2014年12月31日水曜日

大みそか・今年もお世話になりました。

2014年も大みそか、31日となった。
「もうひとつ寝るとお正月」である。
今年、2014年もいろいろなことがあった。
その締めくくりの一日を、どのように過ごされているだろうか。

今年の私の大みそかは、穏やかに静かに一日が過ぎている。
年末までカウントダウンしてがんばった障子の張り替えも、一昨日、無事終了した。

日記帳の「今年をふりかえって」の欄を書き入れるのに、一週間かかったけれども、なんとか書き終えて、やっぱり、充実した佳い一年だった、と思う。
そして、来年の目標は、というと、また一週間を必要としながら、きっと日記を書きこむことになるだろう。

このブログ「朝倉聡子・日々のつぶやき」も、今年は何度かの休養を入れながら、なんとか一年間、書き続けることができた。
読者の皆さまには、ただただ、ありがたい、ありがとう、という気持ちでいっぱいです。

いろいろなことがあったけれど、本当に今年も、お世話になりました。
たくさんのチームメイト、仲間の皆さんにも、とても懐かしく、温かい思いを感じています。

どうぞ、よいお年を。
今年も本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

朝倉聡子

2014年12月31日


2014年12月30日火曜日

ディズニー映画「アナと雪の女王」感想。--ネタバレあり。

2014年も、残りわずか、となった。
大みそかには紅白歌合戦も放送される。
紅白歌合戦は、その年の社会現象や話題になった言葉などを取り上げて企画が行われるので、一年を振り返りながら年越しをするのに、本当に楽しくてよい番組だと思う。
私も、今年の社会現象を、ひとつ取り上げてみたい。
話題となった映画として、ディズニー映画「アナと雪の女王」がある。
この映画はミュージカル仕立てとなっているが、劇中歌であり、テーマソングでもある「Let it go」は、とても人気の歌となった。
いわゆる「レリゴー」、日本語歌詞では「ありのままで」である。

この「アナと雪の女王」の感想を、ストーリーごとに、追いかけてみたい。
「ネタバレ」であるから、年末年始にお子さんと楽しもうと予定していたかたは、お許し願いたいと思う。

北欧、が舞台となったらしい。
ある平和な国に、王様とお妃さまがいらっしゃった。
そこには、小さな姉妹がいた。
姉がエルサ、妹がアナである。
この、姉のエルサは、生まれつきに魔法を使える体質であった。
手で触れたものが、雪のように凍りつくのである。

幼い姉妹たちは、こうした魔法の世界に暮らしているのかもしれない、小さな妹は、まだ眠い姉を起こす。
「ねえ、雪だるま作ろう!」
姉は起きると、両手を少し曲げて、輪を描くようにする。
そうすると、両手の間に、雪と氷の結晶が生まれて、それが小さな雪だるまになるのだ。
幼い姉妹は、こうして魔法で遊んでいた。

ところがある日、姉のエルサがこの魔法を使っているときに、小さな氷のかけらで、妹のアナの頭に傷をつけてしまう。
両親は心配して、山のドワーフのところに相談に行く。
ドワーフの長老の言うことには、氷のかけらが、頭に傷をつけたのでよかった、ということだ。
もしも胸に刺さったのなら、取り返しがつかなくなり、アナは、凍ってしまうというのだ。

姉のエルサの成長と共に日に日に強くなっていく魔法の力。
両親は、とってもいい人たちだったのだが、とても心配して、エルサの魔法を隠そうとする。
城じゅうの窓を閉め切り、お客さんもあまり呼ばないようにして、エルサを人目から隠そうとするのだ。

そうして、姉のエルサは、一人、部屋に閉じこもりきりになる。
妹のアナは、ドアの前で、「ねえさん、雪だるま作ろう!」と呼びかける。
これが、ミュージカルのなかでもとても人気の曲「雪だるま作ろう」である。
妹のアナの、天真爛漫で疑いを知らない心が、そのまま表れたような、かわいらしい呼びかけの歌である。

しかし、アナの声に、姉のエルサは答えることがない。
とても孤独なのだろう。

そしてある日、両親である王様とお妃さまは、ご公務のため、大きな船に乗って、外国へ行くことになる。
ところが、この船が難破してしまうのである。
ご両親が亡き人となった姉妹は、暗い城のなかで、寂しく暮らしている。

ある日、ここからが物語の大きな展開となる。
姉のエルサが、20歳となり、成人にともなって、王位を継承することになる。
そのお披露目晩餐会が行われることになる。
これまで閉められていた窓という窓が開け放たれ、人々が集まってくる。
他の国からも、お客さんがくる。
この晩餐会、舞踏会に、浮き立つこころが、妹アナの「うまれてはじめて」の歌によく表現されている。
こんなふうににぎやかに人が集まって、きれいなドレスも着て、もしかしたら、素敵な恋人に出会えるかもしれない。
姉が20歳であるから、妹は16歳くらいになっているであろうか、初々しい少女の気持ちが「うまれてはじめて」のときめきに表されている。

この舞踏会に出席してきた、ハンス王子。
アナはこの王子様と、恋に落ちる。
このときの歌もとてもかわいらしく素敵である。
ハンス王子の好きなものは「サンドイッチ」「わたしもよ」「わたしたち本当によく似ているわね」
ということで、すぐさま結婚の約束をする。
そして、ふたりそろって、姉のエルサのところに、結婚の報告に行く。

ところが、孤独と悲しみと憎しみでまいっていたエルサにとって、これは、ショックであった。
「絶対に許しません!」
怒りとともに感情が爆発すると、抑えていた魔法の力も爆発する。
そこいらへんのものをすべて凍らせてしまったエルサは、遠くの高い山を目指して、城を家出する。

このときに歌うのが、「レリゴー」である。
日本語に訳するときに、「ありのままで」と訳したために、歌としては素晴らしい歌になったのだが、その歌だけ聞くと、ストーリーの意味をはかりかねる状況になる。
個性を隠すのでなく、外見を繕うのではなく「ありのままの自分らしさを大切に生きよう」という意味だと、とらえがちである。
しかし、本来のストーリー上のエルサの意味は、もう魔法という欠点や悩みを、人々から覆い隠すのはやめよう、爪を隠すのをやめよう、という意味である。
魔法の力を抑えに抑えてきたけれども、「ダメならダメなりに好き勝手でいいじゃないか」と思う。
それで、家出をして、山のてっぺんに登り、思い切り魔法を使って、雪と氷でできた城を作る。
そして、国と街中を凍らせてしまうのである。
「レリゴー」は、こうした、悲しみと憎しみの発露の歌なのである。

残された妹のアナは、山の上まで、姉を説得に行くことにする。
姉によく話をして、街の氷の魔法をほどいてもらおうとするのである。
「お姉さんに話せば、本当に伝わるの?」という問いかけにも「大丈夫よ、だってあたしたち姉妹なんですもの」と、いたって楽観的である。
出発のときに、アナは、王女らしく、すでに婚約者になったハンス王子に、国のすべてを任せることを宣言する。

雪と氷に閉ざされた山で、アナは、山の男クリストフ青年と出会い、彼のトナカイ馬車で、エルサの氷の城に向かう。
ここからは、氷の冒険物語である。
雪は本当に美しい。
雪だるまの道化・オラフも、友達になる。
クリストフはカジュアルな青年で、アナと馬車で連れ立って行くところは、まるでドライブをするボーイフレンド、といったところだ。

しかし、やっとたどり着いた氷の城で、姉のエルサは、妹のアナの言う言葉を聞こうとしない。
そればかりか、氷のモンスターまで魔法で出現させる。
そのときに、妹のアナは、再び、エルサの魔法の氷で怪我をしてしまう。
その怪我は、今度は頭ではなく、胸に刺さった氷のかけらだった。
そのときから、アナの身体は凍り始める。
髪の毛からだんだん白くなっていく。
この氷を解かすのは、「真実に愛する人のチュー」だということである。
青年クリストフは、アナの愛する人って誰だったっけ?と考えて、婚約者・ハンス王子を思い当たる。
そして、街までアナを連れて帰る。

