この一年間、2013年の7月からずっと、東京新聞紙上で連載されてきた小説「親鸞」が、いよいよ大団円、という状況である。
はっきりとしたお知らせはないものの、丸一年というのは、連載小説としては、ちょうど、完結する節目ではないだろうか。
作家の五木寛之氏が、数年にわたって、小説・「親鸞」を書き続けてきて、その主人公の親鸞が、物語のなかですでに80歳を過ぎている。
親鸞の人生の終焉が、この小説の完結であると考えても、読者の捉え方、受け止め方としては、正しいものであるだろう。
新聞小説の連載というのは、不思議なものである。
毎日、一段の小説を、日々読んでいく。
そして、主人公の親鸞と共に、2013年から2014年を、一緒に生きていくようなものである。
思い起こしてみれば、まずこの「完結編」は、覚蓮坊という一人の僧と、商人の常吉が暗夜に密会をする場面から始まった。
覚蓮坊が何を企んでいるのか、常吉の出自がどうなのか、まったくわからない状態で、読者としても、暗夜に船を漕ぎだすように、読み進めて行ったのである。
その後、覚蓮坊が、法然上人の弟子であり、親鸞もまた法然の弟子であったことから、お念仏に関して、それぞれの分派ともいうべき、信仰上のちがいが決定的であったことが判明してくる。
つまり、親鸞が専修念仏を説いたのに比べて、覚蓮坊は、どちらかというと、権力や格差社会のなかの上層部に取り入るような念仏を説いたのである。
また、親鸞が、格差社会のなかの、どちらかというと下層部、あるいは、河原で暮らす人々や、重い病気で苦しむ人たちの救いを説いたのに対して、覚蓮坊は、そうした格差の下層部の人たちをさげすみ、憎んだのである。
法然の念仏が広がったころ、親鸞や弟子たちがまだ若い僧であるころに、こうした信仰上の対立が起こり、そのときに、宗教的弾圧が起こる。
若い僧たちが、斬首刑に遭うのである。
竜夫人という女性が関わっていた事件であった。
竜夫人はその後、さまざまな流転を経て、宋に渡り、大商売人として、日本国に帰ってくる。
斬首刑の際の若い僧のことを、復讐とまでは呼ばないだろうが、この世に残すためである。
「親鸞」完結編では、信仰上の対立と、宗教への弾圧と、それに関わる女性たちや下層階級の人たち、その人たちの心の悲しみと人生と、救いが描かれてきた。
また、親鸞というひとりの人間が、家族を持って、その家族との心の交流も、深く慈しみをもって描かれてきたように思う。
特に、実の息子である善鸞が、立派な僧である父親のもとで、自己の確立のために葛藤するさまは、本当によく伝わってきた。
誰もが、親からの自立のときに、このような思いをするものではないだろうか。
その善鸞を支える妻・涼の気性が、女性のさがとして描かれていたことも、とても印象的である。
結果として、信仰上のちがいから、善鸞は親鸞から断絶されることになる。
そして親鸞は、京の都で、晩年を迎えている。
それは、静かな晩年である。
心から信頼できる弟子・唯円が、身の回りの世話をしている。
親鸞の毎日は、穏やかに写経をして過ぎていく。
竜夫人とその当時のこと、竜夫人が建てた寺のことも、また小説の当初に登場した商人の常吉、対立した覚蓮坊も、世を去った。
静かな晩年の暮らしに寄り添うのは、実の娘の覚信である。
この覚信は、妻である恵信との間に生まれた実の娘である。
妻の恵信は、かつて流罪された新潟の地に残してきた。
恵信と娘の覚信は、母娘らしく、便りを出して、それを親鸞に結んでいる存在である。
物語の終結まであとほんの一週間くらいであろうか。
年老いて人生を終えようとする親鸞と、そこに寄り添う娘との、暮らしと、娘の眼から見たひとりの父親、ひとりの人間像が、深く心にしみてくるこのごろの連載である。