憲法問題と思想・哲学。

憲法改正が、論議されている。
日本の方向がどちらへ向かうのか、何が正しいのか、国民の意見を二分する、大きな問題となっている。
この問題提起に対して、私自身がどうにもすっきりした意見を持てないことが、自分自身でも不可解であるように感じていた。
しかし、ここまで議論してきて、ようやく何かが掴めた気がしている。
それは、憲法であったり、国造りの方向性であったり、ときには、資本主義、民主主義、右翼、左翼、という問題が、根本的な人間観に基づく、ということである。
つまり、思想や哲学といった方向で踏み込んだ議論をしないと、「何が正しいのか」「どちらへ進むべきなのか」といったことが、正解として、決着がつかないのである。

民主主義や高福祉主義は、「人間は生まれながらにして平等であり、すべての人が差別なく、すべての権利と福祉が受けられるものだ」という主義である。
これは、いわゆる「性善説」という思想に基づいた主義である。

一方で、スイスのような、自衛の軍隊を持った永世中立国では、他の国がいつでも攻撃してくる可能性がある、という前提に基づいて、軍を作り、自国を守っている。
これは、「世の中には善い人もいれば、悪い人もいる」という、「性悪説」の思想に基づいていると言える。

現実には、民主主義を標榜する国、高福祉を理念として掲げる国では、さまざまな問題が起こっている。
たとえば、民主主義の国で、貧困層に対して、特別な優遇措置を行ったところ、貧困層の人たちが、まったく働かなくなってしまった、等々である。
また、高福祉の国に移住してきて、他の民族の風習を広げ、社会を不安定にさせておきながら、人権という点で、何も言わせない状況もあるだろう。

日本でも、インターネットという匿名性の高い討論の場が出来たからなのか、「本音」を言う人が増えてきたように思う。
たとえば、知的障がい者に対しての福祉措置である。
本当に、知的障がい者に対して、健常者と同じ権利を与えてもよいのだろうか。
それでは、健常者のほうが、とても不利になったり、社会が不安になったりはしないだろうか。
日本では今、こうした「現実直視の本音」が出始めている。

私たちは、戦後の生まれであり、平和と平等を、当たり前のように学んで身に着けてきた。
しかし、現代の時代を見渡すにつれて、平等の定義を、疑ってかからざるを得ない状況になってきている。

戦後は、すべての人が、義務教育を受けることができた。
つまり、教育の基礎的な環境はすべての人が同じだったはずである。
それなのに、たとえば同年代でも、年齢を重ねるにつれて、キャリアや人生の状況が変化してきている。
私が思うのは、環境は同じであったはずなのに、なぜ努力をしなかったのか、という疑問である。
努力をして幸せになった人が、努力を怠って不幸になった人のために、人生を費やしてまで何か、貢献しなければならないのだろうか…?という疑問が、常に心にある。
この疑問は抱えたままで、問い続けようと思っている。

性善説、性悪説というのは、代表的な人間観のいくつかであり、他にもたくさんの思想・哲学がある。
それらを、時間をかけてたくさんの人たちで討議して、「本当の人間観」を導き出すことが、とても大切なのではないだろうか。

日本における、憲法改正の問題は、他国、民主主義の国から見ると、とても違和感のあるものなのかもしれない。
しかし、民主主義だけでは乗り越えることのできない問題が、多発しているのが現代なのである。

たくさんの人たちの、たくさんの、時間をじっくりかけた、討論を望みたい。
そして、最良の選択をしたい、と思うものである。