このあたりの、クリストフの表情はどこか悲しい。
見ていても、「真実の愛って、本当はクリストフのほうが、仲が好さそうなんだけど」と思ってしまう。

ここからが、ネタバレのどんでん返しである。
なんと、ハンス王子は、他国では13番目の王子で、王位を継承するには遠すぎる。
それで、エルサとアナの国にやってきて、まんまとアナと婚約し、エルサを亡き者にしようとするのだ。
つまり、アナの国の乗っ取りである。
王様になりたいのである。

まったくもって、前半のハンス王子のイケメンぶりを考えると、この裏切りはひどすぎる。
そして、氷の城に行って、エルサを捕まえてきて、手錠までかけてしまう。

すでに、アナの身体は凍り始めているが、街中も港も船までも凍っている。
その状況のなかで、追いかけっこが始まる。
逃げるエルサ。
そこを、本当にアメリカ映画らしいが、ハンス王子は、剣を持って追いかけるのだから、こわい。

まさに今、ハンス王子が、エルサに剣を振り下ろしたそのとき、アナが「わたしのお姉さんよ」と、エルサをかばう。
そして、本当にアメリカ映画らしく、ハンス王子の剣は、アナの身体に打ち下ろされるのである。
アナはその一打ちで、すべて凍ってしまう。

そのときである。
エルサはやっと気づいた。
姉を思う、真実の愛に。
妹がここまで姉を信じて守ってくれたことに。
エルサは一粒の涙をこぼす。
その涙が、凍りついたアナを溶かし始めるのである。

そして、魔法が次々に解けはじめて、街中も、港も、溶けていく。
街は、夏をとりもどすのである。

その後、エルサとアナは、仲良く暮らす。
エルサは、魔法のコントロールの仕方を覚えて、国民のために、スケートリンクを、魔法で作ってあげて、国民はフィギュアスケートを思い切り楽しむ。

じゃあ、真実の愛ってなんだったのだろう?と思う。
本当の愛って??

アナの「うまれてはじめて」のときめきが、大人の気持ちに育って行ったとき、そこに気が付いたのかもしれない。
それとも、アナが生まれつき持っていた純粋な心こそが、真実の愛だったのかもしれない。

本当にディズニーらしい、明るくて楽しくて、そしてアメリカらしい茶目っ気のある映画だった。
アナはクリストフに、新しい荷馬車をプレゼントする。
「飲み物入れつき」だそうである。

何度でも何度でも、見直したい映画である。
何度でも何度でも、歌いたい歌である。

エルサにとって、「ありのままで」とは、どういう意味だったのだろう。
明日の紅白歌合戦では、出場者全員で、歌われるそうである。
歌おう♪
歌い忘れのないように、年忘れである。
「ありのままで」私は来年もこれでいきたい。


2014年12月27日土曜日

NHK「マッサン」第13週「急いては事をし損じる」感想。

朝の連続テレビ小説「マッサン」も、半年の半分、三か月の放送を終えた。
これから一週間は、年末年始のお休みとなる。
次回の放送は1月5日だそうである。
ぜひとも見逃しのないように、録画予約をしたいものである。

今週の「マッサン」は、先週放送分から4年の歳月が流れていた。
「マッサン」をずっと見てきた人ならわかるが、ウイスキー造りには、樽で寝かせる熟成の期間が5年は必要ということが、すでに知識として前提になければならない。
しかし、鴨居商店の大将ことカモキンは、まだ熟成が4年目なのに、商品として出荷を命じるのである。
背景には、不景気があった。
商売というのは、面白そうだ、と思うことがある。
不景気もあれば、好景気もあり、ひとつの商店でも、大繁盛のときもあれば、全然うまくいかないときもある。
経済というのが、人の気分に左右される、というのも、不思議な現象である。
ともかく、あれだけ繁盛していた鴨居商店が、経営危機に立たされたのである。

ウイスキー造りは、とてもコストがかかるようである。
それは、作り始めてから製品化するまでに、歳月が必要だからである。
樽を寝かせてある間は、商品を寝かせてあるようなものである。
在庫であり、倉庫という空間を消費しているわけである。

ところで、今週の題名は「急いては事をし損じる」である。
「急がば回れ」とも相通じることわざだろうと思う。
世の中には、「急いてはいけない」ものごとが、たくさんあると思う。
たとえば、子どもの成長である。
這えば立て、立てば歩めの親心、ということわざもある。
しかし、子どもの成長がいくら早いといっても、心身共に成長するためには、それ相応の年月がどうしても必要なのである。
草をひっぱっても、伸びることはない。
それと同じように、ウイスキーの熟成を一年早めろ、と言われても、速くできないものはできないのである。

心も同じかもしれない。
傷ついた心に包帯を巻いて、その傷がひそかにじっくりと癒えていくまでには、自然治癒力と時間が必要である。
この時間を短縮しようとすると、今回の「マッサン」で描かれたような、失敗を呼び起こしてしまうのである。

政春には、本物のウイスキーがわかっている。
しかし、商売を本業とするカモキンには、本物を追求することのほかに、たくさんのお客様に販売する、というサービス業の精神がある。
これはこれで、商売の精神としては、本物であるだろう。

きょう、土曜日の放送では、「信念」という言葉が出てきた。
まったくやっかいな言葉である。
もしも世の中に、信念などというものがなかったら、もしも仕事にも人生にも、信念など要らなかったら、人生も社会も、とても楽になるにちがいない。

それにしても、今年の年末年始は、ウイスキーを口にする人も多いのではないか、と思うが、スモーキーフレーバーというのは、どういうものなのだろうか?
現存するニッカウイスキーは、アサヒビールに買収されているが、私が北海道にいたときから、経営悪化のうわさが絶えなかった。
今でも、サントリーウイスキーに比べると、ニッカのほうが、少数派だと言えるかもしれない。
それでも、100年経ってみれば、「信念あるウイスキー」のほうが、人気が出そうではないか。

政春VS鴨居欣二郎の勝負は、今年のお正月にかかっているのである。

2014年12月25日木曜日

クリスマス内閣に来年を考える。

師走の人々の気持ちがどんなものかに関係なく、クリスマスイブに第三次安倍内閣が発足した。
この内閣がめざすところは、憲法改正であるらしい。

年末、暮れも押し迫り、来年の手帳や日記帳を買い求める。
新しい年はどんなふうにしようか、どんなふうになるのか、想像してみる。
でも、私の想像は、とてもゆううつなものだ。

今年は、集団的自衛権で、さんざんな目に遭った、と思う。
私がかつて目指していたものは、北欧のような高福祉社会であった。
もしも今から来年にかけて、高福祉社会を目指すなら、一生懸命書いて、書くことに喜びも生きがいも見出すことができたかもしれない。
けれども、結局は、消費税は、国防軍に使われることになった。
これではあの、野田内閣のときに、がんばったことが報われないどころか、私が目指していた社会制度からはますます遠ざかることになる。

そんな仕事を来年も続けるのか、と思うと、新年のことを予想してみても、ゆううつなだけなのである。
もともと、集団的自衛権も、無茶だと思ってきたし、やりたいとも思っていなかった。
それが、あっという間に決まってしまって、その後のフォローをしなければならなくなった。
国民の大半が反対であった集団的自衛権の、私自身も反対であった自衛権の、論理的な裏付けの仕事をしなければならなかったのは、苦痛であった。
今年はまったく面白くない一年であった、とつくづく思うのである。

これで、朝ドラの感想、という記事に思い入れがなかったら、とっくにやめていたであろう、ブログ記事作成の仕事である。
いっそ、今年いっぱいで朝ドラ感想の未練を断ち切って、政治からは一切手を引こうか、と真剣に考えている。

安倍内閣は、暴走していると言われているが、少なくとも、急ぎすぎている。
急進派、というのは、こういうものなのか。

世の中の混乱や社会不安は、見えていないのだろうか。

東日本大震災から、3年と9カ月の時が流れている。
震災のあとは、政府もメディアも国民も力を合わせて一生懸命立ち向かった。
復興のために力を合わせた。
けれども、メディアというのは、政府に常に反抗して、政治に鋭く目を光らせているのが、本来の姿なのではないだろうか。
このところは、政府VSメディア、という構図もようやく見えてきたかんじがする。
これが、一番自然な形なのではないだろうか。

