2015年12月31日木曜日

2015年・今年もお世話になりました!

2015年も、大晦日を迎えた。
ご近所の家でも、門松を新しく備えて、見ていてとてもすがすがしい。
気持ちのひきしまる思いがする。

年末ジャンボ宝くじの抽選発表が、テレビ中継を通して行われた。
私も、数枚のくじ券を握りしめて、じっと見守った。
「幸運の女神」という、美しい女性がいた!
高市早苗総務相も、「幸運の女神」となって、登場して、お言葉を述べられていた。
そして、「幸運の矢」を、発射してくださった。

この、高市氏の放った矢のおかげで、一番はずしてしまって、私の夢は、はかなくも消えてしまった。
本当に残念であった…。

でも、いいお正月を迎えられそうだ。
総務大臣が幸運の矢を射るわけだから、内閣としては、宝くじにもろ手を挙げて賛成なのだと思ってまちがいないだろう。

いい夢を見たついでに、午前中のうちに茹でた年越しそばを、お昼ごはんにいただいた。
何事も、早め早めに先手を打つのが、勝つための盲点ではないか。
いや、ポイントではないだろうか。
やはり、政府としては、遅め、遅めに、すべてを地道に行うのが、教育勅語のしきたりであるようである。

ところで、今夜であるが、なんと、カウントダウンのニューイヤーデー、ということである。
私たちは、クリスマス前後を乗り切った。
しかしまだ、テロの脅威は、続いている。
今夜は、日本でもカウントダウンコンサートや、各地でカウントダウンのお祭りがある。
世界的にも、たとえば、アメリカ、ニューヨークのタイムズスクエアでの、カウントダウンは、とても有名である。

こうしたことで、テロが、本当に狙いを定めているのは、今夜から明日にかけて、なのかもしれない。

日本でも、カウントダウンコンサートや、初詣に出かける人はたくさんいる。
この初詣は、年が明けて元旦になってから、朝から出かけるのでなくて、お寺や神社に、除夜の鐘を聞くところから、深夜に行くことが、多いようなのである。
「行く年くる年」でも、放送されている。

そういうわけで、今夜は、できるだけ行動を慎んで、テロの脅威に備えたほうがよい、と私は思う。

安心・安全な自宅で、家族や友人と一緒に、NHK紅白歌合戦を観よう。
私は、毎年楽しみにしているので、紅白を見る予定である。
紅白では、紅白アプリというのがあって、ダウンロードすれば、紅組でも白組でも、いいと思ったほうに投票することもできる。
曲順もわかるし、好きなアーティストの少し前には、アラートを設定できる。
私はすでに、アプリをダウンロードして、準備してある。

紅白歌合戦が終わったらそのあとは、ジャニーズのカウントダウンコンサートが、フジテレビで放送される。
ジャニーズのメンバーと一緒に、テレビの前で、カウントダウンして、ハッピーニューイヤーを迎えたい。

皆さま、どうぞ、よいお年を。
今年もお世話になりました。


朝倉聡子

2015年12月31日


紅白アプリのダウンロードはこちらから →

http://www.nhk.or.jp/kouhaku/app/


追記☆
紅白歌合戦の投票は、アプリをダウンロードすれば、誰でも可能なのだが、ジャニーズや「嵐」のファンの、若い女の子たちが、たくさん集まって投票するので、ここ数年は、「白組」が勝つことがとても多くなっている。
投票の仕方を、少し考えたほうがいいのかな、と思うけれども、AKBファンの男の子たちも、がんばってもいいのでは?とも思う♪




2015年12月30日水曜日

教育勅語を垂れるべき資格はあるのか。

年末も、とうとう30日となった。
明日は大晦日である。
もう、きょうからあれこれ忙しい。
おせちの仕込みに入らなければならないし、大掃除はまさに大詰めである。
年賀状はきれいに印刷して出し終えた。
年末の買い物もほぼ済ませて、あとは楽しい寝正月を待つだけである。

それにしても、政治の世界というのは、今、話題の「ブラック企業」であるらしい。
官庁では、御用納めをするその日も、翌日も、まだまだ上役が仕事をしているのだから、部下は休めない。
日本人は、エコノミックアニマルだとか、働きバチだとか言われるけれど、まずは政治家自ら、「ライフワークバランス」の姿勢を示してほしいものが、ブラックなありさまである。
そのうえ、力になってくれたブロガーには、給料はあげないで働かせるのだから、日本の政治家の「ブラックぶり」はたいしたものである。
まず、生まれ持った才能がない。
だから、努力で補うしかないのだろう、と思う。
日本の政治家は、上から下まで、本当に「努力家」である。

こうした、誠意も真心もない、付け届けの腐敗で歪んだ政治家が、真摯で真面目な一国民に、何をか訓示を垂れたいらしい。
なぜ今ごろ、そんなことを言い出すのか、首を傾げてしまう。
教えてあげたいのは、こちらのほうである。

だいたい、今の総理大臣の権力というのは、あらゆる問題に関して「知恵」があったから、求心力を持てたのではないか。
その知恵、というのは、一国民、それも若い女性から、こっそり得たものなのである。
実際には、総理大臣の頭のなかは、それほど重量はなさそうだ。

だいたいにおいて、出てくる時期が遅かったではないか。
三党合意による、税・社会保障一体改革、つまり、消費税の増税は、民主党の野田総理大臣と、朝日新聞とで、行って成果を挙げたのである。
安倍総理大臣が、第一次安倍内閣を崩壊させるしかなかった、仇敵の小沢一郎氏を、追放したのは、私のブログと、朝日新聞とメディアの皆さまが、友情で結びついて、チームワークで行ったからである。

自分の力では、小沢一郎に負けっぱなしだったものが、今ごろ出てきて、私たちに何をか訓示を垂れる立場になろうとは、おこがましいものである。
消費税の増税も、経済政策はまずは、民主党と、朝日新聞と、読売新聞も社説でたくさん応援したし、「増税は少子高齢化の対策で、有意義なこと」と書いたからである。
それをすべて、自分の手柄のような顔をしているが、私たちは忘れない。

また、2012年8月のアジア危機に際しても、対応したのは、野田総理大臣と朝日新聞の記者の皆さん、メディアの皆さん、そして素人ながら、志のあった、私という一ブロガーなのである。

そうしたことを、なかったことにしたいのが、安倍総理大臣なのではないか。
「飴と鞭」というやり方では、小沢一郎に勝つことができなかった人物が、エラそうに教育勅語をするものではない。
あなたが出てこられて、今の状況があるのは、私たちが友情と信頼に基づいて、一生懸命やったからなのである。
謙虚になるべきだ。
その傲然とした頭を、心から、垂れるべきである。


2015年12月28日月曜日

きょう、日韓外相会談。

きょうは、師走も28日となった。
官庁は御用納めの日である。
大掃除などをして、あとは忘年会であろうか。
明日からは本格的に、Uターンラッシュとなる。

こんなに暮も押し迫ったときに、外交は年末の最後の最後まで、とても忙しそうだ。
28日のきょう、岸田外相が訪韓して、日韓外相会談を行う予定だ、という。
慰安婦問題の妥結をはかっているらしい。

ところで、私もあらためて、友達や先輩に尋ねてみたのだが、慰安婦問題というのは、結局のところ、事実だったのか?

誰にどう尋ねてみても、答は明白で、今、日本政府がしようとしていることは、友好的な外交問題ではなくて、歴史をねじ曲げようとしている、ということらしい。
未来志向で考える、という意味はよいことだと思うが、韓国の人々の気持ちを考えると、これは、非情な国家的策略で、TPPやこれから起こるであろう戦争に関して、韓国を脅した、取引だと思う。
韓国は、中国や北朝鮮に挟まれたが、経済のこともあって、アメリカ組に着くことにしたようだ。

それにしても、安倍総理の「おわびの手紙」というのは、なんなんだろう?
心から謝罪するつもりは毛頭なくて、ただ、この場を丸く収め、あとあと利益を収めるための、演技で行う「おわび」というわけだ。
思い起こしてみれば、8月の広島、長崎での「おわび」も、そのあとの談話も、あとあとの利益、権益を思えば、簡単に頭を下げることができた、というわけなのだ。
どこからどこまでが嘘なのか、まったくわかりかねる。

ここ数年の安倍政権で、どの団体も、どの個人も、政権から「飴」と「鞭」の両方をもらったのではないか、と思う。
そう思うのは、私自身がその「個人」であるからだ。

テレビの報道番組では、有能なキャスターが、降板を明らかにした。
言論の封じ込めも甚だしい。
このテレビ局もきっと、「鞭」をくらったのだろうが、同時に、「飴」もたくさんもらっていたのだろう、と思うと、なんだか人間って、こんなものなのか、と思ってしまう。

だけど一番情けないのは、安倍政権である。
支配力はとても強めているが、その内容は、飴と鞭による拘束であり、「志を共にして集まった」とか、「尊敬の気持ちで集まった」というわけではないのだ。
何よりも確かなのは、安倍政治の内容を理解して支持しているわけではない、ということである。
「仕方がないから言うことを聞いている」のであって、「素晴らしい理想に共鳴している」というわけではない。

安倍氏の演説は、カリスマめいた、独特の調子を放っているが、これらのすべてが、甘い言葉と、なんとなく理想的に見える、へんてこな理屈に基づいているのだ、と思うとぞっとする。

民主主義、ばんざい、である。
これでもし、選挙制度がなかったら、権力者というのは、何をどこまで行ったのであろうか?
あとは、安倍政権が怖がっているのは、選挙だけ、ということになるだろうか。
しかしここに、マイナンバー制と国政調査が加わっている。
おそるべし、おそるべし、恐怖政治の時代となったわけなのである。


2015年12月27日日曜日

浅田真央さん・蝶々夫人。全日本選手権・2015

全日本選手権も、昨夜は男子のフリースケーティングが行われて、盛り上がっている。
地元、北海道では、こうして札幌に世界レベルの選手たちが集まることを、とても楽しみにしていて、たくさんの観客が、暖かい拍手で、迎えている。
日本ハムファイターズも、こうして、北海道の温かいファンに恵まれて、強くなった。
昨日の、羽生結弦選手の成績は、とても素晴らしかった。
スポーツをしていれば、そして仕事をしていれば、調子のいいときもあれば、そうでもないときもある。
「そうでもないとき」に現れてくるのが、実力というもので、このときに出てくるのが、練習の成果、というものなのだ、と思う。

私もこうして書く仕事をしていて、けっこう「易しい」文章をすらすらと書くものだから、あまり練習も訓練もしていないのだろう、と思われがちなのだが、実は、文章鍛錬というのは、欠かさずにしているものである。
それを、そうと見せないところが、やはり一流と呼ばれるための大切なことなのではないか、と自分で自分に言い聞かせている。

きょうは、女子のフリースケーティングがある。
宮原知子さんも、新しく登場してきて、女子の難易度はとても高くなっている。
そうしたところで、浅田さんがどのように、次の試練を乗り越えるのか、みんなが見ている。
私自身が、仕事に関しても、技術や練習に関しても、また女性としても、学ぶ気持ちで、一生懸命見つめている。

浅田選手は、ジュニア時代から、日本の女子フィギュアスケートの世界を、ひっぱってきた。
「憧れ」でもって、ひっぱってきたのである。
そして、新しいまだ幼いジュニアたちが、浅田選手の背中を慕って、たくさん、氷の上に舞い降りてきている。

浅田選手は、デビューのころは、「妹キャラ」で、かわいらしく元気に演じればよかった。
スケートを楽しめればよかった。
でも、大人になって、25歳になって、追われる立場になった。
その状況で、やはり先頭に立っているのだから、常に挑戦、挑戦である。
また、後輩の指導・育成に携わる立場になって、「お姉さんキャラ」も、身につけなければならないのだろう。
そういったところを、今まさに乗り越えようとしている。

私は、そういう生き方を、本当に尊敬している。

ところで、「和」の表現なのだけれども、私もずいぶんと考えたけれども、世界というレベルで、「和」を、特に女性の「和」を表現するのは、とてもむずかしい、と思った。
フィギュアスケートはもともと西洋のスポーツであるし、また世界から日本を見たときに、「エキゾチックな」印象を求められることが多く、その「エキゾチックな」かんじは、当の日本人が見てみると、なんだか違和感のあるものだ、と思うのだ。

いろいろな演出方法があると思うけれども、世界のレベルで競うことを考えて、「世界から見た日本」という演出で、「和」の表現をしてみるのも一案だと思う。
日本人が見て「これは日本的じゃないわ」と思ったとしても、世界の目で見て、「これが日本」「ジャパン」と思えれば、それでいいのではないか、と思う。

