NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第3週「常子、はじめて祖母と対面す」感想。

一家の大黒柱であり、唯一の稼ぎ手であった、父・竹蔵を失って、三姉妹と母の四人家族は、生活に困窮するようになる。
父の会社から出されていた援助も、とうとう打ち切りである。
そんなとき、この若い母親は、どんなふうに家族を守って、生活を切り拓こうとしたか。
縁を切ったはずの実家の母親(常子たちにとっては祖母にあたる)のところに、「帰る」という道である。

常子たち三姉妹にとっては、母の母、つまり祖母は、もう亡くなっていると聞かされていたようだ。
子どもたちにとって、生きている人を、死んだという嘘は、本当によくないことだ、と思う。

ここには事情があって、母・君子は、実家から、結婚を反対されて、家を飛び出した、というわけだった。
そのとき、実家の祖母・滝子とは、絶縁状態になったのである。

200年の暖簾を誇る材木問屋の「イエ」、この「イエ」の存続のために、お見合い結婚をさせられそうになったそうである。
それで、「自由に生きたい」「好きな人と結婚したい」と、意志を張って、滝子から勘当された、というわけなのである。

しかし、この結婚はうまくいかなかった、という結論になるだろうか、竹蔵は、結核で亡くなってしまったのである。
そうしたときに、祝福されなかった結婚、というのは、あまりにも孤立していて、つらいものである。

親との確執、親とのケンカは、誰でもあることだろう、と思う。
時には価値観のちがいから、縁を切るほど憎くなる、互いにわかりあえなくて対立することもあるだろう。

けれども、やはり結婚するときには、親から、親戚から、ご近所の人々から、友達から、祝福される結婚でありたいものである。

私はこう思う、古いのかもしれないけれども、結婚というのは、夫と妻とのふたりだけのことではなくて、たくさんの人々を縁結びするものである、と。
そして、若い夫婦は、大きな広い環境のなかで、新しい家庭という種を蒔き、その芽を、一生懸命育てていくものではないか、と。
そのときに欠かせないのが、太陽となり雨となり、大地ともなる、家族であり、環境、人間関係である、と思うのである。


個人主義がとても強くなってしまうと、これが良くない方向に傾くと、孤立状態を生んでしまう。
そのなかで、経済的にも精神的にも、追い詰められてしまうのではないか、と思う。

親との葛藤はあるもので、誰もが親を乗り越えて、大人になっていくものなのだろう。
でも、戻るべきところも助けてくれる人も、やはり親なのではないか、と思う。

話は少し横道にそれるようだけれども、「派遣村」というのがあって、都会で職を失くし、家も失くした人たちが、誰にも頼らずに、都会の片隅の屋根のないところで、年越しをする、という社会問題がある。
私は、この報道を見るたびに思うのだけれども、彼らはどうして、実家に、親元に、帰らないのだろうか?

いったん家に帰って、寝る場所と食べるものくらいは、提供してもらって、力をためて、そこからまた新しい就職先を探せばよいではないか、と思うのだ。
しかし、インタビューなどを聞くと、「ちゃんとした職に就いてから、親に報告する」というのである。
故郷に錦を飾るまで帰れない、ということだろうか。
それとも、本当に、何か、親との溝が深くなってしまって、帰りたくない、ということだろうか。

厳しい言い方のようだけれども、私はこうした、親と縁を切ったとか、親に顔見せできない、とかいう人は、他人とは仲良くできるけれども、血のつながった人とは仲良くできない、という人は、やはり何か本人に問題があって、人間関係がうまく構築できない人なのではないか、と思うのである。
そういう人が、派遣村などに集まって、職もなく家もなくさまよっている、というのは、何かとても根の深い問題であるように思う。


ところで、自由恋愛をめざし、家を出て恋愛結婚をした、君子の生き方は、当時、昭和のはじめごろ、としては、とても珍しいものだった、と言えると思う。

父と母が、そうした自由恋愛のもとに結婚したから、常子たち三姉妹も、近代化する日本社会のなかで、一歩リードした生き方、ライフスタイルを生きることになったのではないか、と思われる。