大震災の傷跡が、ようやく4年経って、本格的に表れてくるころだ、と言われている。
私も正直言って、今年は身体がまいってしまって、お医者さんにもかかった。
「震災の疲労が出てくる時期なんですよ」と言われた。
休養を勧められているなかを、ひとり、書かなければならず、本当にまいってしまった。
なかなか休みもとれなかった。
メディアの人たちがたくさんの人が、順番で記事を書けばよいところを、私はひとりで書き続けてきたと思う。
心身共に、疲労してしまった、というのが、実情である。

これから、国民大反対の憲法改正に取り掛からなければならない、となると、来年も仕事をしたら、まさに命を削って、もう長生きできないのではないか、と悲観的な気持ちにもなってくる。
私が書けば、なんでも実現できるように錯覚している人たちが、どこかにいるのではないか、と思えて、その欲求の暴走に、哀しくなってくる。

憲法改正など、やめようではないか。
私も、やめたい。
世の中がそのように進めば、ついていくしかないのかもしれないが、以前のように、瞳をキラキラ輝かせて、毎日毎日、ブログを書くことが楽しくてたまらなかったときとは、うってかわった様相である。

このようなゆううつな仕事を、来年もいやいやながら続けていかなければならないのだろうか。
メディアの人たちも、本当に心から、これを実現したい、と強い思いとエネルギーを持っている人たちが、いったい何人くらいいるのだろうか。
本当はみんな、休みたいのではないだろうか。

私も、休みたい。
静かで穏やかな、新年を生きていきたい、と思うのだ。
心から望んだ文章を書いていきたい、と思うのだ。



第三次安倍内閣に思う。

昨日、2014年12月24日。
第三次安倍内閣が発足した。
戦後でも、「第三次」とまで内閣が続くことは、例が少ないそうである。
また、長期政権となり、その「長期」は、首相の求心力の強さを表すことになる。
他に人材がいない、ということでもあるかもしれない。
人材というより、ライバルといおうか、向かうところ敵なし、である。

この安倍内閣が、第二次の時代には、集団的自衛権の拡大解釈を決定した。
「この道しかない」という安倍内閣は、次の道しるべとして、集団的自衛権の法整備と、それから、憲法の条文改正も、目指しているらしい。

ところで、今回の選挙の投票率と、自民党の議席配分を考えてみると、ここでたくさんの人が思う、問題が浮かび上がってくる。

それは、投票率が52パーセントととても低かったこと、つまり国民の約半分は棄権している、ということである。
自公連立与党では、三分の二の議席を獲得したということなのだが、投票した半分の国民のうちの、そのまた三分の二が、与党に賛成票を投じたということになる。
すると、与党に投票しなかった人を、棄権した人と合わせると、国民の65パーセントは、与党を信任していなかった、ということになるのである。
こうしたことで、「声なき声」という言葉が出てくる。
この、棄権したり、投票しても与党に入れなかった人たちの「思い」というのはどんなものか。
そして、与党はいったい国民のどれくらいの割合の人に支持された政権なのか、という疑問である。

しかし私はこう思う。
私は、今回の、選挙戦の前に、もしも安倍政権、現政権、そして、集団的自衛権や憲法改正にどうしても強く反対する人たちがいるのなら、自分たちで政党を作り、自分たちのなかから、候補者を立てるべきである、とここで書いた。
解散総選挙は、安倍政権や集団的自衛権に反対する人たちにとって、チャンスだったはずである。
そのときに、政党も作らず、候補者も立てず、ただ黙っていた、これでは民主政治に参加したことにならない。
これでは民主主義を保っていることにならない。
民主主義や選挙というチャンスを得ていながら、黙していたことは、民主主義への背信である。

棄権は、イエスともノーともとれるものである。
あるいは、投票した人たちに、全権委任したとも取れるものである。
選挙への参加、ということは、教育の問題や意識啓発の問題もあるかもしれないが、棄権したということで、民主主義の放棄、という意思を発したと思ってもよいと思う。
そして、民主主義に参加し、投票や立候補という形で、意思表明をした人たちだけで、政治を運営していく権利を任された、といってもいいと私は思う。
政治や選挙に「興味がない」と言っている人たち、また考えはあっても行動ができなかった人たちは、これからも政治に不平や不満を言う権利などないと思う。
政治にきちんと参加した人たちが、これからの日本をけん引していく、これからの政治は、こうあるべきであるし、またこうするしかないし、また選挙に行った私たちは、政治を背負っていく権利と責任があるのだと、思う。


2014年12月24日水曜日

わたしのような、頭のよい女の子を作るための教育とは。

このところ、自分でいうのもなんであるが、「どうしたら聡子みたいに、頭がよくなれるの?」と聞かれることが多い。
私自身では、どうしてなのかよくわからない。
どんなに考えてもよくわからない。
それで、身近な友達に、聡子が頭がよくなったポイントを、いくつか教えてもらった。

その1、甘やかす。
私は、教育者であった父親から、教育を授かったというよりも、とてもとても甘やかされて育った。
ほしいおもちゃや絵本はなんでも買ってもらえたし、童謡のレコードも買ってもらえた。
私が高校生のとき、父の同僚は、娘の私のことを、「過保護ちゃん」と呼んでいた。
私自身、大人になってからも、ときにはたとえば説明なしでどうしてもお金が必要なときなど、理由を問い詰めることなく送ってくれたりしたので、とても感謝している。
人に迷惑さえかけなければ、どこでどんな人生を送っていても、大きく包んでくれる父である。

その2、お姫様になる。
小さな子どもには、勉強するための動機づけが必要であると思う。
まだまだ小さくて、大人の社会がどうなっているのか認識が柔らかい時期に、勉強に取り組む姿勢を身に着けることが大事だと思う。
私は、幼稚園のときに、絵本を読むのが大好きだった。
特に、白雪姫、シンデレラ、眠り姫などの、お姫様の童話が大好きで、大きくなったらお姫様になりたい、どうしたらなれるのだろう、と真剣に考えていた。
小学校の入学式のときに、校長先生の訓話で、「小学校に入学したみなさん。小学校はすばらしいところです。ここで一生懸命勉強をすると、大きくなったらなりたいものに、なんでもなれます」と言った。
私は、「やった!」と思い、小学校で勉強すればお姫様になれると思って、小学校は素晴らしいところだ、と本当に心から思った。
それで、学校の授業は、食い入るように黒板を見つめ、先生の話を一言一句聞き漏らさないようにした。
そして、ノートもきれいに書いた。
家に帰ってからは、宿題がないときにも、漢字の書き取りや算数ドリルをどんどん進めていった。
漢字の書き取りは、漢字用のマス目を、漢字ひとつを一ページ、必ず埋めるようにした。

学研の科学と学習、という雑誌があり、両親が買ってくれた。
特に「科学」では、さまざまな実験用具がついてくるので、庭に出て、好きなように実験をしていた。面白かった。

小学3年生ごろになると、さすがに「もしかしたら学校で勉強しただけでは、お姫様にはなれないのかもしれない」と気づき始めた。
しかし、群馬県にいたので、市内から、正田美智子さまが皇太子妃にお嫁さんに行ったので、「やっぱり勉強すればお姫様になれる」と決意を新たにした。

小学5年生ごろになって、ようやく現実に気が付いたときには、世界の偉人、というシリーズの本を学校図書館から借りて読むようになっていて、キュリー夫人、ヘレンケラー、宇宙飛行士テレシコワさん、などの女性偉人が「これがお姫様だ」と思うようになって、あこがれていった。

だいたい、そうして、現実に気が付いたときには、学校だけで(塾なしで)勉強がしっかり身についていて、クラスで一番の成績を取れるようになっていた。

その3、素直
私に仕事を教えてくれた人が言っていたのだが、やはり私は性格が素直なので、なんでもどんどん吸収する。
これは、大人になってから勉強した分がとても大きい。
本や新聞を読んで、勉強すると、乾いた砂が水を吸い込むように吸収する。
これは、性格がとても素直だからである。ということである。