もうひとつは、羽生結弦選手が、「侍」「武士道」というような点で、(実際には陰陽道だが)「和」を表現したことにならって、女性には女性の「何か」を表現するのがいい、と思う。
でも私は、それは、京都の舞妓さんではないんじゃないだろうか…?と思う。
江戸の町娘だって、立派な日本女性であるし、明治の女だって、日本女性である…。

まだもう少し、シーズンは残されている。
私も、浅田さんと一緒に、世界に発信する「女性の和」を、もっともっと追求して考えていきたいと思う。
そのためにも、どうしても浅田さん、世界選手権の切符は、手にしておいてほしい、と願うものである。
世界に表現する、日本女性の素晴らしさを、一緒に表現して、進んでいきたい、と思う。





総理のご病気。

総理大臣は、どうもノイローゼらしい。
知っている人から聞いた話だが、ある日本人は、自宅のごはんの残りがあると、「アフリカの難民の皆様が困っているのに」と思って、傷んでいても捨てられないのだそうである。
それどころか、遠く何万キロも離れたところにいる飢餓難民のことを思うと涙が出て、食事ものどを通らないのだそうである。
テレビの報道を聴いて、まるで自分のことのように思い、外国と我が家との境目がわからなくなってしまう状態を、ノイローゼ、という。

しかし、確かにこの論法は正しい。
この「正しさ」で、総理大臣は、戦争を正当化して、たくさんの議員たちを論戦に巻き込み、打ち負かしてきたのだろうと思う。
しかし、難民だけじゃなく、「私」も、幸せになる権利があるのである。

貧困の子どもたちが出るのは、ひとえに政治家の責任である。
これを、なんともできないで、政治家づらをして「なごみスパ」に通っているのは、怠け政治家としか言いようがない。
誰がどんなふうに論戦をかましても、難民のために、今日の幸せを我慢する必要はないのである。



2015年12月26日土曜日

夢を買う~宝くじの楽しみ方。

今年も年末となった。
年末恒例の行事を、このブログでいくつか紹介しているけれども、大晦日の楽しみといえば、紅白歌合戦と、「年末ジャンボ宝くじ」の抽選発表である。
宝くじの思い出といえば、たくさんの人々に、その人の数だけ、きっとあるだろう、と思う。
私が思い出すのは、以前、ラジオ番組で聞いた、「宝くじ川柳」である。
「宝くじ はずれて今日から 仕事始め」 
嗚呼!

また、こんな思い出もある。
実は私、一家でひとりの「当たる人」で、300円の一枚買って、3000円当たったことがある。
この3000円で、万年筆を買った。
その後、書くことはますます、楽しくなった。

今年の年末ジャンボは、なんと10億円当たるのであるが、私は、まだ3億円というころから、夢を買うこの宝くじを、楽しみ尽くしている。

一番楽しいのは、使い道を考えることだ。
「3億円当たったら、どんなふうに使おう!」という計画を綿密に立てるのである。
これは、漠然としているよりも、できるだけ具体的なほうが面白い。
ただし、抽せん日当日までしか楽しめないので、買って神棚にあげたら、そのときから、ネットを駆使して情報収集を始めたいものである。

たとえばこんなふうである。

「欲しかったCD、全部買う!」
CDアルバム一枚の値段が3000円として、リストアップしてみたが、私のほしいのは100枚くらいである。
そうすると、CDだけで、300万円である。
すごい!
まだまだ使える。

次に、欲しかった本、全部買う!
けっこう高い専門書も欲しかったので、一冊5000円として、これをやはり100冊である。
そうすると、500万円也。

次に、マンションを買うことにする。
駅前の新築で、2000万円。

それから、車を買う。
レクサス 400万円。

う~ん。
足りない。
足りないのは、私の買い物の額なのである。
とても一億円使えないのである。

それで、翌日また考えて考えて、お友達にも相談して、「社会人留学っていいわよ」という話を聞く。
書店で、留学情報誌を見て計算する。
留学の学費、一年で500万円。
オーストラリアあたりがいい、滞在費 500万円。
これで合計4200万円。

やっぱり、3億円どころか、1億円も使えない!

そのあたりで、ようやく気付くのである。
3億円というお金は、おうちに持ってきて積んでおくことは不可能だ、ということである。
ならば、貯金しておこうか。
ところが、貯金とか預金には、限度額があって、ゆうちょ銀行などはこのところ、上限1300万円、ということなのである。
私の3億円、いったいどこにしまっておけばいいの?!

こうして、ようやく、資産運用の立て看板が、電車の窓から、気になるようになる。
株式か債券にして、保管しておくしかない。
いやこれは、保管ではなく、資産を運用するので、資金を活動させておく、ということなのである。

そうすると、やはり、宝くじは、当たったら、「みずほ銀行」様様にお願いして、資産運用してもらうことにする、それしかない。
みずほで通帳を作り、奥の部屋でよく相談して、いいところの株式などを紹介してもらおう、ということになるのである。
そうして、生きている限り、年金額のように、月々の利子を受け取ることにしよう。

このあたりで、プール付きの豪邸は、維持費と人件費のあたりで、あきらめている。
そして、「遊園地のお取り寄せ」は、2億円では不可能だ、ということも、わかってきている。
そして、月々の利子生活、というところに、落ち着いてしまった。
嗚呼!

それにしても、この当たり券、もし10億円当たっても、3億円当たっても、きっと、現金の山が手元にくることはきっと一度もないだろう、と思う。
銀行の奥の部屋で、通帳を持たされて終わりなのだろう。
そして、銀行としては、現金が動くことはなく、数字上で、金額が移り変わって、これまで以上に、資産運用をしていける、ということなのである。

年末ジャンボ10億円。
ずいぶんとはずんでくれたものだ、と思うけれども、実際には、銀行としても、歳末大セールをしていた、ということなのである。
きっと、今年も、銀行はすごく儲かったことだろう。

でもでも私は、この一枚の宝くじに、やっぱり夢を載せて、新しいタブレット端末などを、電気店に、さわりに行ったりするのである。



2015年12月25日金曜日

フィギュアスケート・全日本選手権始まる!

今夜から、フィギュアスケートの全日本選手権が始まる。
まずは、ジュニア、そしてペア、そして、男子ショートプログラムである。
羽生結弦選手は、スペインでのグランプリファイナルで、男らしい快挙をなしとげた。
本当に拍手喝采である。
あの、伝説となった完売御礼の「anan」は、もちろん私も手に入れた!
これからの羽生選手の挑戦は、王者の地位を堅持し続けることにあるだろう、と思う。
スポーツの世界は記録、記録ということで厳しいが、300点代を、コンスタントに出せるか、というあたりが、これからの目標になってくるのではないだろうか。
そうして、王者を維持し続けたところに、ステイタスがある。
これからは、ステイタスを築く時期ともいえるかもしれない。

また、こうしたトップクラスの選手が、素晴らしい演技をすることで、次々に新しい、若い選手が、出てくる。
きっと、テレビの前の小さな子どもたちだって、スケート靴を、サンタさんにお願いしたに決まっている!

また、女子のフィギュアスケートの熱も、もっともっとヒートアップしているところである。
今回の全日本選手権が行われる、札幌の真駒内アイスアリーナは、1972年(昭和47年)に、札幌オリンピックで使われたリンクである。
ここでは、最高にキュートな、ジャネット・リン選手が、演技を披露した。
その笑顔は、世界中に希望と喜びを広げていった。

(真駒内のスケートリンクは、日常的には、市民に開放されているので、私も友達と、スケート遊びに行ったことがある)(すべれます)

それはともかくとして、今回も、浅田真央選手には、期待が集まるところである。
日本は今、2020東京オリンピックに向けて、スポーツにはものすごく力を入れている。
オリンピックに出られるようなトップアスリートには、どうにも国から、至上命令がくだされているように思う。
「国威向上」なのだろうか。

羽生選手は、「和」のプログラムを見事に成功させた。
そして、世界トップクラスの成績を収めて「和」を世界に宣揚した。

どうにも私のカンでは、浅田選手も「蝶々夫人」で、「和」の表現を申し渡されているのではないか、と思える。

しかし、蝶々夫人は、日本人女性をモチーフにした、といっても、イタリアのオペラである。
まして、ワールドワイドでグローバルなこの時代に、まるで国粋主義、まるで民族主義の「和の宣揚」なんか、気にする必要ない。
浅田さんは浅田さんで、自分なりの演技を、集中できればいい、と思う。

このところの浅田さんの演技は、とても表現が豊かである。
そのぶん、蝶々夫人になりきりすぎて、全身に悲しみや恋が表現されてしまう。

こうしたときは、表現と技術を、均等に分け合うことが大事である。
むずかしい技術を必要とされるときだけ、恋する夫人だったのが、トップアスリートに戻るのである。
文章もそうであるが、表現と技術は、ときに相反するものである。
今の表現力で、「技術のとき」の切り替えができれば、きれいにジャンプが決まって、高得点間違いなしである。

今夜も、明日も、あさっても、テレビの前で、スケート靴を抱きしめた子どもたち、そしてジャネット・リンの笑顔にまいって、スケートを始めた私も、ずっと、観ている。
がんばってください!応援しています!



2015年12月24日木曜日

クリスマスイブに映画「ボディ・ガード」!

きょうは、クリスマスイブ!
家族で、恋人同士で、ひとりぼっちで、仕事の山と一緒に、いろいろな人がいろいろなところで、クリスマスイブを迎えるのだと思う。

私は、午前中に、ささやかながら、エビフライとフライドチキンを、一生懸命揚げた。
そしてこれから出かけて、予約した小さなクリスマスケーキを受け取りに行ってくる。
早めのクリスマスイブの準備は、13時35分からの映画を楽しみたいから、ちょっと急いでいる。

テレビ東京系、7チャンネルで、13時35分から、映画「ボディガード」が放送される。
クリスマスイブにぴったりの、ラブロマンスである。
きょうは、映画とケーキとチキンで、クリスマスを祝いたい。
もしよかったら、年末のお忙しいところ、手をとめて、一緒に映画を見ませんか?

by 朝倉聡子♪


2015年12月23日水曜日

子どもと女性の貧困について。

年末年始となった。
子どもたちにとっては、冬休みにクリスマス会、おじいちゃんおばあちゃんの元へ里帰り、お年玉、と楽しみなことがたくさんある。
「子どもは風の子」とはよく言ったもので、どんなときにも、子どもたちは元気である。
しかし、この時期、クリスマスやお年玉を、楽しみに思うことができない子どもがたくさんいる。
冬休みで、学校が休みだからといって、家で面白いことがあるわけではない。
お母さんのひとり親家庭で、そのお母さんが、仕事に行って、生活を支えているのである。
お昼ごはんを、お母さんが作ってくれるわけではない。
それどころか、冬の寒い一日を、ストーブもエアコンもなしで、過ごさなければならない子どもが、案外たくさんいる。

私は、そうした子どもたちが、どのようにして、どんな理由で、貧困になってしまうのか、いろいろ考えてみる。
子どもたちの貧困は、そのまま、その母親である女性の貧困でもある。
女性たちがなぜ、幼い子どもを抱えて、貧困になってしまうのか、いろいろな原因も理由もある。

理由をつきつめてみれば、男女間の問題であったり、性格の問題であったり、あるいは、ご両親の問題かもしれないし、教育の問題でもあるかもしれない。
また、労働環境の問題もあるかもしれない。

そうした理由や原因を、もっともっと、たくさんの人たちが、関心をもって、取り組んでほしい、と私は思う。

メディアでも、もっともっと取り上げて、たくさんの人が、関心を持ち、情報を入手し、そして、その結果としては、社会全体で、子どもたちの貧困に取り組めるようにしたいものだ。
また、産まれてきた子どもたちが、平等に教育を受け、食べるものや寝る場所に困らないように、国政で取り組んでほしい、と私は総理大臣に、お願いしたいと思う。

国の予算で、子どもたちの貧困に取り組んでほしい、と切に願っている。
また、女性の貧困に対する対策も、専門家の助力や、たくさんの人たちの専門的な意見を取り入れて、具体的に打ち立ててほしい、と心から願っている。

年末の寒いときに、子どもたちが、暖かいリビングで、クリスマスケーキとクリスマスプレゼントに囲まれて、そして、幸せそうなお母さんに抱きしめられて、笑顔ですごせるように、心から願っている。