祖母・滝子の気持ちもわからないでもない。
実はきのう、「スタジオパークからこんにちは」を見てしまって、(ときどき見る)ゲストが、滝子役の、大地真央さんだったので、本当におきれいなかたで、みとれてしまった。
それでお話を聞いたのだけれども、役作りという点で、親子、母娘、という点で、とても真剣に取り組んでいらっしゃったと知った。

この祖母・滝子にしてみれば、もしも自分が母親だったら、可愛い娘が、自由恋愛をして「この男性と結婚したい」なんて、誰かを連れてきたら、どんなふうに思うだろう。
うちの主人は「まずぶっとばす」と言っている。

しかし、もしもっと冷静になって、この男性を見てみれば、それは、娘よりも大人であり、人生を長く生きてきて、人を見る目も確かになっているところであるから、「竹蔵」この男に、娘をまかせるわけにいかない、というところは、確実である。

なにしろ、竹蔵は、幼いころに両親を失っていて、親戚じゅうをたらいまわしにされながら育った経歴がある。
人間は経歴でも育ちでもないかもしれないが、それは、娘の結婚を考えれば、建前に過ぎない。
第一、実際に、竹蔵の弟は、定職に就かず、「一山当てる」ことを目論んで、ぷらぷらしているではないか。
この弟が、いずれ娘たち一家に、「たかり」にやってくることは、火を見るよりも明らかである。
そんなことくらいは、親である滝子には、お見通しである、ということなのだ。

また、滝子の「イエ」と、「シゴト」であるが、滝子自身が、「大変だったけれども、この道を生きてきてよかった」という強い思いと実感があるのではないだろうか。
そして、何よりも、仕事に誇りを持っている。

「暮しの手帖」の編集者である常子の祖母は、早くから、働く女性であり、管理職でもある、ということなのだ。
そうした祖母の生き方、仕事の仕方から、常子が学んだことも大きいということだろう。

働く女性として、娘にも、生きがいのある、張り合いのある人生を送らせてあげたい、それが、母親としての思いやりであり、娘への愛情だったのではないか、と思うのである。

娘が、家業を継がない、ということは、母にとっては、全人格の否定であり、これまでの母の全人生の否定だったのだろうと思う。
「母親をばかにしているの?」ととても悔しいだろうと思うのである。
親には親の、メンツというものがあって、それを守るために、我が子から尊敬されるために、日々、奮闘しているものだ。

そうした母の気持ちが、なかなか伝わらない。
でも、娘としても、人生経験のある年上の女性から、その体験に基づく教えを、素直に受ける姿勢も、大事だったのではないか、と思える。
言い方や口調もあるだろう。
娘は娘として、母親への愛情や尊敬を、もっと表してもよかったのかな、と思う。
「母親への尊敬」を表さないで、自分の我を通したあたりは、むしろ「お母さんとそっくりの強情娘」ということになるわけだ。

どちらから、セトモノであることをやめて、受け入れる気持ちになってもよいように思った。


ところで、「代々続く家を継ぐ」というのは、そんなに嫌なものなのだろうか?

私は、北海道で育った。
北海道は、開拓100年を少し過ぎたところであり、歴史が浅い。
それなので、「代々続く家」なんて、誰も持っていなかった。
だから、「実家の家業を継ぐ」「継ぐべき家業がある」という人は、珍しかった。
本州から来た友達は、けっこう「家業」のある人が多くて、そういう友達をうらやんだものなのである。

結局のところ、人は、自分にないもの、他人が持っているものが、うらやましくて仕方ないのかもしれない。
けれども昨今の、時代劇ブーム、歴史ブームを見ると、誰もが、個人主義にはあきあきしてきて、ルーツ、アイデンティティを、求めているような気がするのだけれども、どうだろうか?

これから、母と娘、祖母と孫娘は、どんなふうに「女性の幸せ」を追求していくのだろう?
本当に、楽しみな「とと姉ちゃん」である。



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