2023年10月5日木曜日

短編小説 サラダとオレ

小説・サラダとオレ 母のサラダはよく覚えていない。 砂糖の入ったポテトサラダか、きゃべつの千切りにソースをかけたもの、 くらいだったかもしれない。 理子のマンションで仕事の打ち合わせをしていたとき、 あまりにも長い作業で私はキッチンの係となった。 軽い夜食は朝まで続く作業の大切なスパイスだ。 「コーヒーじゃないの。水」 ワイシャツを腕まくりした彼が横から突然口をはさむ。 「これからサラダを食うんだろ。 野菜っていうのは、繊細なの。 だから、コーヒーなんかを先に飲んだりしないの」 マグカップを一口ずつ含みながら料理をしようとしていた私は、 驚いてあわてて、ガラスのコップに水をいれる。 「レタスはよく洗ってね、二枚だろ」 そこからの彼の指図は、手際よかった。 「なんでボウルに入れるの?皿に盛りつけながらするんだよ」 「小さくちぎって。最後はまぜまぜして一気に食うんだ」 「トマトはふたつ。ふたつだよ。トマト食いたそうな顔してたくせに」 ってていうか、サラダに作り方とか、盛り付け方とかってあったっけ? 料理は下手だとは思わない。 決して得意だとか趣味だとか言わないけれど、 必要最低限のごはん味噌汁目玉焼きくらいはこなせる。 「トマト、切ったらそのまま置いとくの。 最後に盛り付けんの。並べとくの。きれいにヘタとって」 思わずまな板の上を整理したがる私を制止する。 白いまな板の上に、先のとんがったトマトたちが所狭しと並んだ。 「じゃあ、レタスの上に…おっと待って、先に一度ドレッシングをかけておくんだよ」 学生時代に、つきあっていた男子とちょっとおこずかいを出して、 大きなレストランに夕食をとりにでかけた。 そのときその男子は言ったっけ、 「うまいな、このサラダ」のあとに、 「おまえもいつかこれくらいは作れるようにならんとな」 たぶん、あの一言から、別れは始まっていたんだろう…レタスのちぎり方…。 「皿に並べたレタス、その上にドレッシング、 いいか、最悪のサラダの作り方を教えてあげよう、 ドレッシングが足りない、これが命取りだ」 彼はそう言って冷蔵庫から、理子が作り置きしたバジルのドレッシングを取り出す。 「軽く振り下ろす」 私はいつの間にか、彼の手先になって動いている。 「それから、ちょっと混ぜてもいいぞ」 菜箸でレタスを混ぜる。 「その上に、トマトを並べるんだ。うまいぞ」 なるほど、心の中で感嘆の声が上がっているが、なにしろ手と包丁と布巾とドレシングで手がいっぱいである。 「どうやって並べるの?」 「おまえの並べたいように並べろ」 私はきれいに円を描いて、八割にしたトマトを並べていった。 「仕上げのドレッシングだ。まず真ん中にたっぷりと」 「それから、まわりを三周」 「さらに真ん中にたっぷり」 はあーっ、私がそのなにか美しさみたいなものにみとれるヒマなく、 彼はお盆に水とフォークを載せて理子たちのもとに先に立っている。 「サラダ、それとパン、恋する女はサラダとパンだ」 理子と沙世がわっと笑う。 奥の部屋でパソコンをいじっていた真田君も大笑いしながら出てきた。 「なんで?恋する女はなんでサラダとパンなの?」 私だけが真剣に尋ねている。 「知らん。 恋してる女は必ず、サラダとパンだ。 とんかつなんか食ってる女は絶対に恋していない」 また場がどよめく。 私の作ったサラダに、どんどんフォークが差し込まれる。 「わっ、おいしいじゃん」 「待って、私…」 たぶん料理の間じゅうキッチンの換気扇でたばこをふかしていた彼が、 今私に、フォークを渡す。