その4、努力家
お姫様になりたかったときがそうであったように、目標を持つと、とても努力家である。
今でも、マフラーを編み始めると、最後まできちんと編み上げる。
通信教育を受けると、きちんと最後まで添削を受けて、必ず卒業する。
忍耐強く努力するところがある。

その5、能天気で失敗をおそれない。
親が甘いので、失敗してもそんなに怒られないで、フォローしてもらえる。
親の性格もアバウトなところがある。
親自身が「何事も試行錯誤でやればいいんだよ」と応援してくれるところがある。



2014年12月23日火曜日

ロシアと中東。

今、私は、ロシアの問題を考えている。
ロシアは、以前はソ連と呼ばれていた。
ソビエト連邦は、東欧や中央アジアを連邦国として、強大な帝国を構えていた、といっても過言ではない。
しかし、ゴルバチョフ率いるペレストロイカによって、その連邦制は崩れてしまった。

それでも、あれだけ広い国土を維持している。
もしもロシアが、さまざまな国と関係を結びたいと思うなら、中国側、ヨーロッパ側と、いくつもの選択肢があるはずである。
それなのに、黒海からバルト海、そして中東へと、ロシアからの道が伸びているのはなぜか。
それは、エネルギー問題ではないか、と私は思う。

中東には、豊かな石油資源、原油がある。
原油は、燃料になるだけでなく、プラスチック製品を造ったりすることもできる。

ロシアのエネルギー事情を、一度よく考察してみる必要があるように思う。
液化天然ガスもある、ということであるが、これは性質が原油とはまったくちがう。
また、とても気温の低い冬が、一年の半分以上続き、国民の生活に、燃料は欠かせない。
そのほかにも、火力発電などで、燃料は使うだろう。
その上に、経済的発展というと、エネルギー源、資源は、とても必要となってくる。

国土は広大であるが、一年の半分を冬として過ごすとなると、労働や都市化には向かないだろう。
資源の発掘にも、たいへんな時間と労力がかかると思われる。

また、港の問題もある。
ロシアの国土事情から、港は冬の間、凍りついてしまう。
貿易や国防に際して、夏は港を使えるが、冬はまったく使えない、ということである。
北海道の近くの北方領土は、ロシアの数少ない不凍港として、重要なのだそうである。
だから、日本側がどんなに折衝しても、ロシアがこの不凍港を手放すわけがない、と私は考えている。

ロシアは、ソ連時代と比べると、経済的に凋落してしまったと言えるかもしれない。
それは、温かい豊かな土地を、連邦制度に依存していたからではないだろうか。
ウクライナの穀物資源や、東欧の貿易、中央アジアの農業、というところではないかと思う。

ペレストロイカ以降のロシアが、経済の活路を、まず燃料エネルギーに求めて、もしかすると国民の凍死寸前の命をかけて、中東にその手を伸ばしているのではないか、と私は思う。


ロシアという国。

クリスマス寒波が来ている。
今年の冬もとても寒い。
この寒波は、シベリアから来るそうである。
私は北海道に住んでいたので、「晴れた日は気温がとても下がる」という認識があった。
晴れた日というのは、高気圧に覆われる日で、その高気圧というのは、シベリアから来る高気圧なので、シベリアの空気を連れてくるのである。
いったい、ロシアというのはどれほど寒いところなのか、といつも思う。

私にとってロシアは、北海道のお隣の国であり、ときどきラジオで、ロシア語の放送がよく入るし、ロシアとの漁業の取引もしていて、たまに街角でロシア人を見かけることもあった。
北海道の大学には、ロシア語学科もあって、ロシア語を学ぶことは、割合に普通のことだった。

私自身は、そういったことで、ロシアという国や人に対して、割合に好印象を持っている。
北海道と同じように、一年の半分は雪に閉ざされる国で、雪の上で橇遊びなどをして、同じように厚いコートを着て、雪の夜を楽しんでいるのではないか、と思う。

また、私は、トルストイの大ファンであるので、やはりロシアに対して、夢見るような憧憬の気持ちも持っている。
特に、トルストイの描く、北国の短い夏の印象は、とても素晴らしい。
トルストイの描くロシアやロシア人、ロシア気質というものは、人間的でとても素晴らしいものだと思う。
私自身も、トルストイ主義である、と自分で思いたいくらいであるが、トルストイ主義というのはもっと、高邁で高遠なところがあるので、なかなか追いつかない。

レーニンやスターリンが出てきたのは、第二次世界大戦のことだろうと思う。
これは、もともとのロシア気質やトルストイ主義とは、まったく別の主義主張である。
しかし私は、ロシアというところ、ロシアという国や人への、理解や親近感を持つことが、とても大事であるように思う。

トルストイを読めばわかる。
そこには、同じように人がいて、泣き、笑い、愛し、活動し、生きて、苦しんで、喜んでいる。
まずは、同じ人間である、と友好の気持ちを持つところから、すべてをスタートさせたほうが、よいのではないだろうか、と思う。


2014年12月22日月曜日

イスラム国とマララさん。

これまで、さまざまな社会問題について書いてきたが、これからは、もう一歩、視点を外に広げて、世界情勢について、よく学び、考え、書いていきたいと思う。
特に、アメリカが抱える、山積する問題について、考えていきたいと思う。
アメリカが抱える問題は、日本国が持つ問題とは、ずいぶんちがっているところがある。
たとえば、人種問題がそうであるし、地理的な問題、歴史的な問題がそうだろうと思う。
それは、日本で生まれ育った私には、経験も観点も、まったく異なる問題であるにちがいない。
経験がない、ということは、弱みにもなり、長所にもなりえるかもしれない。
新鮮な視点で、物事を捉えてみたいと思う。

ここ最近のニュースでは、世界情勢で一番気にかかることは、イスラム国という課題である。
今年に入ってから、いつの間にか、こうして中東にイスラム過激派が集まり、「国」を宣言してしまった。
そして、ここに、アメリカの宿敵であるタリバンが参入してしまった。

パキスタンでは、10月にノーベル平和賞を、ひとりの少女、マララ・ユフスザイさんが受賞した。
そして、12月にノルウェーで授賞式が行われた。
ノーベル平和賞の授賞式の時期を狙うかのように、パキスタンで、学校の子どもたちを相手取ったテロが実行された。

タリバンといえば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを思い出す。
今や世界は「アメリカ対タリバン」と言っても過言ではないほど、ふたつに分かれて相争っているようだ。
また、タリバンの背景には、ロシアがついている、とも言われている。
東と西の対決である。
根は深い。
根本的な解決は、いったいどこにあるのだろうか。
これは、時間をかけて解決すべき課題である。
私も、じっくりと取り組んでみたいと思う。

根本的な解決とはまた別に、具体的なひとつひとつの例に関して、対応するべきことは、あると思う。
それは、マララさんと女性教育、という点である。
マララさんが訴える女性と子どもへの教育は、民主的であり、近代的である。
それに比べて、女性や子どもが教育を受けてはいけないというのは、時代と人間性に逆行する、旧習である。
この対立において、マララさんと女性教育が、勝利を収めなければならない。

私が思うのは、日本としても、マララさんの主張する教育に対して、何かの手助けができないだろうか、ということである。
マララさんは今現在、イギリスで保護されて、学校に通っているそうだ。
それはそれで、何か大きな団体に保護されている、ということだと思う。
もしかすると、非政府組織NGOと呼ばれるような団体かもしれない。

これらの、女性の人権保護、子どもたちへの教育の推進、第三国の発展の促進を思うボランティア団体を、日本からも、イギリスからも、アメリカからも、アジアからもヨーロッパからも、推薦して、組織だった、大きな活動形態にしてはどうか、と思う。
やわらかく言えば、世界中の女性たち、志ある人たちが手をとりあって、マララさんの活動を実際的に支援して、輪を造りたい、と思うのだ。
もちろん、私も参加したい。

その輪と団結と勢力を以て、マララさんの教育活動を推し進め、大きな勢力として、教育を拒否するタリバンと闘いたい、と思うのである。
マララさんの活動と目的が一日も早く、たくさんの人の手で成就することが、タリバンに対しての、唯一の勝利なのだと思う。

