時代の山梨県では、まだまだ日本の夜明け、というのは、とても遅く訪れていた状況かもしれない。
それでも、行商という、世間を広く見聞してまわる仕事を持つ父親が、幼い娘の才能を見抜き、どんなことをしてでも、と教育を受けさせてあげるエピソードは、とても素敵なことだと思う。
この、ヒロイン幼少期のエピソードが連なる第一週は、当時の生活や時代背景、社会状況を、よく描いているものだ、と思う。

特に、今は当たり前となっているのだが、小さな子どもたち、男の子も女の子も、教育を受ける権利があるのだ、というあたりで、ずっと昔には、女の子には教育は必要ないと思われていた、という点が、強調されていて、とても大事な点だと思う。
また、ヒロイン花子の母親は、字が読めない、これも、とても大切なことである。

この時代から、子どもたちは、親の世代よりも、もっともっと教育を受けて、親より賢くなっていく。
親の知らないことを、娘が知っている、親ができないことを、娘ができる、ご近所の子どもたちができる、という状況になる。

私が、このあたりがとても大事だ、と思うのは、字が読めない母親が、字が読めるようになる娘に対して、どのように対応するか、ということである。
ドラマのなかでは、親は親として、あたたかい心で包んでいた。
実際には、娘が母親を追い抜かすほど、学問ができる状態になったら、親としては、手に負えないとか、親としてのプライドが傷つくとか、どう扱ったらいいのかわからない、というふうになるのではないだろうか。

実の子どもが、親を追い抜いて行く、そうすることで、世代から世代へと、人は成長していくものである。
こうしたところを、巧みに描いていると思う。

もちろん、NHKの朝ドラでは、意地悪な両親、とか意地悪な家庭というのは、設定として、ないことになってはいるのだが、ここに描かれる、花子の母親は、学問をする女の子にとっては、いてほしい姿、あたたかい母の姿である。

翌週では、いよいよ花子が、東京の女学校へ行く場面である。
とても楽しみである。