子どもたちの教育について。

より高度な教育環境を育むために。
今、日本の子どもたちに、なんだか元気がない。
どうにもひ弱で、どちらかというと、子どもっぽい、と言われているようだ。
「子どもっぽい」と「子どもらしい」というのは、ちょっとちがったニュアンスがある。
「子どもっぽい」という言葉で表現されるのは、未熟であるとか、劣っている、という印象がある。
しかし、「子どもらしい」という言葉のなかには、健康ではつらつとした様子や、物おじしない、闊達な様子が含まれているように思う。
誰にでもニコニコと笑顔で話しかけ、感情のままに涙をこらえることをしないで、素直にはきはきしている印象がある。
日本の子どもたちには、こうした「子どもらしい」素朴さや健康的な様子が欠けてきたようだ。
そして、それは、大人になってからも続くようなのである。

今ここで、日本も欧米諸国も、教育というものを、全体に見直さなければならない時期に来ているようだ。
それは、各国共通の思いであり、検討課題であるようだ。
日本の子どもたちは、義務教育という基本的な教育環境に恵まれている。
そして、衣食住ともに足りているのである。
戦前は、教育を受けることすらままならない、切迫した状況があった。
これは、現在でも第三国と呼ばれる、発展途上国では、依然として続いている環境である。
しかし、この第三国の状況と、文明と生活に恵まれた環境を、比較するのはよくないと私は思う。
これから、基礎教育が行きわたった第三国に対して、リーダーシップをとるため、それは模範を示すという意味であるが、先へ先へと、進めて行かなければならないのが教育なのだと思う。

マズローの心理的欲求の五段階説がある。
ピラミッド型の欲求の五段階の図を、一度は目にしたことがあると思う。
五段階になっていて、下から上へと上昇していくものなので、こうした書き方で説明しょうと思う。

5、自己実現の欲求    ↑
4、尊敬・評価の欲求   ↑
3、社会的欲求      ↑
2、安全の欲求      ↑
1、生理的欲求      ↑

人間が生きていく限り、成長する生き物である限り、上へ上へと目指すという説である。
第三国の子どもたちにとって、生理的欲求、つまり、食べ物、住む環境といった、第一番目の状況が、「今現在の」もっとも緊急な欲求なのである。
それで、これら衣食住の欲求を満たすために、まず読み書きを覚える。
こうすると、少しでもよい職に就くことができて、食べ物を賄えるのである。
また、餓えた両親や妹弟を養うことができる。
今、途上国の学校では、給食をふるまっている、という。
読み書きよりも、給食が目当てという生徒が、いないだろうか。
こうした途上国の子どもたちが、学校に通うためにすごくがんばっているのは、ただ、マズローいうところの、最初の段階の欲求を満たすためではないだろうか。

さて、日本の子どもたちのことを、このマズローの五段階の欲求にあてはめて考えてみる。
そうすると、本当に幼いころから、衣食住はもとより、安全な社会に暮らして、読み書きよりももっと高度な教育を受けることができている。
しかしそれは、戦前の時点で目指した教育の目標だと言えはしないだろうか。

現代の子どもたちには、これらの二段階目までの目標が、すでに与えられている環境である。
そうすると、次に求めるのは、おそらくは必死になって求めるのは、次なる段階、社会的存在の欲求そして、自己実現の欲求である。

「自己実現」とは、本当にむずかしい概念である。
私自身も、この言葉の意味と概念でつまずいてしまうところがある。
しかし、今の私にとっては、なんとなく経験として理解できてきたかんじもしている。
もしかしたら、おこがましい言い方になるかもしれないが、それは、「この世に生まれてきた意味」というようなところにポイントがあるような気がする。
それは、「本懐」とか「使命」とか、あるいはオリジナリティ、あるいは、孔子のいうところの「天命」というところかもしれない。
「その人にしかできない何か」ということである。
とはいえ、世界には70億もの人口があり、70億通りもの職業があるとも思えない。
そういった理屈で人は、いや子どもたち若者たちは、オリジナリティという点でも、挫折してしまうように思われる。
「点でも」という言い方をしたのは、「ナンバーワンよりオンリーワン」という自己実現の視点が、流行したことがあったからであり、競争社会において、ナンバーワンになれなかった人たちが、今度はオンリーワンを目指そうとしたけれど、それはもっとむずかしかった、というもっともっと強い挫折感であるように思うのだ。