2014年12月21日日曜日

憲法改正は男の仕事。

かつて、明治維新、という時代があった。
あれは、時代ではなくて、変革そのものだったのか。
あるいは、歴史だったのか。
あるいは、駆け抜けた青年たちそのものだったのか。

アメリカからの黒船を前にして、男たちは、新しい時代、新しい日本を模索した。
ときには出会い、ときには語り合い、ときには畏れ、ときには、果し合いをした。
そうして、時代を作っていった。

明治維新という時代は結局、尊皇攘夷派と開国派に分かれていった。
攘夷とは、外国や外国からの文化を拒否する、という意味合いが強い。

今の日本と相通じるものがあるように思う。

時代の中で、男たちは、どのように選び、どのように生き、どのように死んでいったのか。
そして、どのように時代を造っていったのか。

私は、その男たち、青年たちの群像に、女性ながら、一歩でも二歩でも、参加したいと思った。
そして、友達であるか恋人であるか、そんなことは時代の波のなかでどうとでもなるような状況のなかで、言論を重ねていった。

けれども、やはり私は今は思う。
時代変革というのは、男の仕事である、と。

今の私は、激動とも激流ともいえる時代のなかで、ただただ、押し流されて引っ張られていくしかない。
とても、「参加」とは言えない状況である。

私は、この明治維新の時代の激動と変革から、離れることにした。
それは、私には、私自身にとって、一番思いがけないことだった。
けれども、潮流というものには逆らい難い。

憲法改正は、男の仕事である。
その仕事に、ひとことも、口をはさむまい、と思った。

これからも私は、ときおり、時代の波の下にある穏やかな生活を、ここに書いてくかもしれない。
けれども、憲法改正は男の仕事である。

遠くから近くから、見守っている。



連載・83 玉子焼き。

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

とかく物事は、極めれば極めるほど、シンプルになっていくような気がする。
職人技といわれるものも、極めた人の腕は、とてもシンプルである。
たとえば、大工さんが、木の枝を一本切る。
小さな子どもにはとてもむずかしいその一本の木が、大工さんにとっては、いとも簡単に、そして美しい動作なのである。

お料理にも、同じことがいえるように思う。
極めれば極めるほど、お料理はシンプルに素朴になっていく気がする。
たとえば、玉子焼きである。

小さな子どもが、初めて挑戦する料理が、玉子焼きかもしれない。
小さな手には、この玉子が、とても大きくて繊細に感じるのではないだろうか。
こわごわと掴み、こわごわと割る。
こわごわとかき混ぜて、そこまでで肩で息をつくほどの緊張である。

あるいは、今から料理を上達させたい、という若い奥さんがいる。
どんな玉子焼きを作ろうか、と思案する。
調べる。
試す。
あれやこれや、と調味料もお皿も付け合せも工夫する。

それでも、やはり、プロの料理人だったら、この玉子焼きを、きわめてシンプルに作るにちがいない、と思う。

なんの映画だったか、題名は忘れてしまったが、モノクロだったと思う。
男性の料理人が主人公であった。
すべての物語の終わりに、映画フィルムの長回しが行われる。
10分間くらいあったと思う。

料理人がキッチンに入ってきて、自分のランチをとるのであるが、そのときに、パンと、それから玉子焼きで、ランチをとるのである。
まずフライパンをとる。
火にかける。
オイルを注ぐ。
玉子を二個、片手で割る。
フォークでかきまぜる。
玉子焼きができる。
皿にすべらせる。

パンをかじりながら、この玉子焼きを、フォークでちぎって食べる。

料理人が作った玉子焼きの味が、物語のエピローグからよくわかった。
いつでも、いつまでも、どこか心の片隅で、この料理人の玉子焼きが、消えていかない。
きょうもできるだけシンプルな玉子焼きをめざして、なんだか悪戦苦闘しているのが、私のお料理エッセーである。


憲法改正には反対。

2014年12月14日。衆議院議員選挙が行われた。
それから一週間たった。
この選挙の結果に、いろいろなことを思う。
また、いろいろな人が、あちこちでこの選挙の結果について、討論したり分析したりしている。
それらの記事を読んでみる。

ここから先の安倍政権が目指すところは、憲法改正なのではないか、と誰もが思うところである。
与党だけで、三分の二の議席を獲得することができた、というのは、憲法改正が可能である、ということだ。

しかし、自民党に投票した国民の大半が、集団的自衛権で充分、と考えているのではないだろうか。
それは、中国やアジア情勢に関して、脅威を感じている人たちでさえ、憲法の拡大解釈だけで充分だと思っている、ということである。
今の自衛隊だけで、南シナ海は防げると、私も思う。

安倍政権は、戦争をしたがっているのではないだろうか。
どうも、夫婦仲がよくないトップは、戦争をしたがるので困る。
奥さんの安倍昭恵さんが、戦争や憲法改正に反対なので、それに対抗しようということではないだろうか。
以前、アメリカのブッシュ大統領も、ご夫婦仲が険悪で、外に向かって戦争を始めたものだ。
まったく夫婦仲というのは、やっかいである。

安倍総理大臣は、来年から三年間にわたって、大殺界に入る。
調子が良かったのも、ここまで、ということではないだろうか。
国内情勢も、傾きかけているように思う。
政権を失う前に、考え直したほうがよいのではないだろうか。



2014年12月20日土曜日

NHK「マッサン」第12週「冬来たりなば春遠からじ」感想。

今週は、本当に寒い一週間であった。
クリスマスも近く、冬至も近く、寒波がやってきていた。
その週の朝ドラの題名が「冬来たりなば春遠からじ」とは、本当に励まされる日本の名言である。

今週の「マッサン」は、先週から引き続き、エリーの不妊問題と、鴨居商店の長男英一郎が、話題の中心であった。
鴨居商店の「大将」ことカモキンは、やり手の商売上手であるが、そこの息子・英一郎は、ひねくれ度この上ない、頑固な青年である。
大将と英一郎は、父親とその息子の、絵に描いたような典型を表していて、「お母さん」をめぐって反発しあっている。

息子・英一郎は、やり手の父親が、家庭を犠牲にしたこと、特に病弱な母親を「見捨てた」ことが、どうしても許せなくて、怨念の塊になっている。
それでも、大商売人である父親に頭が上がらないという、屈折したところも持っている。
その英一郎を、政春・エリー夫妻に住み込みで預けて、なんとかこの曲がった根性を叩き直してやりたい、というのが、カモキンの願いである。

政春は、職場においては、国産初のウイスキー造りに取り組んでいるが、ここで英一郎という若い部下を育てることになる。
そして、自宅・プライベートにおいては、やはりこの若い部下を、ファミリーとして育てることになる。
自宅で育てるところで、妻のエリーも面倒をみることで、関わっている。

昔の会社ではこういうことがあったのだろうか、自宅に住み込みで、仕事とプライベートの面倒をみる、ということであるが、家庭教師の逆バージョンということになるかもしれない。
まだまだ若い青年を、住み込みで面倒を見る、それも上司からの命令であるから、たいへんなことである。
珍しいことであるともいえるかもしれない。

最高の良妻であるエリーは、この困難な仕事を引き受けることになる。
これは、夫の会社関係から頼まれたことであるから、夫の会社での仕事にも関わる、大事な職務であるにちがいない。

しかし、エリーの自然な態度は、まるで英一郎の母親のようになるらしい。
英一郎は、エリーが台所に立つ姿に、実の母親を投影する。
そして、親子関係の「やりなおし」をはかるようである。

ところで、私はここまで「マッサン」の感想を書いてきて、政春の人生から、「男のサクセスストーリー」を見出したい、と念願してきた。
でも、政春の仕事は遅々として進まず、先週から今週にかけて、ウイスキー造りが始まったところであるが、それでもやはり、政春が悩みそして、真摯に取り組んでいるのは、「家庭」なのである。
それに比べると、鴨井欣二郎の姿の方が、「サクセスストーリー」を体現しているように見えてならない。
成功した男の「悩み」というのは、家庭において、反発をくらう、息子がぐれる、ということらしいのだ。