2015年12月22日火曜日

冬至からクリスマスにかけて。

日が暮れてきました。
冬至ですね。
一年で一番、夜の時間が長くて、昼の時間が短い、そういう日です。
子どものころ、そうした説明を聞いて、不思議な気がしたものです。
太陽さんは、ちょっと気分屋さんなのかな、と思ってしまったものです。

日本やアジアでは、冬至と呼んで、ゆず湯に漬かったり、かぼちゃ料理をいただいたりします。
また、暦の作り方も、冬至を始点にしているようです。

ヨーロッパでは、キリスト教にとって、キリストの生誕の日、ということで、お祭りや儀式が行われたりします。
でも、皆さんもご存知のように、キリスト教を信じる人たちの説にもいろいろあって、実際にキリストが生誕したのは、12月ではない、という話もありますね。

これは、もともと、ヨーロッパに古くから根付いていた、太陽への信仰と関わりがあるようです。
太陽を尊敬する気持ちや風習が、キリスト教に重なって、冬至とクリスマスとニューイヤーが近いのですね。

きょうから、クリスマスまで、テロに関しては、特別な注意をしましょう。
明日は天皇誕生日で、日本ではゲリラの可能性も否定できないです。
夜も暗くなって、いろいろ心配ですから、みんなで声をかけあって、早くおうちに帰りましょう。
そして、静かにこれから年末年始を、乗り越えましょう。



2015年12月21日月曜日

今週の予定。

週明けの月曜日となった。
年末年始に向けて、ラストスパートの一週間である。
今回の年末年始の休みは、
26日が土曜日なので、27、28、29、30、31、1、2、3、と、
9連休になる。
里帰りや旅行の予定を立てている人も多いだろうか。

今年の年末年始は、いろいろな点で、
毎年とは少しちがう、ということを、考えにいれてみたい。
楽しみもある。
年賀状も楽しみだし、年末ジャンボ宝くじも、今年は1等が10億円だ、ということである。
しかし、恐れや不安もある。
テロの不安である。

特に、イスラム教とキリスト教の対立、といった点から、25日のクリスマスはもしかしたら、何かあるのかも…?と推測する人もいる。
もし、クリスマスが無事に終わったとしても、今年から来年の冬にかけて、年末年始にかけて、対テロ対策では、いろいろなことが想定される。

そういうわけで、今週は、できることはしておこう。
まず、インフルエンザの予防接種である。
これは、来年の2月まで、長い期間に有効である。
真冬にテロが起こって、逃げたり隠れたりしなければならないときに、風邪やインフルではどうしようもない。
インフルエンザの予防接種を、今週中に受けておこう。
ご近所の内科が開いているのも、きょう月曜日と、火曜日、そして、水曜日は天皇誕生日で祝日だから、木曜日、金曜日だけ、となる。
土曜日の診療はないもの、と思って、病院の9連休に備えたい。
子どもたちのことも、対応しておきたい。

そういう意味で、風邪薬や頭痛薬などの常備薬も、今のうちに、ドラッグストアで備えたい。

それから、年末年始と冬の期間にかけて、歯医者にも行っておきたい。
痛いところがなければ、歯科検診でもいいし、今痛いと思うならば、すぐに治しておこう。

反戦派は、年末年始の活動を予定しているのだろうか。
私は思う。
私もそれなりに長い期間、世界情勢に関わってきて、今の情勢もよく考えて、理解しているつもりである。
今、日本で、憲法がどうであるとか、あるいは、主義主張で、平和・反戦運動を起こしても、対テロ戦争を止めることはできない。
男性から愛されている人も、愛されなくてつらかった人も、よくよくわかっていることであるが、男性というのは、一度言い出したら、女性の言うことなど、聞かないものだ。
男性には男性の思考があり、理屈があり、世界があり、社会があり、社会構造があり、価値観があり、そして、戦う理由がある。
そうしたときに、女性たちは、参加しないなら、ただ黙って、身の安全を第一に考えて、対テロ戦争が終わるまで、待つしかない。

静かに、おとなしく、家でじっとしているのがいい。
私たちの予想をはるかに超えたところで、世界、というレベルで、何かが起こっているのである。
戦争に参加しないなら、平和主義者のままで、戦争が終わるまで静かに待つこともできるだろう。

テロの脅威がすぐそこにあるときに、私たちは、態度を決めなければならないときに来ている。
流されても、選んでも、自分の意志だけではない、歴史や時代や世界が、物事を動かしているときに、静かに息をひそめていることもまた、ひとつの大切な選択であると、私は思う。

2015年12月20日日曜日

「喜びを表現する」ということ。

きょうは、日曜日。
師走となれば、いろいろと忙しい。
貴重な日曜日である。
私はきょうは、年賀状の住所録を打ち込みをしていた。
毎年、少しずつ引っ越しなどがあって、正確に住所を打ち込むのは、
根気のいる作業であるが、
お正月を思うと、それも師走の日曜日ならではの楽しみである。

昨日、土曜日には、「ミュージックフェア」を見た。
たくさんの、素敵な歌があった。
私の大好きな松田聖子さんの歌もあった。
「生きてるって素晴らしい」!
松田聖子さんにしか表現できないフレーズである。

人生には、山があって谷がある。
人にはいろいろな感情があって、喜怒哀楽がある。
表現者というのは、喜怒哀楽のすべての感情を、
表現できる技術力がなければならない。
それがすべてできないと、優秀な表現者とはとても言えない。

松田聖子さんは、特に「喜び」「楽しさ」を表現する力がある。
作詞家の松本隆さんも、松田さんのことを、「天才」と高く評価している。
作詞家としては、「恋をした喜び」「恋がかなったうれしさ」「恋人と一緒にいるときのときめき」を、歌手に表現してほしい、と願うものだ。
それを、頭のてっぺんから足のつま先まで、「うれしい」と表現できるのが、松田さんだ、ということである。
私も、松田聖子さんの歌からは、恋をする喜び、歌う喜びが伝わってくる。
そして、生きる元気が湧いてくる。
湧いてくるというよりは、元気をもらえるのだろうか。

表現者としては、視聴者や読者を、悲しい気持ちにさせたり、落胆させたり、暗く沈んだ気持ちにさせたりするほうが、技術的には、簡単なことである。
これは、映画でも言えることであるが、たとえば、コメディ映画などを、「お笑い」といって、ちょっと低く見る人もいるけれども、実際には、視聴者を泣かせるよりも、視聴者を笑わせるほうが、ずっと難易度が高いのである。

日本には伝統的に、話芸というものがある。
落語である。
この落語は、さまざまな種類はあるものの、お客さんを「笑わせる」ところに、高い技術が求められている。
人を泣かせることは簡単だが、笑わせることは、伝統芸能として弟子入りして習い、そして襲名するほどの、高い高い技術だ、ということである。

笑い、喜びというのは、ポジティブシンキングである。
ポジティブでいる、ということは、絶え間ない努力の結果である。
一方で、悲観的である、悲しんでいるということは、運命や人生に流されている、ということである。
人生は、自分の手で切り拓き、自分の手で建設するものである。
流されている人は人生を、「与えられるもの」という言い方をする。

私は、表現者としての松田聖子さんの特徴を、「愛される喜び」特に、「男性から愛され守られ、大切にされている女性の喜び」だと思う。
これは、特別な才能でもあるかもしれない。
フィギュアスケートの浅田真央さんも、この「愛される喜び」を表現できる才能を持っている。
そして、それを演じて、視聴者に、元気と勇気を与えることができる。

一方で、ひねくれて、ふてくされて、陰気で暗い表現者は、愛されないつらさ、愛されないみじめさしか、書けない。
というのは、体験が浅いからである。
人生体験が浅く、思索も浅薄である。
だから、「人生は喜怒哀楽」などと言いながら、実際には「人生は、怒と哀しかない」のである。

こうした表現者が、なにごとかを表現して、それを読んだり聞いたり見たりすると、結局のところ、不幸になる方法はわかるけれども、幸せになる方法はわからない。
これは作者自身が、幸せになる方法を知らないからである。

私は、幸せというのは、努力してその上に建設して、一生懸命がんばったところにある、と思う。
そういう女性が、たくさんの男性たちから、愛され、守れていると思う。
松田聖子さんの歌は、たくさんの男性たちから支持されている。
それは、聖子さんが、元気で、生きる喜びに満ち溢れているからである。
愛される喜びがある女性は、美しくて気品がある。
そして、絶賛されている。
これからも、私は、松田聖子さんを応援したいと思う。

天国のキッス →

https://www.youtube.com/watch?v=xZvqFEDguV0

2015年12月19日土曜日

今夜は、おうちで「ミュージックフェア」を見よう!

今年もあと…何日だろう?
「もういくつ寝るとお正月♪」という歌は、
カウントダウンの歌なのだ、と気づいた。
私はこの時期、卓上カレンダーに、
カウントダウンの数をつけている。
あともういくつ眠ると、2016年になるだろう?

年末ということもあり、
一年をしめくくるための、さまざまな催しがある。
「今年の漢字」というのも、面白い企画である。
ある雑誌では、タレントのみんなに、
それぞれに、「今年の漢字」を尋ねていた。
私もそろそろ、自分自身の「今年一年」を、
あれこれと考えている。

テレビでは、音楽番組で、
「今年一年の総集編」を放送することが多い。
きょうは土曜日。
土曜日の夕方6時というと、
フジテレビのミュージックフェアである。
新聞のテレビ欄には、Music Fair の頭文字をとって、
「MF」と記載されているようだ。

ミュージックフェアは、
静かなスタジオで収録した、質の高い音楽番組として、
長年親しまれている。
そして、毎年暮れには、「今年の総集編」
を放送する。
きょうが、その放送日である。

きょうの放送では、私の大好きな、松田聖子ちゃんが、
登場するようである。
聖子さんの歌声は、うれしさやよろこびが素直に表現されていて、
大好きだ。
今夜は、早く帰って、おうちでテレビを見よう。
「ミュージックフェア」を見よう、っと!!!

ミュージックフェア 公式サイト →
http://www.fujitv.co.jp/MUSICFAIR/

2015年12月18日金曜日

「波の数だけ抱きしめて」

きょうは、晴れて気持ちのいい金曜日。
クリスマスの準備の手を止めて、
少し楽しんでみたい。
午後1時から、NHKのBSプレミアムで、
映画が始まる。
「波の数だけ抱きしめて」
中山美穂さんと、織田裕二さんが主演の、
湘南が舞台の映画である。
楽しみに、観ようと思って、
今、おひるごはんとポップコーンの準備をしている。





2015年12月6日日曜日

テロに注意!

一昨日、政府の「国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部」が、テロ対策の強化策を決定した。
パリの同時テロを受けた対応である。
こうして、日本でも「テロ対策推進本部」が出来て、そこが、こうして首相官邸に集約する情報一元化を打ち出した、ということは、日本でも、テロが起こる危険性がある、ということだと、私は思う。
まだ、政府から、たとえば「非常事態宣言」のようなものは出されていない。
もしも、政府から正式な宣言が出たら、もしかしたら、パニックが起こるかもしれない。
また、テロ組織にむしろ「チャンス」を与えてしまうかもしれない。
だから、気になる人から、まず自分から、テロ対策をしていってはどうか、と思う。

パリのテロ事件から学べることが、いくつかある。
パリで同時多発テロが起こったのは、夜の9時過ぎであった。
この、夜の9時過ぎに、どんな場所で起こったかというと、ひとつは、コンサートホール、つまりライブハウスである。
それから、レストラン、これはお酒も出す料理屋である。
それから、郊外のサッカースタジアムである。

ここに出かけていた人は、どんな用事で、この時間帯に家にいないで、外にいたのだろうか。
現代は、夜型社会である。
夜に、仕事が終わった後に、趣味や友達付き合いをするのは、もちろん自由である。
でも、仕事や家族でどうしても出かけなければならない用事だった、とは言い難い。
テロは許しがたい行為であるが、テロに遭った人たちが、どんな行動形態をしていたのか、そうしたところから、学べるものは学んでいこう。
必要な用事でなければ、夜は出歩かないようにしたい。

特にこれからの季節は、忘年会やクリスマス会、年末の用事など、出かける行事が増える季節である。
「本人の自粛」というところで、テロを未然に防ぎたいものだと思う。

また、非常事態宣言のあとのパリの様子を、インターネットなどでうかがい知ることができる。
できるようでできないかんじもある。
しかし、私たち日本人は、東日本大震災のころから、いざというときの備え、をする習慣ができている。
もしも夜や、真冬の寒い時期に、テロが起こったら、どういう状況になるかよく考えて、予備のたくわえを、できる人から、自主的にしていこう。

それから、こうしたときは、男女平等もなにもないものである。
男性は、女性を、家族を、しっかり守っていこう。
職場では、女性が、帰宅が遅くならないように、守っていこう。
子どもたちの登校下校の道も、保護者や地域の人たちで、よく守っていこう。

現代女性はこういうと、とても怒るかもしれないが、こうしたときには、男性の言うことを聞こう。
父親や夫、職場の男性や上司のいうことをよく聞いて、自分のことは自分でできるように、がんばろう。

これから寒さの季節にもなる。
栄養をつけて、あったかくして、よく睡眠をとって、不測の事態も、乗り越えていこう!!


