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浅田真央さん。ソチに向けて。

フィギュアスケートのシーズンが始まっている。
今年のフィギュアは、来年2月のソチ冬季オリンピックの選考を兼ねているから、とても厳しいものだ。
だからこそ、白熱した試合を見ることができる。

私が以前から個人的に好感をもって応援してきた、浅田真央選手も、かねてからの目標であったトリプルアクセルも成功させて、よい結果を出してきている。
本当にここでは、がんばってほしい、と思って、どきどきしながら応援している。

浅田さんの、ショートのプログラムは、ショパンのノクターンである。
これは、世界的にとても人気の高い曲であり、私もとても好きな曲である。
今回の浅田さんのプログラムにあたっては、マリア・ジョアン・ピリスさんが演奏しているそうである。
ピリスさんの演奏の独特な表現は、やはり硬質で力強い点にあるのではないか、と思う。
ショパンはピアノの詩人と呼ばれ、なかでもノクターンは「夜想曲」であるので、たいていのピアニストは、やわらかい、温かい春の夜のようなイメージで演奏するのであるが、パリスさんは、その独特な感性と解釈で、誇り高い音で、このノクターンを表現している。
これが、もともと力強いスポーツである、フィギュアスケートと、マッチして、浅田さんのエネルギッシュな滑りに独特の印象を与えている。
ノクターンの解釈には、初恋や、あるいは、夜の窓辺で恋人を思うようなイメージがあり、浅田さんとしても、恋心を表現しているところである。
国際競技では、ここに女性的な表現を求めるところであるが、浅田さんが日本人選手として、国際競技での基準を追い求めて、欧米的に濃厚な恋情を表現するのか、それとも、アジアのほっそりとした女性の、清廉な初恋を表現するのか、ここからが勝負どころである。
私は、浅田さんの個性から、清純なさわやかな、それでいて毅然とした恋心を見たいところである。

次に、フリーの曲であるが、これは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番である。
ここは、これまでの演技で、浅田さんなりの解釈・表現と、見ている人たちにとっての伝わってくるものとの間で、多少のギャップを感じるところである。

見ての通り、浅田さんは、全体に「かわいらしい」というイメージがある。
これは、個人の個性であるから、とても大切にしたいところである。
年齢がどうあろうと、少女のようなかわいらしさは、もって生まれた個性であるから、それを生かしてほしいところだ。
しかし、ラフマニノフの協奏曲は、浅田さんの「かわいらしさ」とは、ちょっとイメージが重なりずらい。
ここで、なぜ浅田さんが、ラフマニノフを選んだのか、そして、「私の人生」をテーマとしたのはなぜなのかを、観覧者として、よく理解したいところである。

浅田さんは、ジュニアのころから、その天性の才能が評価され、たくさんの人の目のなかで、スケートを続けてきた。
その間には、たくさんの障害があったにちがいない。
テレビで放映されるプレッシャーも、次の演技を期待されるプレッシャーも、あるいは人生上で、お姉さんとの間で、お母さんのことで、本当に、若くして幼いころから、ほかの少女たちとはまったくちがう、厳しい現実社会と接してきたのだろう、と思われる。
そして、その現実の問題や障害と、直面し、対決して、「わたしはスケートが好き」という選択をいつも選んできたのではないか、と思う。

ラフマニノフのピアノ協奏曲は、曲だけ聞くと、大きな森が、大きな嵐に揺られているような、激しさがある。
あるいは、大河の荒れたうねりのような、時代のうねりのような、大きな嵐を思わせる曲である。
これが、浅田さんが直面してきた、人生の厳しさなのではないか、と思う。

また、この嵐をくぐり抜けたときに、あたかも春の日差しのような、明るい世界が開ける。
これは、浅田さんご自身が、たくさんの障害を乗り越えたときの、充実と喜び、そして、メダルという栄光なのではないか、と思う。
厳しい練習をへて、栄光をつかんだとき、たくさんの観衆に笑顔で手をふるとき、何よりも、やり遂げた、という人生の充実を、感じさせてくれる。

時に、人は、フィギュアスケートという、表現を持ったスポーツに際して、女性らしさの表現や、恋情の表現まで求めてしまうのだが、浅田さんの人生とその表現には、人間として、生きてきた、成長と練磨と充実がある。
それは、やはり、常に世界レベルを目指してきた彼女ならではの、彼女にしか表現できない、世界観がある。
これは、たとえば女性が仕事を持って、その仕事を成功させようとしたとき、そこで出会う障害と、それを乗り越えた充実にも、重ねられると思う。
一女性として、素晴らしい人生を、歩んでいるのである。

これからも、浅田真央選手を、たくさんたくさん、応援し続けたい。