もともと、家庭、家族というのは、それ独特のペースを持っているものだ。
妻であり女性であるひとりの人間の生きるペースが、すでに家庭というペースである。
それから、家庭というのはプライベートであるから、衣食住や睡眠、健康、ご近所や親戚の人間関係、というとても生物学的なところを含んでいる。

それに比べて、仕事のペースというのは、社会の決まりごとで動いている。
約束した期日には、仕事は間に合わせなければならない。
「この日に集まってください」と言ったことを、撤回することは、信用を失うことになる。
もともと、仕事のペースと家庭のペースとは、ずれてずれてずれまくっているところなのである。
その調整をすることは、とても困難であるだろう。

もちろん、仕事のペースと家庭のペースを、上手に棲み分けして、両立させられる人もいるだろう。
しかし、仕事メインで動くとなると、仕事は成功するかもしれないが、家庭は壊れてしまうかもしれない。
その、「仕事メインで家庭は壊れました」の姿が、鴨居欣二郎である。

ここで、エリーという、「家庭の女神」が現れる。
家庭の女神は、自分自身の家庭だけではなく、他者の家庭に対しても、そのご威光を発揮するようである。
「ご威光」というと、なんだかわからなくなってしまうが、ドラマのなかでは、「ラブ」という言葉が使われていた。

英一郎もまだ大学生の青年であり、鴨居欣二郎の息子であり、大人と子どもの、ちょうど端境期にいる存在である。
子どもは子どもとして、とても愛情を必要としている。
そして、まだ経験が少なくて、夫婦というものを、体験して理解することは、できていない。
家庭にもっともっとラブがほしかった、ラブが足りなくて、ひねくれてしまった、大人になりきれない、という状況だったのではないかと思う。

私は以前から思っていたけれども、子どもが大人になるときには、女性の存在が必要なのではないかということである。
それは、実の母親でなくとも構わない。
お姉さんや近所のおばちゃんであってもよいのかもしれない。
ともかく、女性だけが持っている愛情、というのが、子どもの成長の栄養素として、エネルギーとして、必要なのではないかということである。

今回、エリーが示したのは、心遣いであり、配慮であり、言葉でもあった。
でも、それ以上に、存在そのものであり、愛情深く包み込む、ということでもあったかもしれない。
もちろん、愛には、言葉や行動にすることが、必要である、ということも含めて、女性が女性であること、その存在意義を思うのである。

それにしても、このにぎやかなドラマは、たくさんの人々が現れる。
なんだか必要以上に演技力があるのに、なんだか無名で見たことも聞いたこともない女優さんが、たくさん現れるような気がする。
それも、劇団関係者の面白さなのだろうか。

これからも、にぎやかでしたたかな、このドラマに、期待していきたいと思う。
寒い。寒い。冬来たりなば、春遠からじ、である。

2014年12月13日土曜日

NHK「マッサン」第11週「子に過ぎたる宝なし」感想。

NHKの朝ドラ「マッサン」も、12月なかばとなった。
10月から始まった放送であるから、3か月目に入った、ということである。
「花子とアン」のときを考えてみると、4月・5月・6月と物語が続いてきて、7月には「花子とアン」の一番のクライマックスである「白蓮事件」が、起ころうとしているところである。
だから、半年間の朝ドラの、一番のクライマックスが3か月目から4か月目ということになるので、「マッサン」も今、半年間の一番の盛り上がりに入ろうとしているところである。
その盛り上がりのテーマが、ご夫婦のお子さん問題である。

お子さん問題といえば、このところは、「お子さん問題」と言葉を選ばなければならないほど、慎重で繊細な問題である。
世の中には、不妊医療やマタハラ問題で、裁判も起こっている。
また、子どもを授かったなら授かったなりに、お受験や、ママ友カーストも起こっている。
子どもがほしくても授からないご夫婦の悲しみ、というのも、クローズアップされている時期である。

もともと、現代がこうした課題を抱えていなくても、ご夫婦と子ども、という問題は、口にするにはタブーを含んでいることである。
それを、あえて直面して詳細に描くのは、ドラマとしてどうなのか、というところである。
白蓮事件なら、恋愛沙汰として、食事や酒の席でも笑って口にできることであるのだが、お子さん問題というと、どうなのか。
だが、そこを丹念に描きこむところに、この「マッサン」というドラマのクライマックスがある、ということなのである。

これから先の物語が、インターネットのホームページでもある程度、公開されているので、先を見越すことができる。
年明けの放送からは、北海道の余市で、本格的にウイスキー工場を作って、政春オリジナルのウイスキー造りを始めることになる。
その時期に、政春の母親であり、エリーにはお姑さんとなる早苗が、亡くなることになっている。
これは、早苗役を演じる泉ピン子さんが公言していたのだから、きっとまちがいないだろうと思う。
そのころに、政春とエリーは、養女を迎える。
この養女は、政春の実の姉の、子どもさんである。
その子を、北海道に迎えての、ファミリーとなって、物語が続いていく。

それなので、ご夫婦がどのようないきさつで、養女を迎えることになったのか、という点は、とても大事な話となる。
それを描いているのが、今週から来週、12月いっぱいにかけて、ということになるだろう。

ご夫婦の物語としては、お子さん問題に触れないわけにいかない。
たとえNHKだとしても、ご夫婦の寝室に大きなベッドがふたつ置かれていたとしても、なかなか触れられない問題だと思うが、そこをNHK朝ドラなりに、「人間として」という視点で、できるだけ追及して描こうとしているように思える。

それにしても、この「マッサン」というドラマは、とても濃く、人間関係が描かれているようである。
ご近所もそうであるが、親子とか、夫婦とかきょうだい、とか、血縁のある人間関係を、ある意味「ごみごみと」描いているように思える。

それは、日本初のウイスキー造りを成功させた男の物語、夫婦の物語としては、ピントが多少ずれているようにも思う。
だが、これも、脚本家の描き方であるから、どうこうは言えない。
脚本家の羽原大介氏は、つかこうへい劇団の出身だということだが、やはりここでどうしても「つかこうへい」という劇作家の影響を見て取れらないわけにいかない。

つかこうへい氏は、血縁の人間関係とそこから生じる人間の苦悩と憎しみ、愛情と親愛の情を描いた人であったように思う。
それが作風であり、テーマであったように思う。

そして、今週の「マッサン」にも出てきたセリフであるが、「私たちは一生懸命生きているのに、どうしてこんな辛い目に遭わなければならないのか?」これが、つかこうへいが乗り越えられなかった、一生の問題であったように、私には思える。
乗り越えられなかったのかどうかは、わからないが、もしかすると、「それでも笑って暮らそうよ」「人間、生きていればいいこともある」というのが、結論だったのかもしれない。

その、つか劇団の影響をもろに受けたのが、「マッサン」である、と言えるように思う。

しかし、日本初のウイスキー造りをした人の悩みは、血縁や人間関係や「私たちはまじめにやっているのに」という悩みでは、なかったのではないだろうか。
「ごま粒のようなひとり」ではなく、「きらきら輝く一等星」になるための苦闘が、そこにあったように思うのだ。
そのあたりで、この「マッサン」のドラマのクライマックスに、もう一工夫、ほしいところである。


2014年12月10日水曜日

期日前投票へ行ってきた!! ーーあと4日

選挙ウイークも、すでに最終週である。
きょうは、友達と待ち合わせをして、クリスマスのお買い物をしてきた。
そして、そのついでと言ってはなんだけれども、どちらが「ついで」ということなしに、衆議院議員選挙の期日前投票に行ってきた。

期日前投票の会場は、役所の建物のロビーの一角で、たくさんの人が集まっていて、次々に投票を行っていた。
役員のかたも、とてもきびきびして、手際よかった。
選挙葉書を持って行くと、そこに「誓約書」を書く欄があって、日付と名前(自著)それから、生年月日と、投票日当日に投票所に行けない理由を、選んで書くことになっている。
簡単な手続きである。
私は、14日当日は、家で用事があるので、夜は選挙の開票速報を見なければならないし、それで、きょうのうちに、期日前をすることにした。
投票する候補も、政党も、もうすでに心にピシッと、決めてあるから大丈夫。