2015年12月5日土曜日

フィギュアスケート・グランプリファイナル・2015

先週末は、フィギュアスケートのNHK杯で、
本当に熱い熱い三日間を生きることができた、と思う。
特にやっぱり、「歴史的瞬間に居合わせた」「異次元」と呼ばれた、
羽生結弦選手の演技は、素晴らしかったと思う。
ショートプログラムでは、ショパンを華麗に熱く演じてくれた。
私もあらためて、ショパンを「聴いた」気持ちでいる。
そして、フリースケーティングでは、いまだ成功したことがない、とかねがね言われていた「和」の演技を、見せてくれた。
ジャンプがすべて成功、という素晴らしい演技である。
日本の「和」が、胸に熱く伝わってきた。
そして、世界最高得点である。
「王者」と自分で言い切れる自信が、本当になんだか、うれしい、というかんじである。

フィギュアスケートの「シーズン」というのが、だんだん理解されてきたこのごろである。
いくつかのグランプリシリーズで演技して、それから、グランプリファイナルが行われる。
これから、12月10日(日本時間では12月11日の早朝)に、スタートする。
スペインのバルセロナで行われる、というから、選手たちはすでに現地入りしていることだろうか。

今、ヨーロッパでは、厳戒態勢が敷かれているところである。
そのなかで、競技を行うということは、「平和の勢力がめげない」ということだと思う。
男子選手はもちろんのこと、女子選手も、世界情勢がわかっていての、競技だと思うので、いろいろ心細いこともあるだろうけれども、がんばってほしい、と思う。

浅田真央選手の、NHK杯のフリースケーティング「蝶々夫人」は、とても素晴らしかった。
浅田選手の目指すところを、よく知らなくて、あの女性らしい演技を、高く評価しない人がいる。
けれども、浅田選手が目指しているのは、世界レベルなのだ、ということを、理解してほしいと思う。
まだ十代のうちは、「元気」「活発」「陽気」でよかった。
元気いっぱいのジャンプを飛べればよかった。
でも、世界は、特に欧米は、「女性らしいしなやかさ」「女性らしい豊かさ」があって当たり前の場所である。
浅田選手が立っている場所は、「世界」なのである。
アジア的な、アクロバットではなくて、女性的な演技を目指している。
そういう視点で、浅田選手の演技を、評価していきたいものだ、と思う。

ところで、浅田選手のショートプログラム「素敵なあなた」これからもっともっといろんなふうに伸びていく可能性のあるプログラムで、これからもとても楽しみである。
私はちょっとこんなふうに思った。
それは、フリースケーティングの「蝶々夫人」のストーリーが、始まっていて続いている、というかんじである。

蝶々夫人は、結婚してからがちょっと長いストーリーであるが、彼女が、夫となるその海軍士官に出会ったときには、どんな気持ちだったろう?と思うのだ。
そして、その背の高い、西洋の恋人から、プロポーズされたときの、喜びと、「有頂天な」気持ちである。
「あなたって本当に素敵ね!この私を選ぶなんて、いかしてるわ!」
そんな、ちょっと生意気な気持ちだろうか。

私もこのジャズの名曲を、日々の暮らしのなかで、口ずさんでいる。
大好きな歌である。
一緒に、この世界のなかで、がんばっていこうね!


2015年12月4日金曜日

シングルマザーとその子どもたち。

子どもの貧困が今、わたしたちが抱える問題となっている。
子どもの貧困について、テレビでも新聞でも、インターネットでも、詳しくその内実が語られている。私もそれをよく読んでみる。
子どもの貧困には、いくつかの典型があるようだ。
ひとつは、以前は「母子家庭」と呼ばれた「ひとり親家庭」である。
母子家庭も父子家庭も、一様に子どもを育てるには、課題を持っている、という意味で、名称を「ひとり親」にしたのだろうが、やはり、ずっと以前からそうであったように、母子家庭つまり、「母ひとり子ひとり」という家庭において、貧困の度合いが、強いようである。

私が気になったのは、これらのニュース記事を読んでいて、その詳細が語られているにも関わらず、この家庭が、どうしてひとり親家庭になったのか、その理由については、ほとんど触れられていないことだ。
子どもが産まれた以上は、今は母子家庭であったとしても、必ず父親の存在があったはずである。
なぜ、結婚したにも関わらず離婚をしたのか。
あるいは、なぜ結婚をしなかったのか。
そのいきさつについては、ほとんど触れられていない。

しかし、新聞ニュースが触れても触れなくても、だいたいのところは想像がつく、というところだろう。
ひとり親家庭になった母は、結婚しても夫婦関係がうまくいかなかったので、離婚したのである。
夫婦関係がうまくいかなかったのはなぜなのか。
その理由は千差万別だろうと思う。
なかには、夫のDVを挙げている記事もあった。
あるいは、インターネット上で匿名の記事があって、夫の浮気が原因で離婚した、という例がある。
いずれの場合でも、夫つまり、男性の側に原因があって、離婚せざるを得なかった、ということである。
けれども、子どもには何の罪もない、夫は憎いが、子どもは可愛い、というのが、母親たちの気持ちである。

また、もうひとつの、ひとり親家庭の理由としては、もともと結婚しないで、子どもが産まれた、という状況である。
「シングルマザー」という言い方には、結婚してから子どもが産まれて、それから離婚した場合と、最初から結婚をしなかった場合と、両方が含まれている。
私が特に、いろいろと思いを至らせるのは、後者の、「結婚をしなかった」場合のほうである。
シングルマザーのなかには、結婚をして産まれた子どもも、結婚をしなかった場合も、どちらも同じように扱ってほしい、という願いがあるようだ。
それで、「シングルマザー」という言葉でひとくくりになっているが、子どもが産まれるまでの過程は、ずいぶんとちがうように思える。

私が、ここで、シングルマザーに至る「いきさつ」にこだわるのは、ひとつ大切な理由がある。
それは、母親となった女性が、それで本当に幸せだったのか、よい選択をしたのか、という大きな疑問があるからである。
やはり、子どもを持つほど、父親となった相手の男性を愛したのならば、結婚したかったのではないだろうか。
結婚したかったのに、できなかった、それは、女性として、幸せなことなのだろうか。

「いろいろ事情があって結婚はできなかったけれど」
という言葉で、自分が持つ複雑な恋愛状況を、正当化して、見えるものも見えなくしてしまってはいないだろうか。
「子どもをもつくらいに、私たちは愛し合っていた」
そういった理屈をつけて、結婚できなかったこと、結婚した夫婦や結婚後に産まれた子どもとの「ちがい」があることを、なんとか自分の気持ちに、整理をつけたいのではないだろうか。

同じことは、結婚したけれども離婚した母子家庭にも言える。
なぜ、他の夫婦はうまく関係が続いて、生涯にわたって伴侶でいられるのに、なぜ「うちの」家庭だけが、うまくいかなかったのか。
本当に、「男が悪い」「男性の責任」なのだろうか?
本当に、妻の側、女性の側に、なんの責任も原因もなかったのだろうか?

私は、こうした問いに対して、なかなか答が出てこないことを、残念に思う。
そして、彼女たちの、「いろいろ事情があって」「愛し合ってはいたのだけれど」という気持ちの整理のための理屈を、正当化して、「男性が悪かった」ことにすることを、よくないことだと思う。
このところの、特に女流文学のほうでは、こうした理屈を、正当化するような文学が多いと思った。
そして、そこに愛があったから、という理由で、何か自分を楽にしたい、あるいは、愛という言葉で、人生から逃避しようとしているような気持ちを、思った。
それは、「楽な方向に流されたい」という気持ちでもあるし、女性としての母性本能、つまり、「本能に流された生き方」とも言えるのではないか、と思った。

けれども私は、そうしたシングルマザーや、離婚に至った母親たちを、責めているわけではない。
まして、生きている価値がないとか、人権もない、とか、自由な発言もできない立場だ、と言っているわけではない。

私は、彼女たちが一様に抱えている「なぜ?」の問いに、答えようと思ったのである。

私は昨年、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の感想を書いていた。
脚本家の中園ミホさんは、結婚しなかったシングルマザーである。
中園さんが、「花子とアン」の放送が始まる前から、シングルマザーであることを宣言して、「大いにやらかそう」みたいなことを言っていたのを知って、私は、中園さんに、教えてあげたくなったのである。
「なぜ、ワタシの恋愛は、結婚に至らなかったのか?」
というその理由である。

「花子とアン」の放送を見ていて、ヒロインの花子の行動や言動をつぶさに見て、私はそこに、「結婚に至らない恋愛」のたくさんの兆しを見て取った。
それを、ひとつひとつ、ブログに書いて、アップしていったのである。
そうすると、ストーリーが、誰が見ても、つじつまが合わなくなってきたと、思わないだろうか?

シングルマザーになった理由を、「なぜ、私の両親の恋愛は結婚に至らなかったのか?」というテーマとして考えてみることもできる。
私はここがよく見える。
このあたりがわかると、自分自身の出自も、自分自身の存在価値も、よくわかってきて、すっきりするのではないだろうか?

もし、要望があれば、それを何回かに分けて、書き綴ることにしようと思う。


2015年12月2日水曜日

今夜12月2日・FNS歌謡祭♪

12月、師走となった。
いろいろなことがあった一年である。
年末恒例の行事が、次々に行われている。
年賀状はもう書いただろうか?
私は、パソコンとプリンターを駆使して、
毎年、かわいらしい年賀状を印刷している。
今年の年末は、郵便事情が、遅れがちになっている、
という話がある。
もともと、お歳暮の季節でもある。
マイナンバーの配達が遅れていて、
気持ちが落ち着かないかもしれないが、
郵便局と自治体を信じて、待つことにしてみよう。
私は、マイナンバーは届いた。
郵便配達の人に、「お待ちしていました」
と言うと、笑顔で応対してくれた。

郵便局もがんばっているから、
私たちも、年賀状は、余裕をもって、
住所や郵便番号は、わかりやすい文字で、
書くことにしよう。

真冬のシーズンにさしかかり、
夜はすぐに暗くなる。
先週末は、夕暮れになると、
フィギュアスケートが放送されて、
本当に素晴らしかった。
私たちは、この冬、
風邪をひいたりしないように、
外出なども、必要ではない限りは控えて、
家で家族と一緒に、
手作りのお料理をいただきながら、
テレビで、楽しむことにしてはどうか、と思う。

今夜、12月2日は、フジテレビ系で、
FNS歌謡祭の放送が行われる。
これも、ライブ中継なので、
なにごとにおいてもライブ中継が好きな私は、
毎年、楽しみにしている。

FNS歌謡祭は、大晦日のNHK紅白歌合戦とは、
また、雰囲気がちがっている。
出場する歌手のメンバー構成が、
若手が多い。
紅白歌合戦だと、演歌の歌手も登場して、
老若男女向けの構成になっているが、
FNS歌謡祭は、まったく若者向けの構成になっているのではないかと思う。

さらに楽しみは、さまざまな歌手が、
コラボをするところである。
FNS歌謡祭ならではの、スペシャルコラボや、
ここでしか歌わない曲があったりする。
誰かのとてもいい歌が、
別の歌手でカバーされて歌われて、
とても新鮮な聞き心地になる。

また、東京のホテルの大広間に集まって、
それがライブ中継されるので、
観客は、参加する歌手のメンバーである。
有名な歌手の皆さんが、
テーブルに着席して、
ジュースを飲みながら拍手をしていたり、
歌っている人の応援をしていたりするのが、
みどころのひとつになっている。

演奏は、ひとつの楽団で行うわけだから、
特に私は、ピアノを弾いている人に注目している。
次から次に、曲が奏でられるわけだが、
そのほとんどすべてを、ピアノ演奏するので、
とても尊敬してしまう。
時には楽譜を宙に飛ばして、
熱演している。

夜7時に始まって、
11時過ぎまでの4時間の長丁場である。
夕食や夜食を準備して、
曲と曲の間にお風呂にもはいって、
じっくりと、ゆったりと、
音楽にひたる一夜となる。

私も今夜は、録画もしかけて、
テレビで音楽を楽しみたいと思っている。

FNS歌謡祭ホームページ →

http://www.fujitv.co.jp/FNS/2015/contents01.html

2015年11月28日土曜日

浅田真央さん。NHK杯・2015.

