今年2014年の国会会期末まで、あと一週間である。
大詰めになっているのは、憲法9条、集団的自衛権の解釈の問題である。
ここで、折衝が続き難航しているのは、連立政権である公明党が、この解釈をめぐって、「平和の党」として、自民党とぎりぎりの攻防を続けているからだろうと思う。
公明党支持者だけではなく、日本中の平和を望む国民の期待を背負って、公明党が今、自民党とせめぎあいをしている。
考えてみれば、野党筆頭である民主党との党首討論もなんとなくもやもやと終わってしまったものだった。
民主主義の政治が、このままでよいわけがない。
そして、折衝の論点となってきたのが、公明党をめぐるさまざまな問題提起である。
たとえば、公明党という政党が、日本では珍しく、宗教団体を支持母体としている政党である、という点である。
日本では珍しいと書いたのは、海外では、宗教を思想基盤とした政党は、決して珍しくなく、むしろ常識的なことであるからである。
ともかくこの、公明党の支持母体が創価学会という宗教団体であることで、例の「政教一致」という批判が飛び出してきた。
公明党の政治に関して、必ず飛び交うのが、この「政教一致」「政教分離」という言葉である。
そして、憲法20条の、政教分離の原則の照らして、この公明党の存在が、憲法に反するのではないか、と批判するのである。
このあたりでそろそろ、憲法20条の政教分離の原則について、正しい認識をみなが共通で持つようにしてはどうか、と思う。
「政教一致」といって思い出されるのは、たいていの人たちが、学校の義務教育でならった、歴史のなかの、政教一致の政治を行った政治家のことである。
道鏡というあやしげな宗教者のいうことを、全面的に聞き入れた政治家がいた。
そうすると、僧が権力を握ることになる。
それで、宗教で政治判断をすることが、政教分離なのではないか、と思い込んでしまった感がある。
実際には、現行の憲法における政教分離の原則の、発生するところは、別の政治事象によるものである。
すなわち、現行の憲法が作られた、第二次世界大戦後の状況である。
日本の第二次世界大戦は、国家神道、つまり神道が国家権力から、国民に対して、押し付けられた形になった。
神道の国教化である。
また、天皇への信仰も、同じく、権力から国民に強要されたものである。
こうして、思想・信条を厳しく取り締まって、国内の集結をはかったのが、当時の軍部政府である。
大戦当時、治安維持法があり、この法律に触れたのは、平和を説くすべての人々、すべての団体であった。
だから、国家神道とはちがう、日本古来のお寺、仏教なども、弾圧されたのである。
そして、「神風が吹く」というような、日本国民挙げての、あやうい精神状態に持ち込まれたのである。
憲法は、権力を縛るもの、権力が行き過ぎるのを抑制するものとして、制定されている。
現行の憲法を見ると、権力が、権力を持った人が、どんな発想でどんなことをするのかが、よくわかって、ちょっと興味深いところもある。
第二次世界大戦においては、権力は人々の「心の自由」を拘束し、縛り上げたのである。
そして、宗教と思想をコントロールすることで、人々の発言を奪ったのである。
そういった意味で、集会・結社の自由、言論の自由が、同憲法20条で保障されることとなった。
第二次世界大戦中には、戦争反対を説く、共産主義者、社会主義者、お寺のお坊さん、平和を訴えたパンフレット、平和と平等を訴える街頭演説まで、すべて処罰されたのである。
民主的な政治をして、民主的な世の中にするためには、宗教・思想・言論の自由が保障されなければならない、これが、国家権力によって国民に宗教を押し付けてはいけない、という、政教分離の原則である。
こうしたいきさつを考えると、現在の公明党には、それはあてはまらない。
公明党が政治的な力を使って、国民に宗教への帰依をせまった、という話は聞いたことがない。
現在問題となっているのは、宗教を持った人たちが政治を行うのはどうなのか、という個人的な批判であるように思われる。
こうした、憲法20条の原則をあてはめると、たとえば、総理大臣が個人的な思想信条の自由をもって、靖国参拝をすることは、憲法に抵触する行為ではない。
しかし、総理大臣が自分が靖国神社への信仰を信じているからという理由で、日本国民に神道への帰依を求めるとしたら、これが政教一致である。
しかしもともとは、第二次世界大戦中の国家神道の総本山は、靖国神社であったわけである。
だから、その靖国に今も参拝する、このことのほうが、戦争中の国家神道への逆戻りを意味するのではないか、と国内外から慎重論が持ち上がっている次第である。
思想・信条の自由のなかには、「布教活動の自由」が含まれることも、忘れてはならない。
憲法20条の論議は、これからたくさんの人々が、自由に信仰を持ち、心の自由を保障されるように、活発に行われることが期待される。