街角にはクリスマスツリー。
金色のきらめき。
クリスマスソングもどこからか、たくさんの鈴の音が聞こえてくる。
ラストクリスマスがあり、サイレントナイトがあり、真っ赤なお鼻のトナカイさんの歌もある。
オルゴールで静かに流れている曲もあって、とてもロマンチックである。
ライトはすべてLEDになっていて、きらめきもとても美しい。
さすがは、今年のノーベル物理学賞である。
このLEDのクリスマスツリーが、世界中を照らしているのか、と思うと、本当に感動する。

雑貨店では、卓上で、小さなツリーを作れるものが販売されている。
ガラス製のツリーもあるし、紙を組み立ててつくるものもある。
白いワイヤーが三角塔になっているものに、サンタさんが登っているものもある。
雪の結晶の六角形の形に切り取った、赤いフェルトのオーナメントもあって、これは、きれいなチェーンにつながれていて、クリスタルのおもりもついているので、どうしても玄関に飾りたくなって、これを購入した。

それから、クリスマスプレゼント用に、きれいに箱に入った、小さなイヤリングやネックレスもある。
私は、クリスマスに会う友達のために、それをいくつか購入した。
店員さんも、いつも行く店なので、とても喜んでくれて、新しい商品を説明してくれる。
「どうぞ、ゆっくり店内を見ていってくださいね」と笑顔でとても親切である。
新製品のバッグやポーチもあり、どれもとてもかわいらしくて目移りする。
私は、お正月の福袋の予約をしようか、と思って迷う。
一応パンフレットはいただいてきた。
福袋というと、本当に中身が楽しみで、毎年、年末からウキウキしてしまう。

と思うと、街頭の大型テレビジョンでは、政見放送があって、候補者のガッツポーズが流れている。
政党のコマーシャルも、すっかり覚えてしまった。

選挙まであと数日。
素敵なクリスマス、素敵なお正月、素敵な選挙となりそうだ。
とても楽しかった!!


2014年12月6日土曜日

新しい時代への挑戦。

昨日12月5日。
アメリカのNASAが、無人宇宙船オリオンを発射した。
地球を二周して帰ってきたそうである。
いずれ、有人宇宙船を火星に送るための、試験飛行のようである。

遠く火星まで、いったい何年かかるのだろうか。
いずれにしても、人類的な挑戦になることは、まちがいない。
その宇宙船の原動力となるエネルギー源は、核だそうである。
核融合のエンジンを抱いているそうである。

新しい時代には、新しいエネルギーがある。
これから、核融合のエネルギーは、人類にとって、とても大切なものになってくるにちがいない。

かつて原始時代に、火を発見してそれを手にしたときには、有益な面と危険と二面性を持つ、とても怖いものだった。
今でも、火は怖いものにはちがいない。
けれども、人類の知恵と勇気は、それを手につかむことに成功して、文化的な生活を営んでいる。

これからの時代は、核エネルギーの安全な利用をしていく時代である。
だから、私は、原子力発電の再稼働に、賛成する。

今回の、衆議院議員選挙では、原発再稼働推進を自分自身の意見として、投票先を選びたいと思う。

次に、集団的自衛権という課題である。
私は、これからの日本の国造り、という意義を考えて、新しい日本のあり方を考えたいと思う。
それは、アメリカやヨーロッパと同じように、国防の軍隊を持つ国、というあり方である。

これから、ますます世界情勢のグローバル化が進んでくると思う。
グローバル化というのは、世界各地との人と人とのやりとりが、多くなる、という意味だと思う。
人も物も情報も、これまで以上に、多く、速く、やりとりをするようになるだろう。
そのときに、警察や裁判所のようなシステムが必要である。
それは、国防の軍隊と同じ意義を持つものだと思う。

日本は、いまだ体験したことがないけれども、国防軍を持つ国になるほうがよいと思う。
中国でも韓国でも北朝鮮でも、軍隊は持っている。
今の世界的世論や人権意識の向上した状況では、文化先進国がおいそれと戦争を起こすことは、できないと思う。
だから、日本が、簡単に戦争に向かうことはない。
日本は人権水準と文化水準の高い、先進国だからである。

アメリカやヨーロッパのような国になることは、新しい日本の時代を迎えることになる。
いまだ体験したことのない状況を、こわがることは、よくないと思う。
新しい自国のあり方に、挑戦してみたいと思う。
体験してみれば、きっと、欧米の人たちと同じように、それが常識となって、それが当たり前となって、きっと慣れると思う。
その「よい点」の利益を享受することもできるだろう。

それで、国防軍を持つ国、集団的自衛権を持つ国、という点を、自分の意見のなかに、持ちたいと思う。

これからの日本のあり方を思い、これからの新しい時代への挑戦を思い、今回の衆議院議員選挙では、大切な一票を、この意志のもとに、投票しようと思う。

NHK「マッサン」第10週「灯台下暗し」感想。

毎朝楽しみな「マッサン」も、もう2か月も見ていることになる。
このところは、すっかりキャラクターたちとお友達になってきた。
大好きなエリーも、日本語がとてもうまくなり、ときおり、英語もまざったセリフが、とても自然なかんじになってきた。
友達が言うには、このごろアドリブが多くなってきた、ということである。
私は演劇にはあまり詳しくないので、アドリブなのか、最初から脚本に書いてあったのか、よく見分けがつかない。
それくらい自然で、元気闊達なドラマ展開になっている。

今週は、いよいよ政春の仕事が始まった。
これまでにもいろいろな仕事はしてきたが、今度こそ本当に、ウイスキー造りの仕事である。
仕事に打ち込んで活き活きしている男の姿というのは、本当によいものだ。
妻のエリーもほっと一安心であるし、これまで支えて来てくれたご近所のご婦人たちも、心から喜んでくれている。
そして、広島の実家のほうでも、それは同じであるようだ。

職がなくて、とても辛い時代、まさに「辛抱の時代」もあったけれど、人生も世の中と同じく、いろいろなカラーに包まれた、「時代の色」というのが、あるのかもしれない。

エリーはご褒美として、家の改築をすることになる。
かまどをはずして、ガスを入れるし、ミシンもオルガンも買ってもらえる。
古い日本家屋だったものが、あちこちに大工さんの手を入れることになる。
これは、この時代が進歩してきたことを表すというよりも、やはり夫である政春の「稼ぎ」がよくなって、夫婦ともども、生活が向上してきたことを、表すものだろうと思う。
しかし、夫の政春は仕事で頭がいっぱいになり(男性にとっては幸せなことであるが)なかなか妻のエリーとの会話の時間がなくなる。
「男のサクセスストーリー」を考えるうえで、妻との会話の時間もなくなるほど仕事で頭がいっぱい、時間もいっぱい、というのは、実はとても大切なことである。
家のことはすべて妻に任せておけるのが一番いい。
そして、仕事だけに専念できる状況が、夫の仕事にとって、ベストな状況だと思う。

仕事を持つ人は、その仕事に専念したことがあれば体験しているだろうが、本当に仕事以外は見えなくなる。
家族の存在や言葉はもとより、食べ物の味もわからないし、趣味の道具もぼうっと眺めているだけになる。
聞いた話であるが、本当にフロー状態になるほどひとつの物事に専念すると、ほかのことは脳が排除してしまうらしい。
このくらい打ち込める仕事があれば、幸せである。
もし男性が、この状態になっていたら、妻としても女性としても、それを喜んで見守ってあげるべきかもしれない。

それで、エリーは、夫の政春に相談なしに、ご近所のご婦人たちと相談して、どんどん、家の改築を進めてしまう。
これは現代用語で言えば、リフォームである。
妻がリフォームに打ち込むようになると、夫婦仲がうまくいかなくなる、という説があるから、エリーも要注意状態になってきた。

エリーはエリーで、女性の幸せ、妻の幸せを構築中、というところであるが、こうしたときに、夫婦の仲に、溝ができやすいのではないだろうか?と思う。
それでも、時間を見つけて、ハイキングに出かけるところは、とてもよい。
自然のなかで、ふたりきりの時間を持てたのも、とてもよいシーンだった。