真冬の楽しみといえば、やはりNHK杯のフィギュアスケートである。
毎日、スケート三昧をして楽しんでいる人も、たくさんいるようだ。
昨夜は、女子ショートプログラムだった。
私もずっと以前から応援している浅田真央選手。
ジャズのナンバー「素敵なあなた」を、見事に演じていた。
ジャズの「魂」というのは、こういうところにあるのかもしれない。
何よりも、「恋」の素敵さが、伝わってきた。

浅田選手、今季絶好調である。
とても調子がいい。
だから、ちょっと曲よりも、動きが早くなって、勢いが余ってしまったようである。
これまで、努力と訓練で演技してきたスケートだけれども、一年の休暇ののち、とても楽しめるようになった、という。
きっとフリーの演技も、とても自信があるのだろう、と思う。
その勢いがあまって、ジャンプの着氷がうまくいかなかったのではないか、と思う。

これまでには、あまりしなかったことかもしれないが、少し勢いを抑え気味にする、という技が、求められるのかもしれない。
蝶々夫人、とても楽しみである。

2015年11月26日木曜日

フィギュアスケート・NHK杯2015。

明日11月27日と、あさって28日、そして29日と、
フィギュアスケートのNHK杯が開かれる。
明日27日金曜日は、女子と男子のショートプログラムが行われる。
あさって28日土曜日は、女子と男子のフリースケーティングが行われる。
とても楽しみである。

特に今年は、日本でもテレビとインターネットの同時放送を始めるための、今回は、試験放送ということで、パソコンのインターネットでも、タブレットでもスマートフォンでも、リアルタイムに競技の放送を楽しめる、というわけである。
私もさっそく、NHKのサイトから、スマートフォンの視聴ができるように、アプリをダウンロードしておいた。
準備万端である。

今年のNHK杯の見どころは、いろいろあるが、各種スポーツ新聞、スポーツサイトなどでたくさん書かれている。
私もそういった、詳しい競技の記述を読むのが大好きである。

男子のショートプログラムでは、金メダリストの羽生結弦選手はもちろんとして、そのライバルである、無良崇人選手の演技も、とても楽しみである。
先月のアメリカでの演技を、動画で観たのだが、ショートプログラムの「黒い瞳」は、とても素晴らしかった。
ロシア民謡は、フィギュアスケートの定番であるが、無良選手は、どんな女性の「黒い瞳」を思っていたのだろうか、奥さんであろうか、まだ幼い娘さんであろうか、地に足の着いた、しっかりとした、男の愛情を感じさせるものであった。
指から、エッジから、あふれるような、「真冬の男の愛情」が、感じられた。
明日もとても楽しみである。

無良選手の、フリーの曲は、シルク・ド・ソレイユの「O」である。
「O」は、「オー」であり、フランス語の「水」を意味するそうだ。
シルクドソレイユといえば、現代の前衛の大道芸で、世界的にとても有名で人気がある。
前衛というのは、カウンターカルチャーとも呼ばれる類の芸術である。
その本質というのはなんなのか。
なんなのかわからないところが、前衛的、というところだろうか。
カウンターカルチャーと言えば、「今あるものに対抗する」「今まであったもの、既成概念に抵抗する」というような意義がある。
そして、シルクドソレイユの舞台もそうであるが、ボーダレス、つまり、国境のない文化芸術を表現している。
「国境のない」という言い方も、さまざまな解釈があるだろうが、私の感じるところでは、たとえば、西洋的であるとか、東洋的であるとか、あるいは、民族的であるとか、時には政治的であるとか、そういったことのすべてを超越したところに、新しい芸術を求めたものである、と思える。
しかし、無良選手の「O」にも見て取れるように、「西洋でも東洋でもない」というよりは、「西洋であり、東洋でもある」というふうに、たくさんの複雑な要素を取り入れたもの、といえそうだ。
このあたりを、無良選手がどのように表現するのか、とても興味深い。

ところで、町田樹選手はどうしたのだろう?
昨年、シーズンの途中で引退表明をして、それっきりである。
とても惜しい選手である。
しかし、町田選手の昨年の選曲には、少し無理があった。
というのは、ベートーベンの第九合唱付きを選んだからである。
合唱というのは、たくさんの人数が集まって表現するものである。
それを、ひとり氷上で表現するには、かなりの技術が必要とされた。
町田選手はそこに挑んだわけであるが、惜しくも引退である。

実は今年の無良選手にも、同じようなことが言える。
無良選手のフリー曲「O」は、たくさんの劇団員が集まって表現するものなのである。
舞台というのは、友情の集まりである。
実は、前衛的である人たちというのは、話をしてみると、人懐っこく、和気あいあいとしているチームである場合が多い。
同じ感性を持ち、同じ舞台をやり遂げようとする、目的意識や連帯感があるかもしれない。
「前衛」それ自体は、とてもシュールで時には「なんかこわい」ものであるのに対して、それを演じる人たちは、むしろ明るくて陽気で、底抜けに楽しいのである。

考えてみれば、ボーダレスというのも、「みんなで仲良くやろうよ」という意味かもしれない。
それくらい、今の世界は、ボーダレスな気心で満ちている、とも言える。

明日のNHK杯は、夕方4時にはスタートである。
各種情報をかき集めて、冬の夕暮れの寂しい時間帯には、鍋でも囲みながら、アイススケートを楽しみたいものである。
私も、そんなふうに、冬の夕べを迎えることにしようと思っている。


フィギュアスケートNHK杯公式サイト →

http://www.nhk-trophy2015.jp/


NHK杯 ネットで観るには →

http://www.nhk.or.jp/figure/

2015年11月21日土曜日

羽生結弦選手、「オペラ座の怪人」素敵でした!

きょうも、とても寒い。
本格的な冬のシーズンが始まろうとしている。
冬には冬の楽しさがある。
それが、私も大好きな、フィギュアスケートである。

男子選手で、その演技を楽しみにしているのは、
ソチ五輪で金メダルをとった、羽生結弦選手である。
圧倒的な強さで、昨シーズンも絶好調であった。
昨シーズンは、フリーの曲は、「オペラ座の怪人」であった。
「怪人」の恋する悲しみとその切ない思いが、
美しく表現された、素晴らしい演技だった、と思う。
私も、テレビ画面の前で、拍手をおしまなかった。
感動をたくさんもらえて、
本当に、フィギュアの選手の素晴らしさを思った。

今年もシーズンが始まり、
羽生選手の演技を見ていると、
本当に、すがすがしい冬の凛とした北風を思わされる。

ソチで金メダルをとったころよりは、
体格が、よくなったと思う。
これは、きっと誰からも言われることだろうと思う。
年齢的に、身体がどんどんできていくときなのだろうと思う。
今の羽生選手は、男らしい力強い演技ができる。
そういう体つきになっていると思う。
これも日ごろの訓練のたまものである。

ショートプログラムのショパンのバラード。
ショパンは、鍵盤の詩人、とか、ピアノの詩人、
とか呼ばれてたくさんの人から愛されている。
たとえば、浅田選手もソチのショートプログラムで使った
「ノクターン9番」などは、
繊細なピアノのメロディと、和音が奏でられる。

しかしショパンは、繊細さと同時に、
男らしさ、力強さのある、作曲家である。
たとえば、祖国ポーランドで革命がおこったときに、
エチュード「革命」を、作成している。
この、激しさと情熱は、
繊細さの裏側にある、ショパンの「底力」とも呼べるものである。

フリーの曲では、映画「陰陽師」から、SEIMEIを選ばれている。
これは、映画「陰陽師」の主人公「安倍清明」のテーマである。
日本的で、アジア的な、また横笛を使ったオリエンタルな、
そういったところに、今年の羽生選手は、挑戦している。

「陰陽師」「陰陽道」というと、
現代の日本人には、ちょっとなかなか、理解しずらいところもある。
「日本的な」ということで、歌舞伎や狂言でも、現代ものとして、
新作でトライされているのであるが、
日本の思想というと、仏教や神道が、主として思われるところであるので、
私たちの日常には、陰陽道が息づいているとは言い難い。
しかし、平安時代には、陰陽道が実際にあったわけである。
古代の日本人の「思い」を表現するには、
とてもよいテーマ曲であると思う。

平安時代というと、現代では考えられないことであるが、
まずは、電気がなかった時代である。
また、発達した医学や科学もなかった時代である。

だから、たとえばある日突然に、日食が起こったりすると、
それはそれは、恐怖であった。
明るかった昼間が、みるみる薄暗くなり、
太陽に影がさすのである。

また、今年も冬が来てインフルエンザが流行り始めるが、
こうした、目に見えないウイルスというのが、
まだわからなかった時代であるから、
いつの間にか罹患する病、はやり病というのは、
悪夢との戦いだった。

そして、何よりも恐ろしかったのが、
闇、である。
現代では、24時間、真夜中でも、
道路には街路灯が照らされ、
コンビニエンスストアの明かりが遠くからもまぶしい。
しかし、平安の時代には、夜となると、
小さな揺れるろうそくの光以外は、
すべて「闇」なのである。

古代の人々は、この「闇」と闘っていた。
闇のなかにうごめく、さまざまな目に見えない敵と、
力いっぱい戦っていた。
それは、おのれの心の中の、恐怖心と戦っていた、
ということかもしれない。

陰陽師は、そうした怖れに打ち勝つための、
まじない師である。
誰もが彼に頼り、そして、闇と病に打ち勝つことができた。
平安の都の、医師でもあり、祈祷師でもあり、
誰よりも頼れる、正義の味方であったのだろう、と思う。

古代の人々は、真冬を乗り越えるのもこわかった、
と言われている。
今度こそ本当に、もう二度と春は来ないのではないか、
このまま冬が続くのではないか、とこわくなったそうである。

フィギュアスケートは、氷のなかに咲く、春である。
冷たい北風の季節、心を熱くさせて、
今年も、私は、じっと、スケートリンクを、見つめている。



2015年11月20日金曜日

ニューヨークの皇太子さま。

先日、11月17日に、皇太子さまが、ニューヨークに出発された。
ニューヨークの国連本部で、18日に、
「水と災害に関する特別会合」の開会式が行われた。
そこで基調講演をされた。
「水と衛生に関する諮問委員会」の最終会合にも
出席される予定であるという。
日本へは、いつお戻りになるのだろうか。
もう、帰途につかれただろうか。

13日の金曜日には、フランス・パリで、同時多発テロがあり、
その後、ISからは、アメリカへの攻撃の予告も行われた。
もちろん、ワシントンもニューヨークも、
テロのターゲットである。

なにかよからぬ予感がしたニュースであったが、
その後、ソルトレークシティーなどで、
アメリカの航空機が臨時着陸をしている。

もしも、日本の皇太子殿下が、ニューヨーク滞在中に、
テロに遭遇したりすれば、
日本に対するテロ攻撃とみなすこともできて、
日本も非常事態宣言が発令されるような事態となる。
とうとう日本も巻き込まれる、ということなのだ。

しかしこれは、日本としてもアメリカとしても、
戦略的なことで、
初めから予定されていたことなのではないか、と、
私は思う。

皇太子さまのニュース動画→
http://www.news24.jp/articles/2015/11/17/07315094.html

宮内庁の案内→
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/gaikoku/h27america/cpv-h27-america.html

2015年11月19日木曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月19日。

どんな夜にも、朝が来る。
「あさが来た」の題名の意味の深さを、なにか感じさせる、きょうこのごろである。
ヒロインあさは、ようやく炭鉱を運転させることができた。
その名も「加野炭鉱」である。
立派な看板も作ってもらって、机もひとつもらって、
本当に「働く女性」になってきた。
看板も机も、働く女性として仕事が認められたという証で、
あさにとっては、本当にうれしかっただろうと思う。
仕事の一番の報酬は「次の仕事がもらえること」だと、
どこかで聞いたことがある。
まさにこれが、あさにとっての、働く女性としての、入り口となるだろう。