これからの日本社会は、読み書きという基礎教育はもとより、自己実現というオンリーワンを目指した教育を、してはどうか、と思う。
どんな時代や環境にあっても、「オンリーワン」になった職業人はいる。
いわゆる、偉人であったり、有名人であったり、職業として成功した人たちである。
こうした人たちは、ナンバーワンでもある。
ナンバーワンの人たちの社会のなかで、オンリーワンたる個性をも発揮しているのである。

私自身が自分のことや、今いる友達、先輩のことを考えてみて思うのは、私自身が、とても強い才能の卵であったことと、その能力を見出してくれた人がいたこと、そして才能の発現の仕方を教えてくれた人、才能を発現する場を与えてくれた人、才能を発現する場を作る方法を教えてくれた人、の存在を思う。
そして、才能の大きさと、目標の大きさに比べれば、小さく弱い、誰でも同じだけ、と言える、心を持っていたこの心を、支えてくれた、人たちがたくさんいたことである。

私は、ここを強調したいと思うのだけれども、こうした、支えてくれる人たちに恵まれることは、第三段階目の社会的欲求、第四段階目の尊敬・評価の欲求が満たされているということである。
それは、とてもコミュニケーション力が高い、ということでもある。
また、精神的にも自分で自分を安定させたり、感情を整理整頓するだけの力がある、ということでもあり、また、自分の周りの社会への気配り配慮ができたり、自分の居場所を作る能力がある、ということでもある。
協調性や調和力も含まれるであろうし、「絆」の社会で、社会のために動くことができる、ともいえるだろう。
現代日本の子どもたちは、すでに、インターネットなどを使って、社会的欲求や、尊敬・評価の欲求を満たそうと、人間関係を育むことに、全力を尽くしているように見える。
また、就職活動においても、人間関係を構成する力や、コミュニケーション力が求められたり評価されたりしている。
これはすでに、日本社会に基礎的な教育環境が整って、次の段階に移行しようとしている状況だといえるのではないか。
これは、すでに「精神的欲求」という段階なのである。

現代日本の子どもたちは、すでに下から二番目、あるいは考え方によっては三番目までは満たしている環境・状況にあるので、一番上の自己実現の欲求を満たすため、ここを目標に定めて、ほんの幼いころから、小学生のころから、これらの教育・訓練をしてはどうか、と思うのである。
それは、教育の考えにあることであるが、小さな石をコツコツと積み上げるのとはまたちがって、もっと高い目標に到達するために、小さいときから、高みを目指すやり方である。
私の周囲の人たちに試しに尋ねてみたところ、絵の才能があって、社会で活躍している人は、もしも幼い子どもたちで、将来的に絵を目指す子どもがいるなら、小さい時から、海でも山でも自然でも、自分の眼で見ることを勧める、という。
なぜなら、今の子どもたちはアニメがとても好きで、絵もとても上手ではあるけれども、アニメを見てアニメを描く、という状況なので、職業作家にはなれないのだそうだ。
次に、小説を書く人の話を聞くと、子どものころから、とにかく本を読むことを勧めたいそうである。
なぜなら、今の子どもたちは成熟を気取っていて本当に小さい時からちょっとした物語や小説を書いて、インターネットで投稿しているが、実際には読んでいる量が少ないので、浅いことしか書けない。
それでいて、へんな表現力だけはついている状況である。(いわゆる手練れ、である)

幼いころに、「将来こうなりたい」という職業を決めてしまうのは、まだまだ小さすぎるかもしれないが、こうした才能や「やりたい」ことを、見抜く目が必要である。
そして、その才能を見抜くのは、同類の成功している人であって、申し訳ないことながら、現在の小学校の先生ではない、と思う。
また、子どもが素晴らしい才能を持っていて、それを伸ばしていくために、経験に即した具体的なアドバイスをしてあげられるのは、同類職業の、やはり成功している人たちである。
「成功している人」というのはとても大事で、成功するための体験を、たくさん持っているのである。
また、こうした専門的職業人に、委員会などで、小学校教育、中学校教育、もしかすると、幼稚園教育やもっと幼いころからの教育環境であるかもしれない。
そうしたことを、たとえば、国として教育制度の大枠で行うことは、とても可能であると私は思う。
しかし、相当高いレベルになると、個人的な指導が必要になってくるようにも思う。

こうした状況を考えて、今後の子どもたちの教育について、もっともっと長期的に時間をかけて、たくさんのことが論じていかれることが、とても望ましいと思う。



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