ここでエリーのリフォームの面白さを考えておきたい。
大工さんに日本家屋の造りというか、思想というものだろうか、思想というにはあまりにもおこがましいだろうか、それでも、日本の考え方というのを取り入れて、すべてをヨーロッパ式にしてしまわないところが、とても素晴らしいと思う。
日本に来たからには、日本の良さを取り入れたいという気持ちが、エリーというひとりの女性を日本で活かしてくれる根本姿勢となるのかもしれない。
また、こうした和洋折衷の家の改築は、エリーと政春の国際結婚を形にしたもの、とも呼べそうだ。
エリーと政春の、さまざまな挑戦が、新鮮である。
新鮮ではあるのだが、実際には、現代の世の中が、結局はどの家も、どのマンションも和洋折衷になっているのだから、この試行錯誤はのちの時代の人たちに受け継がれていく、新しい時代への格闘となるわけである。

新しい時代への格闘、といえば、政春と鴨居氏の、ウイスキー造りもそうである。
ウイスキーを造るということは、ウイスキーを好む日本人を作る、ということであり、日本にウイスキーを広めるということであり、新しい時代を作る、ということである。

いまだ、ウイスキーを知らない日本人に向って、世界レベルであるウイスキーの味を一口一口味わってもらう、そして、ウイスキーを日本のスタンダードにするのは、これは、単なる仕事の成功ではなくて、新しい時代を拓く、作る、ということなのである。
「いまだウイスキーを知らない日本人」というのは、心のなかに壁があるものだ、と思う。
「これまで日本人は日本酒だけを味わってきた。日本人なのだから、これからも日本酒で行くべきだ」という頑固で強固な考えである。
それは、過去を懐かしみ、古い時代に固執する、ある意味、悪い性癖のようなものである。
現代の日本にも、「和」を尊ぶことはよいことなのだが、そこに固執する方向性があるように思う。
そして、広く世界から飛び込んでくるものや、新しいもの、新しいライフスタイルに、なじもうとしない。
それは、「一口も味わったことがないもの」を、「新しいから」という理由だけで拒否しているのと同じではないだろうか。

鴨居氏も政春も、「一口も味わったことがない」「体験がない」という人々に、新しい味を一口一口、広げて行こうとしている。
それが、新しい時代を拓く、ということなのだと思う。
日本一の、日本で最初の、仕事をするには、人々の心の壁を崩して、新しい時代を実際に味わってもらうことが、必要なのである。
これは、壮大な夢の実現でもあるだろう。

時代は、誰が連れてくるもの、とも、誰が作るもの、ともはっきり言えないときもある。
政春が生きた、大正から昭和にかけての時期は、まさに時代が大きく変化しようとしていた時期であった。

政春と鴨居氏は、その新しい時代の息吹を体中で感じながら、新しい気風を日本中に広げようとしている。
それは、まさに、古い時代との格闘である。

政春の「男のサクセスストーリー」は、こうして、古い時代との戦いをして、勝って、新しい、いまだかつてない時代を構築することなのだ、と思う。


2014年12月4日木曜日

仁義ある戦い。ーーあと10日。

寒風が吹きすさぶ日本列島に、任侠二大巨匠が去った。
そして、今ふたたび、熱い戦いが始まる。

私の育った群馬県では、「正義」よりも「仁義」が重んじられる気風があった。
おばあちゃんでさえ、漬物石の置き方ひとつでも「そりゃあ、仁義ってものが通らないじゃないのよ!」と怒ったりしたものである。

2014年冬の頂上決戦である衆議院選挙は、おととい火曜日に公示があった。
再来週の日曜日が、投票日である。
序盤の戦況報告では、自民党が300議席を獲得するばかりの圧勝、ということである。
自公連立政権は、本物だ。やはり強い。

今回の仁義ある戦いでは、本来は集団的自衛権と反原発が、争点であったはずである。
というか、集団的自衛権や国際情勢がよく理解できない人々が、フンマンやるかたない状況なので、いっぺん選挙をしてみて、国民の総意で、これを再度確認いたしましょう、という「念のため選挙」であったはずだ。

それが、あれほど教えたのにも関わらず、「緑の党」は、結成されないし、反原発や反集団的自衛権を表から訴えた候補も出ない。
なにしろ、一番騒いでいる女性たちが、女性候補を立てないのだから、これはもう弱腰、ヤル気なし、と高をくくっていた。

ところが、である。
彼女たちは、始めていたのである。
何か。
名付けて「沖縄的なんでもかんでも作戦」である。

考えてみれば確かに、沖縄の知事選挙では、知事の任務をまっとうする政治的能力がなさそうな候補に、たくさんの票が集まった。
これは、党派を越えて、「自民党じゃいやだ」というアンチ勢力が集まった結果である。
これを、日本列島全域で行おう、という作戦らしい。

昨夜、「さよなら安倍政権」というサイトが登場した。
ツイッター上で、あっというまに拡散している。
よくできたサイトで、12月2日に公示された情報だが、立候補の届け出が終わってすぐに、100人体制で作ったものじゃないか、と推測される。
まるで、新聞社やテレビ局の開票速報サイトのように、詳しくて完璧な出来栄えである。
よくできているのは、「反原発」も「集団的自衛権」も、一文字も記されていないところからもよくわかる。

これで、主義も主張も特にない、ただ単にいつも常に、政権に対しても自分の人生に対しても不満しかない、そういった人たちが、アンチで集結するだろう、というのが、この「沖縄的なんでもかんでも作戦」の首謀者のはかりごとであるらしい。

選挙戦がますます、面白くなってきた。
楽しい試合、わくわくする試合を、楽しみに観戦している。


2014年12月1日月曜日

連載・82 チーズトースト

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

師走となった。
なぜ忙しいのかわからないが、時がスピードを上げて、走り去っていくかんじがする。
年末の用件を、紙に書きだしてみる。
年賀状書き、クリスマスの予約、おせちの昆布巻き、大掃除、お歳暮の発送…。
今年はできるだけ簡素に、用件も少なく済ませよう、と思うのに、まだまだたくさん、メモ帳が足りない。
最近では、奥さまがたも考えて、12月にはいったら、一日一用件、ということで、手際よく着々とすべての用件を片づけて行こう、というカレンダーまで販売されている。

その用件の合間、合間に、クリスマスパーティがあって、冬休みがあって、「楽しまなければならない」気持ちにもなる。
できれば、ゆっくりとした年の暮を迎えたいものだ、と思いながら、やはりあわただしく立ち上がっては、手を動かしている。

忙しい年末は、おなかが空いておやつにしたい、というときがある。
あるいは、ちょっとした手間でランチを済ませたいときもある。
そうしたときに役立つのが、チーズトーストである。

私も、お昼を簡単に済ませて午後の仕事に入りたいときには、このチーズトーストを作る。
チーズとケチャップの独特な濃さと、トーストのサクッとした軽さが、素敵なバランスである。

市販のスライスチーズは、いったい誰が考え出したのか、「食パンの大きさで、薄くなっているチーズがあったらいいな」と、おそらく「みんなが」思っていた時期に、発売されて、あっという間に広がったかんじがする。
サンドイッチにするなら、ふつうのプロセスチーズでOKだが、チーズトーストにするなら、ぜったいにおすすめなのが、「とろけるチーズ」である。
トースターの熱で、溶けるのである。
ちなみに、「溶けない」タイプのふつうのチーズでも試したことがある。
これはこれで、いけないことはない。
でも、プロセスチーズというのは、やはり熱では、とろーりと伸びるような溶け方はしないようである。

食パンにケチャップを薄く塗り、好きな人はもっとたくさん塗り、その上に、とろけるスライスチーズを乗せる。
オーブントースターで、これをトーストする。
トースターの機種によってもちがうが、だいたい3分くらいだろうか。
この3分を待つ間に、コーヒーをいれておくのも一案である。
できればカフェオレがいい。

あつあつで、サクサクのところを、いただく。

今年はいつもにも増して、あわただしい年末となりそうである。
お母さんやお姉さんに頼むよりも、ちょっと自分で、トースターにパンを乗せてみるのもいいんじゃないだろうか。
パンが焦げてくる香りをかぎながら、背伸びして肩を回してみるのも、それもそれで、とてもいい師走である。