物語は序盤のクライマックスを終え、次の山に入ろうとしている。
ここで、さまざまな伏線が混みあってきて、面白くなってきた。

ひとつは、姉はつとの対比である。
姉のはつは、同じく両替屋に嫁いだのに、その店は倒産してしまう。
そして、今は、小さいながら農業を営んでいる。
子どもがひとりいて、きょう、おなかの中にまたひとり増えた状況である。
一方でヒロインの妹あさは、働く女性であり、子どもはまだいない、という状況である。

女性が仕事をする、という大きなテーマに、真正面から体当たり、という構図である。

NHK朝の連続テレビ小説は、今年2015年前期は「まれ」であった。
「まれ」でも、仕事と家庭を両立させる女性を描いたのだったが、
「まれ」がなんとも素通りしてしまって、あっさりと、家庭と仕事、育児と夢、
両方を実現してしまったのに比べて、
今回の「あさが来た」では、「まれ」がいとも簡単にはしょってしまった、そのもやもやした部分に、堂々と切り込んでいるのである。

姉のはつが、「子育てをする専業主婦」、
対立するあさは、「仕事をするキャリアウーマン」である。

私が、「よく描けている」と思うのは、
専業主婦には専業主婦の悩みや葛藤がある、という点である。
つまり、はつに「私には、子どもを産むことしかできないのかしら?」という、
女性として、人間としての、根本的な疑問を、抱かせているのである。

また、キャリアを持って働く女性である、あさには、
子どもがいない、夫と一緒に仲良く暮らすことができない、
「なんだかすっきりしない」「充足感がない」という気持ちを、言わせているのである。
それが、貧しくても子を持ち、母親になった姉のはつに対しての、
「お姉ちゃんにはかなわない」というセリフである。

片方は、「子どもを産み育てる専業主婦になってもなんだか人生が充実しない」
もう片方は、「仕事をして成功しても、やっぱり人生が充実しない」
その葛藤を、ふたりの姉妹の対照を通して、見事に描いている、と思う。

現代の女性たちが思う、仕事と家庭の葛藤が、
はつとあさの、「子どもか自分か」「家庭か仕事か」
という悩み苦しみに、描かれている。

また、現代でも、「男性のがわの意識変革が必要」と強く言われているが、
今の状況では、あさの夫・新次郎の態度を見ていると、
まさに意識変革を、望んでしまうところである。
あさがこの問題をどのように乗り越えていくのか、
はつがこの悩みをどのように超えていくのか、
とても見どころになってきた、と思うのは、私だけではないと思った。

ところで、このところ、次のクライマックスに向けての、
とても面白い伏線が明らかになってきた。
それは、五代ディーン・フジオカの登場である。
五代氏は、あさの幼少時から、縁のあった男性であった。
この男性が、こともあろうに、すでに結婚している、あさに、
「らぶ」という言葉を使って!言い寄ってきているのである。

朝の連続テレビ小説で、こうして、ヒロインをめぐる、
ふたりの男性が描かれることは、そんなに珍しくはないかもしれない。
しかし、大森美香女史の描き方は、
この、ヒロインをめぐる男二人の対立と、
そのときに揺れるヒロインの心の描き方が、断然ちがうのである。

これは、「不機嫌なジーン」でも、
主要なテーマとして描かれていた。
思えば、向田邦子女史も、こうして、
ヒロインをめぐる、ふたりの男性、
あるいは、三人の関係、というものを、
絶妙で微妙な表現で、描き切っていたと思う。

このあたりも、これから特別に、見どころとなってきた。

時代は移り変わっても、季節は移り変わっても、
また、あさは来る。
明日もあさっても、「あさ」を楽しみに、
きょうもがんばろう!

2015年11月16日月曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月16日。

きょうも、「あさが来た」で始まる「あさが来た」! というかんじである。
昨日は、あさの女性経営者としての仕事ぶりに学んだところであった。
きょうは、あさの姉、はつについて、考えてみたいと思う。
あさとはつの姉妹は、ダブルヒロインということで、対照的な女性の姿、生き方を描いているそうだ。
昨今は、このようなダブルヒロインや、姉妹ものが、とてももてはやされているそうである。
流行である、ということは、それだけ女性たちから、興味や関心が持たれている、ということなので、このあたりも学んでいきたいと思う。

私がこのふたりの姉妹について思うのは、さまざまな対照であるが、なかでも、同じように両替屋に嫁いだのに、妹のあさは、時代の変化のなかで、両替屋としてまた商売を営む家として、生き残った、ということである。
そしてもう片方の姉のはつの家は、両替屋はとっくに潰れてしまった。
時代の変化の波に飲み込まれて、生き残れなかった、ということである。

私たち現代人も、今、時代の変化の波のなかにいる。
ふたりの女性の生き方から、「生き残れる女性」「生き残れない女性」という対照を、見ていきたいと思うのである。

生き残った加野屋のあさ、妹であり主役であるが、こちらのほうは、両替の仕事が「あぶないのではないか」ということを、とても早くに察知した。
加野屋としては、大旦那も若旦那もまだまだ、時代の変化に気づくことができず、また、蔵のなかの金貨を数えることも、大福帳を計算しなおすことも、していなかった。
それを行ったのが、嫁に入ったあさである。
あさが大福帳の計算をしていなかったら、時代の先読みをしていなかったら、まちがいなく加野屋も、倒産の憂き目にあっていただろう。
それが生き残ったのだから、嫁であるあさの才覚によるものである。

一方、はつの嫁いだ山王寺屋ではどうであったか。
これは、姑の菊や、その夫であり大旦那である辰巳卓郎、このあたりにすでに、伏線があるようだ。
というのは、婿養子で、菊がこの山王寺屋を仕切っていた、という事情があり、婿養子も息子も、この菊に頭が上がらない状況だった、ということである。
なので、時代の変化のときに、見栄や外聞が先にたって、打つべき手を打てなかった、という点が大きい。
そこへ嫁入りしたのが、当時の女性としての身だしなみを身に着けた、はつであった。
お琴にお花、お裁縫である。
この、はつは、山王寺屋の商売、仕事にまったく口出しをしなかった。
あさとは対照的である。
もしも、山王寺屋に入ったのが、あさであったなら、山王寺屋は生き残った可能性が高い。
女性の才覚、仕事に関する「口出し」というよりは、女性らしい時代への敏感な感性、そういったものが、はつにはないのである。
また、はつは、当時の女性の生き方振舞い方として教えられていたとおりであるだろうが、外の世界に出ようとしなかった。
外の世界や、あるいは社会のなかで何が起こっているのか、まったく興味を持たないのである。
社会のなかに生きていながら、社会の動静にまったく興味を持たない女性が、現代の世の中にも多数存在するが、はつはそのような女性であった。

また、夜逃げをして、夫が失踪して、その後、夫の惣兵衛が戻ってくるのであるが、「よい仕事人でなくてもいいから、よいお父さんになってください」と言う。
これは、男性陣から見たら、問題発言である。

女性は、良い家庭を築きたいと願う。
そうした意味から、夫にはよい夫、よい父親であってほしいと願うものである。
だから、女性の目から見たら、これはごくごく自然な発言で、こうした発言をする女性は、よくいる。
しかし、男性は、仕事で成功したいものではないだろうか。
家庭を守れるだけの稼ぎがあればいい、というのは、妻が夫に言うにしては、残酷な言葉でもある。
男性は、なかなか父親にはなりきれないものだ、という。
これは心理的なものであるだろう。
しかし、父親である以前に、「男として」生きたいのではないだろうか。
「男として」妻から褒められたいのではないだろうか。

はつの妻のしての言動は、夫の可能性を封じ込めるものであり、夫の男らしさを認めていないものなのである。
こうした妻をもって、惣兵衛が男として成功できるかというと、これはむずかしい。
妻のはつも、母親の菊も、まったく同じ、うちに内にと閉じこもるタイプで、男性を抑圧するタイプなのである。

しかし、こうした惣兵衛の姿に、自分自身を重ねるのだろうか、惣兵衛ファンがとても多い、ということである。
女性たちは怖れをもって、この「惣兵衛ファン」の増加を見守るしかない。

2015年11月15日日曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月15日。

11月もなかばとなり、秋から始まった朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、快走を続けている。
私は、このドラマから、さまざまな視点で、女性の生き方や、時代背景を学びたい、と思っている。
そのなかでも、大きなテーマとして、働く女性の悩みとその解決を、見つけたい、と思っている。
今週は、女性経営者にとって、女性管理職にとって、まったく頭の痛い問題である、「男性の部下をどのようにして働いてもらうか」「指示を聞いてもらうか」というテーマで、興味津々であった。
また、ヒロインとしても、炭鉱夫を相手に啖呵をきって、女性経営者として、しっかりと責任を果たした話題の場面であるから、とても楽しみにしていた。

一週間、見終わった。
ドラマのストーリーとしては、あれだけ反抗していた炭鉱夫たちが、おとなしくなって、あさは信頼を勝ち得ることができて、そして仕事を始めたのであるから、これは成功である。
しかし、やはりどこか見ていて、つじつまが合わないというか、「本当にこれで、彼ら炭鉱夫たちが納得したのか?」「あさのどのあたりの言動に、炭鉱夫たちが信頼をしたのか?」という点では、はてなマークがいくつも付くところであった。

とにかく、あさは、なんでもした、と思う。
女性経営者として、「私のほうが立場が上です」という尊大な態度もとってみた。
あるいは、丁寧に「石炭を掘る」という意味を、蒸気機関の働きまで説明して、誇りをもってもらった。
あるいは、頭を下げた。
あるいは、大阪から夫に来てもらった。
あるいは、相撲を取って勝った。
あるいは、仕事の内容を深く理解したいと思って、実際に炭鉱に入ってもみた。
ドラマのなかで、決め手として取り扱われていたのは、ピストルの暴発であるように思う。

それらのたくさん工夫したうちの、「どれかひとつ」が、きっと、炭鉱夫の心をつかんだのだろう、と思う。
でももしかすると、これだけたくさんいろいろなことをしたから、ようやく働いてもらえた、ということなのかもしれない。
どうなのだろう?

印象的な言葉、これは、夫の新次郎からも言われたし、祖父の林与一からも言われていることであるが、「女性のやわらかい力」は、いったいどこにあったのだろうか。

やはり、史実としても、ドラマとしても、炭鉱夫を動かした決め手は、ピストルという武器のようである。
それが、「おなごのやわらかい力」なのだろうか?

おりしも、フランスでは、武器の力には、武器の力で対抗する、というテロリズムが行われているところである。
私は、今週のドラマには、少なくとも「女性らしい柔らかい力」は、意味不明のまま未消化に終わったと思った。
これは、これからの課題として、残されていると思う。

私が、女性管理職として、男性の部下に働いてもらうために、これが大事だ、と思うことをここでまとめてみようと思う。
あさが工夫したさまざまな事柄のなかに、たくさんのヒントが隠されている。
たとえば、実力は男性並みか、それ以上であること。
これは、働く女性が管理職で仕事をしていく上で、もっとも大事なことである。
男性にひけをとらないくらい、男性であろうと女性であろうと、仕事の実力は同等かそれ以上であることである。

次に、彼ら命をかけて働く男たちに、命をかけるほどの「価値」「意味」「大義」を伝えることである。
男の人たちは、何か大きなことのために、命を張りたいものだと思うのだ。

あさは、明治の時代を開く大きな意味を、この石炭事業に見出した。
炭鉱で働く男たちには、蒸気機関車や、開けていく東京の様子などは目に見えない。
時代の変化も、時代が朝を迎えていることも、まだわからない。
しかし、「わたしたちが、あなたがたが、新しい日本の国づくりをしていくのです」と言ったときに、男たちの胸に火が灯ったのではないだろうか。
大事なのは、仕事に誇りを持つことである。

命をかける価値のある仕事を見出した時、男性たちは、力いっぱい、自分たちの自主的な自発能動で、動き始めたように思う。
私は、こうした男性たちの、意欲を引き出す力が、あさにはあった、と思ったのである。

これからも、働く女性にはがんばってほしい。
私も、「あさが来た」から学んで、一生懸命、自分の道を生きていきたいと思う。


2015年11月13日金曜日

これから先、10年後の日本を考える。

ここ数年、特に震災後、日本国内も、国際情勢も、
変化、変化の毎日である。
今起こっていること、これから起こるであろうこと、
その変化の激しさに、不安や恐怖を感じている人々も、
たくさんいると思う。
私自身もその一人である。

それで、これからの「人生対策」「生活対策」として、
10年後の日本、というテーマでいろいろと、
個人的に考えている。
10年後に残っているもの、変わっていないものは、
いったいどれくらいだろうか?
どんなものが生き残っているだろうか?

10年後に変わっているもの、なくなっているものは、
どんなもので、どんなふうに変わっているだろうか?

10年後に、確実に絶対に変わっている、とは言い切れないけれども、
変わっている可能性のあるもの、というと、
どんなものだろうか?

私なりに、思いつくままにメモをしてみたので、
そのリストを、ここにアップしてみようと思う。

☆ 10年後に変わっている可能性のあるもの

政府
学校制度 (教育制度)
病院 (先進医療 TPP)
通貨 (仮想通貨)
新聞 (デジタル化)
雑誌 書籍 (電子化)
寺院 (宗教 数)
お店 (なくなっている?)
パソコン (インターネット)
スマホ (もっと進化する)
宇宙旅行 (可能になる?)
交通 (リニアモーターカー、新幹線)
自動運転車
海外旅行
国際情勢 (勢力分布図)
TPP (食品やあらゆる文化)
農業
テレビ (なくなっている?)
結婚制度
苗字制度
東京駅
渋谷駅
山手線
税制

ざっとこんなところである。
そうすると、「変わらないもの」というと、
衣食住、といった、人間の基本的な生活に関することぐらい、
と思えてくる。
家族や愛情、といったものは変わらないかというと、
やはり変化がやむを得ないというところだ。

これらの変化は、震災後、ここ数年で出来た法律と、
深く関わっている。
率直に言って、現政権の安倍総理大臣になってから、
次々に作られた法律に基づいて、これらの変化が起こっている、
ということになるだろう。
新しい法律を施行するために、2~3年から十数年かけて、
現実化していくものもある。
すでに決まってしまった法律の現実化である。

10年後の日本は、とても変わった国になっている。
これは、誰が予測して、誰が予定した国なのか。
それは、安倍総理大臣である。
私たちは、10年後には、安倍総理大臣が理想と掲げた、
「美しい国」に暮らしていることになる。
そして、これから10年間は、
安倍総理大臣の理想の実現のために、
毎日毎日、一生懸命働いていくことになる。

私は思う。
みんなが理想として掲げた国づくりなら、問題ない。
しかし、一個人が理想にした「美しい国」というのは、どうなのか。
いつの間にか、総理一個人の理想を、一国全体で実現する羽目になってしまった。
私は、自分自身の理想を実現するために、生きて働いていきたいと思う。
本当にみんなは、こうして安倍総理大臣の掲げた理想のために、
これから働いていく気持ちがあるだろうか?
私は、NO!と言いたい。

2015年11月11日水曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月11日。

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が、好調である。
視聴率もグングンアップしている、と毎日、インターネットニュースで、
話題になっている。
誰が見ても、無条件で楽しい、というテレビドラマは、
毎日の生活に、朝の光を照らしてくれるみたいで、
本当に元気がでる。

「あさが来た」は、今、物語序盤のクライマックスに入っている。
それは、前評判でも有名なシーンが近づいている、ということである。
きょうの放送でもすでに、あさが、炭鉱の男たちを前に、
啖呵を切るシーンがあった。
本当にかっこよかった。

炭鉱と言えば、私も北海道にいたので、
夕張の炭鉱のことを思い出す。
夕張の炭鉱はすでに閉山してしまったが、
「石炭の歴史村」は行ったことがあって、
炭鉱の模型があったりして、当時の状況を知ったりすることができた。

また、映画「幸福の黄色いハンカチ」でも、
主人公の高倉健が、炭鉱夫で、とても男らしくてかっこよかった。
きょうのテレビドラマでも、炭鉱に入るときには、
ガス探知のための、小鳥のかごを持って入っていて、
とてもリアリティがある。
炭鉱の仕事は、まさに命がけである。

あさの加野屋が、新しくこの山を買い取ったのに、
肝心の炭鉱夫たちが、まったく仕事をしないで、
困っているのが、現状である。
いったい、あさは女性経営者として、
どのように「部下」に働いてもらうのだろう。
ここが今週の見どころであるように思う。

これから女性管理職もたくさん増えてくるだろう。
そうしたときに、男の人たちというのは、
多かれ少なかれ、炭鉱夫のような性分を持っているわけであるから、
どうしたら、「真面目に」「きちんと」「自主的に」
働いてもらえるのかどうか、
ここは、しっかりとテレビドラマから学びたいところである。

今週はこのあたりをしっかりと描いてほしいところである。
私なりに思うところがあるけれども、それは、テレビドラマで、
ストーリーが進んでから、私なりの感想を書いてみたい、と思う。

あさのもとで、彼らゴロツキが、
どんなにおとなしくなるものなのか、ここは見どころである。
(本当に、おとなしくなる、ということなのだろうか?)

ところで、あさの姉「はつ」である。
今、「姉妹」というのは、とても話題性のあるテーマになっている。
昨年のディズニーアニメ「アナと雪の女王」あたりから、
流行があるのだろうか。
女性たちにとっては、ふたつの異なる個性、
その対立と融和というのは、大きなテーマである。

「あさが来た」でも、姉のはつと、妹のあさの、
ふたりの性格と人生が、対照的に描かれていて、
とても興味深い。

「はつ」は、姉妹の長女という役割である。
そのためか、「しっかりもので、芯の強い」と描きたいようだ。
しかしこのごろの、はつ、には、
女の弱さ、というものがありありと見てとれるように思う。
というのは、はつは、ひとりでなんでも頑張るタイプで、
周囲からの手助けに対して、非常に拒絶的であるからである。

世の中にこういう女性は「いるいる」というかんじである。
何に関しても、人の手助けを受けることが嫌いな強情ッパリで、
外面はよいが、内面は弱々しくてボロボロである。

それに比べると、姑や舅、夫や番頭さんの手助けを、
快く受け取る妹のあさは、
周りから見ていて、何かと安心である。

周りの人を心配させない、というのは、
女性としてのたしなみであり、礼儀であり、常識である、
と私は思う。
そういう点で、皆に心配をかけながら、
本当は誰が見ても全然大丈夫じゃないのに、
大丈夫、大丈夫、と虚勢を張る、はつは、
周りから見て、迷惑を広げる存在であるかもしれない。

これからも、はつ、とあさ、のふたりの対照を、
女性の生き方や振舞い方の手本として、反面教師として、
一生懸命、学んでいきたい、と思っている。

「あさが来た」毎朝、楽しみに観ています!!!


2015年11月7日土曜日

浅田真央さん。「素敵なあなた」


冬が始まった。
フィギュアスケートのシーズンである。
私は、フィギュアスケートが大好きで、
だから冬のシーズンが大好き、といってもいいくらいである。
今年の冬は、「あの」浅田真央さんが、
一年間の休養ののちに、姿を現した。
きのうのショートプログラムでは、ジャズの名曲「素敵なあなた」を、
熱演された。
本当に素晴らしかった。
一年間の休養が、浅田さんにとてもよい「豊かさ」と「余裕」を与えてくれたように思った。

今夜は、グランプリシリーズ中国杯で、フリーの演技が披露される。
とても楽しみである。
フリーの曲目は「蝶々夫人」である。

「蝶々夫人」は、日本人女性の純粋な愛情を描いた物語である。
作曲家のプッチーニは、こうしたアジアティックな名オペラを、
数多く残した作家である。
その代表作がこの「蝶々夫人」である。

私たち現代の日本人女性が、この物語に触れるとき、
それは、とても悲しく、時には「悔しく」思える愛の形を見る。

それは、戦後間もないころである。
舞台は、日本の長崎である。

たくさんのアメリカ海軍兵士がやってきて、
日本という「現地」で恋愛をし、
「かりそめの」愛を誓って、結婚式を挙げた。

そして、日本での海軍の任期が終わると、
恋愛もそこで終わらせて、
さっさとアメリカに帰ってしまうのである。
そして、日本での愛も妻もなかったことのようにして、
アメリカで新しい、アメリカ人の妻をめとり、
人生を送っていく。

蝶々夫人は、そうした、戦争のあとに起こった、
「現地妻」の、状況を描いたものである。
決して帰ってこないつもりで、いつわりの愛を誓う夫、
その結婚を心配する日本の人々、
しかしここでとても大事なのは、
信じる気持ちと、純粋な愛情を持つ、蝶々夫人の、
希望を持つ愛情なのである。

プッチーニが描きたかったのは、
若い女性の持つ、純粋な愛情である。
アメリカへ行ってしまう、(本当は帰ってしまうのだが)夫が、
「きっと必ず私のところに帰ってきてくれる」
「そして迎えに来てくれる」と、信じて、
再会のときを夢に見るのが、この曲、「ある晴れた日に」
である。

私たち、日本の女性が、このオペラを思うと、
本当は悲しい。
本当はつらい。

でも、プッチーニが日本女性のなかに見たのは、
悲しみのなかで、生き生きと夢見る、
純粋な乙女の恋心なのである。

今夜も、必ず見ています。
浅田さん、フリーがんばってくださいね。
応援しています!



2015年11月5日木曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月5日。


朝の連続テレビ小説「あさが来た」の視聴率が、
とても上がっているそうである。
朝ドラ初の時代劇に、AKB48の爽やかな歌声、
こうしたところで、新しい視聴者層をつかんだのかもしれない。

ところで、今週に入ってから気になっていた、
「愛と仕事の両立」である。
働く現代女性にも通じるこの「家庭と仕事の両立」
というテーマを、大森美香女史が、どのように描いてくれるのか、
私たち働く女性に、どのようなメッセージとアドバイスをくれるのか、
とても楽しみにしていた。

しかし、たくさんの女性視聴者にとってそうであるように、
「これはどうなのかな?」と、考えさせられる、
問題提起、という形になっていると、私は思う。

私が疑問に思ったのは、
ひとつは、「あさ」の悩み方である。
夫からの愛情を得たい、という気持ちが、
そのまま子どもがほしい、という気持ち、
女性として見られたい、という悩みに直結してしまっている。
でも、男性にとって、「愛」とか、
「女性を愛する」とかいうことは、
性的な欲求を抱くこととイコールなのだろうか?

女性は、男性からの「愛」を、
性的な行動とカンチガイしやすいのではないか、と思う。

あさの夫・新次郎は、お家のこと、仕事のこと、
特に新しい仕事のことでとても悩んでいるけれども、
その状態で、あさに対しては、やはり内心、
感謝の気持ちでいると思う。
そうした、「お家とりつぶし」も近いかもしれない状況のときに、
性的な気持ちになれないのは、
まっとうな男性として当たり前で理性的だともいえるかもしれない。
人間として、しっかりしているのではないか、と思う。


ところで、大森美香女史の、対照的な女性、
このドラマでは、姉妹であるが、
この描き方には、まだまだ不足があるように思う。
というのは、お家取りつぶしになった山王寺家が、
ああいった状況で暮らすことになって、
その家や、家族の、心の状態を、
しっかりと描いていないからである。
お家がなくなって、生活の質が極端に落ちたところに、
笑顔があるはずがない。

こうした状態の描き方には、
現代のリストラ家族や、倒産家族にも共通するところがあるので、
しっかりした人間観察がほしいところである。
荒んだ心や、荒んだ表情、荒んだ言葉のやりとり、
こうしたものが、まったく描けていない。
また、貧困家庭で、妊娠という事象が起こると、
「やだ、できちゃったわ」というのが、本音ではないだろうか。
少子化問題に何か問題提起したいのかもしれないが、
子どもが生まれてくるということは、
母親にとっても家族にとっても、
「おめでたい」では済まないものが、たくさんあるはずだ。
そうした複雑な心情や状況が、まったく描けていないと思う。

また、当時は、貧しい家では、子どもの「間引き」が、
当然のように行われていた。
「あさ」と、「はつ」の家の事情の描き方に、
ドラマ作りをする人たちの、
もう一歩、人間観察、社会観察を、
期待したいと思う。



2015年11月2日月曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月2日。


NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、
朝ドラ初の時代劇にトライ、ということで、
たくさんの視聴者から、とても好評のようである。
私も、毎朝とても楽しみに観ている。

「あさが来た」は、ヒロインが女性実業家、
ということで、女性が働くということ、
女性が活躍する、ということが、
大きなテーマとなっているように思う。

時代背景もあり、明治維新のころ、
夫とともに、お家とともに、
時代を駆け抜けた女性、ということになるだろうか。

私はここで、もうひとつのテーマを追いかけてみたい、と思った。
それは、女性脚本家の持つ、固有のテーマである。
「あさが来た」の脚本家である大森美香女史のテーマはなんだろう?

私は、向田邦子賞も受賞した、フジテレビのドラマ「不機嫌なジーン」
にも共通するテーマを観た気がした。
それは、「男性の浮気」である。

「不機嫌なジーン」でも、
ヒロインが、研究や仕事に夢中になっていると、
パートナーであり恋人でもある男性が、
浮気をしてしまうのである。
「不機嫌なジーン」では、男性が浮気をすることを、
遺伝子のせいにしていて、
「男は浮気をする生き物である」
というようなことを、表現していた。

明るくて闊達で、仕事に夢中になっている女の子が、
恋人に浮気をされるのは、とても痛いことである。
それが、ヒロインのちょっとした劣等感になっていて、
「色っぽい女性にはかなわない」
「私には色気がない」と、意気消沈してしまうのである。

今回の、「あさが来た」でも、
元気で仕事の能力のあるヒロインの、夫が、
どうにも「色っぽい」女性と、浮気をしそうなところである。
また、姉の「はつ」も、しんみりとした色気があり、
そちらのほうが「しあわせ?」と問いかけたいような、
ストーリー展開になってきた。

しかし、NHKの朝の連続テレビ小説で、
朝から国民の皆さまの前で、
「男は浮気をする生き物である」と、
テーマを打ち出すのは、どうなのだろう?

NHKの朝ドラとして、ヒロインが、
「男性の浮気」というテーマを、
どのように風に乗り、ふわりと乗り越えるのか、
ここからが見どころである。

また、働く女性にとって、
家庭と仕事の両立とは、
愛と仕事の両立であり、
仕事に打ち込めばダンナの愛が逃げていく、
という大テーマになってきたので、
ここはNHKから、大いに学びたいところである。



2015年10月20日火曜日

衆議院解散総選挙の可能性について。


今、日本の社会は、嵐のなかにある。
東日本大震災後、原子力発電所の再稼働をめぐる対立は、国民世論を二分した。
その後、集団的自衛権についての世論でも、国民は二分されて対立した。
今年になってからは、安全保障法制に関して、またも二分された。
これは単に、与党と野党の対立だけ、とは言えなくなった。
右派と左派に、完全にふたつに分かれた日本社会は、今、対立に次ぐ対立によって、疲れ切っているともいえる。

そうした状況のなかで、反政府派、反政権派は、勢いを増している。
不満は募るばかりである。
ここはいっそ、来年の参院選を待たないで、衆議院解散総選挙を行いたい、というのが、野党の欲求ではないだろうか。

私も、ときどき思う。
デモや署名運動は、選挙で選ばれた議員の得票数に比べれば、遠く及ばないだろう。
しかし、昨年の選挙からこの一年で、デモの背後にいる、声を挙げない反対派は、いったい本当のところ、どれくらいいるのだろう。
一度、選挙を行って、その得票数を見てみたいものだ、と思うのである。
浮動票と呼ばれる人たちも、とても高い投票率で、投票に出かけるのかもしれない。
それくらい、国民世論は高まっているように見える。

自民党や政府は今、選挙について、どんな考えを持っているのだろう。
もちろん、選挙の準備はしているだろうと思う。
昨年もそうだったが、「勝てる」という見込みのない状況で、衆議院解散を宣言するとは思えない。
解散をする立場の人が、主導権を握っている選挙である。
しかし、今回ばかりは、開けてみなければわからない。

ずっと以前に、「郵政選挙」というのがあった。
これは、国民に信を問う選挙で、開けてみなければわからないところで、国民世論は盛り上がったものである。
今、安全保障法制をかけて、国民に信を問う気持ちは、総理大臣には、あるのだろうか?

解散総選挙を行うなら、11月にも解散して、またも12月、年末選挙というスケジュールになるだろう、と思う。
今を逃したら、今年中の選挙はないし、年明け選挙というのも、あまり聞かない。
とすると、今、選挙を行うメリットは、どのくらいあるだろうか?

私は、各政党の勝敗について、考えてみた。
自民党は、準備万端である。
確実な右派がしっかりといる。
民主党は、以前、政権交代を成功させた。
今も、激しい内閣攻撃をしている。
この情勢なら、きちんと候補さえ立てれば、勝てる見込みはある。

維新の党は、分裂騒動のただなかにあるが、選挙というと、結束する可能性があるしまた、次の国政選挙のために、国政をするために、今の分裂騒動を起こしている、ともいえる。本気で戦うだろうと思う。
共産党は、バックボーンに中国を抱えている。
日中の関係がこのような状態になっているときに、不遜な動きをするのではないか、と気になるところである。
国民連合政府を打ち立てよう、という話も、とんだ野望に見えてくる。

ママの会、SEALDsは、どのように参加するだろう。
単なるデモに終わるのか、それとも正式に政治に参加してくるのか、気になるところであるが、それ相当の得票数と、議席確保は期待できるところである。
そうすると、選挙後の政治は、面白くなってくる。

ここで、公明党のことを、書かなければならない。
公明党の支持基盤、大きな組織票というと、創価学会である。
池田大作氏が姿を現さなくなって、もう数年になっている。
ご存命であるとしても、相当の高齢で、すでに、後継者が選挙その他の活動を取り仕切っているとみてもまちがいない。
池田大作氏のいない創価学会は、これからこのあとどうなるのだろうか。

誰もが、この宗教団体から、勧誘を受けたり、公明党への投票を依頼されたことがあると思う。
国民として思想信念の自由は保障されるべきであるが、今、公明党が、解散総選挙に向かうと、すでに支持基盤が割れてきている創価学会が、分裂して、もう公明党が、なくなる、という可能性が見えてきた。
日本の宗教界に、さまざまな物議をかもしてきた新興宗教団体が、ここで消えてなくなる、というのも、日本の将来にとって、一大事という気がしてくる。
世界に誇る日本の文化、宗教、という点で、今後の創価学会に関して、どのように対応するか、ここも政治的判断であるように思う。





2015年10月17日土曜日

「国民連合政府」とは、どんなものなのか?

秋も深まってきている。
日が暮れるのが早くなって、一雨ごとに気温が下がってきているのがわかる。
まだ10月だけれども、今年は寒くなるのが、例年より早いかんじがする。

軽減税率の話が、進んでいるようだ。
この件では、自民党は、ちょっとした「ポカ」をしてしまったように見える。
もともと、軽減税率は、ヨーロッパの手法を模範にしたもので、
消費税の率を上げる際に、人々の生活必需品だけは、税率を低く抑えたものである。

日本でも、ずっと以前は、たとえば「塩」の値段は、専売公社が決めていて、国民を保護していた。
今でも、コメの値段が高騰しすぎることのないように、政府が管理している。
国民が、人間として、ある意味「生物として」生きていくのに不可欠な物資に対しては、それが不十分になって、生命体の維持が不可能になってしまったりしないように、商売や税率からは引き離して、保護するべきなのである。

それが、これまでの消費税の一律8パーセントの考え方では、まったくなされていなかった、と言ってもいいと思う。
しかし、10パーセント引き揚げ時には行われる、ということに、話が進んできた。
これは、国民の声や、メディアの努力によるところが大きいと思う。
自民党としては、これは勉強不足だった、としか言えないのではないか。

さらに、「新三本の矢」において「600兆円」のGDPの目標額がある。
これに向けた取り組みとして、「IOT」というモノゴトが、研究開発されるそうである。
この「IOT」というのは、Internet of Things の略で、インターネットを使って、宅配やタクシーの配車などの、さまざまな活動をまとめて行おう、ということである。
この「IOT」が以前から計画されていたとすれば、マイナンバーと「IOT」の結びつき、そこへ軽減税率の、すでに消えようとしている案であるが、還付式、というのは、まさに結びついて、大変なことになるところだった。

また、軽減税率が、一律のまま上がっていくとなれば、国際社会のなかで、「日本式はそれはどうなのか」と指摘されることになったかもしれない。
国民が、常識的な訴えを声にしたのは、とてもよかったと思う。

それにしても、マイナンバーとIOTを結び付けようとしていた、今のこの政府は、「大丈夫」なのだろうか?
大胆な改革をする、ということなので、それはきっと、賛成派も反対派もいる、とは思うけれども、これからの日本は大きな荒波にもまれて、のまれていく感も、いなめないところだ、と私は思う。

ところで、秋の臨時国会は、開かれないことになったそうである。
国際的なさまざまな会議や交流が行われる時期なので、いいことだと思う。

国内では、次の選挙に向けて、動きが起こっているようである。
私が特に、興味深いと思うのは、共産党が呼び掛けている「国民連合政府」である。
安保法案の成立の時期から、すぐに、共産党の委員長が、ツイッターで呼びかけを始めていた。
安保法案に反対する立場の議員が、政党を超えて、ではなくて、連立政権を組んで、国民連合政府を作る、という案だそうである。
この案に、どのくらいの政党や議員が共鳴しているのだろうか?

共産党としても、もしかすると政権が握れるあたりが見えてきたのだろうか、現実的になってきて、日米安全保障条約は維持する、と言い出した。
理想と現実の着地点、という意味で、政治的に大人になってきたのだろうか。


民主党のほうでは、すでに来夏の参院選の候補が準備できたころだと思う。
もしかすると、ママの会やSEALDsも、政党を作って候補を立てるのだろうか。

そうした動きが、ある程度まで整ってきたとすると、これからの活動は、具体的かつ計画的に動かなければならない、と思う。

選挙というと、自民党の手法にならうのが、一番かと思う。
自民党は長い政党の歴史のなかで、選挙に関しては経験を積み重ねている。

まずは、年末年始の活動である。
有権者に年賀状書きから始めるのが妥当だろう。
年末年始には、ご挨拶をすることも必要だろう。
自民党議員は、こうしたときに、選挙地盤の地元に帰って、結婚式やお葬式、子ども会の野球チームでの交流などを、している。
「新しいやり方」を模索するのも大事だけれども、こうして有権者と親しい交流を持つのは大事なことだ。

それから、後援会である。
有権者の皆様のなかで、我が候補を特別に支援してくれるという人を、後援会に入ってもらって応援してもらうことは、とても大事である。

それから、もうすでに、インターネット選挙の時代となっている。
後援会や、支援者は、ホームページの充実と、ツイッターのアカウントの開設を、始めたほうがいいと思う。

来年、年明けには、すぐに、ツイッターや動画サイトを通して、政治的な考えを発表して討論に入る。
これから、来夏の参議院選に向けて、本格的な活動が、始まろうとしている。




2015年10月10日土曜日

内閣改造と「一億総活躍」。


先日、10月7日に、内閣改造が行われて、第三次安倍内閣が発足した。
私も記者会見を見ていた。
よいメンバーが選ばれている、と思えた。
新しいメンバーシップ、チームワークに期待する気持ちになった。
これから、来年に向けて、TPPのための秋の臨時国会や、さまざまな議論が交わされていくことになるのだと思う。
まだまだ、政治から目がはなせない。

今回の内閣改造では、「新三本の矢」が、発表された。
この「新三本の矢」は、「一億総活躍」というスローガンに代表される、大きな目標であり、具体的な数値である。
「一億総活躍相」も設けられた。

この、「一億総活躍」の意味が、いまひとつ、意味不明瞭である、という話になっている。
私も考えてみた。

具体的な数値目標はこのとおりになっている。
その1、GDP 600兆円
その2、希望出生率 1.8
その3、介護離職 ゼロ

これは、目指すべき大きな目標である、ということで、具体的な法案やロードマップは、これから考える、ということである。
どんな法案が生まれてくるのか、本当に楽しみである。

私も、じっくり考えてみた。

GDP 600兆円、という数字は、現在のGDPが490兆円であるから、とてつもなく大きな数値目標である。
これは、「一億総活躍」となった状態のときに、生み出されるであろう生産を、誰かがなんらかの方法で、計算したのだろうと思う。
「一億総活躍」となった状態、というのも、考え方というか、文章の読み取り方になってくる。
現在の日本の人口は約一億人であるが、今のところ、「総活躍」はしていない、という認識のもとに、言われている言葉である。

では、どんな人たちが、「活躍していない」と認識されているのだろう。
「活躍している」とは、どんな状態にあることを指すのだろう。

これは、目標GDPを見るとわかることで、生産活動をしている、ということになるだろう。
給与をもらって仕事をしている、という状態だと思う。

そうすると、今、「給与をもらう仕事」に従事していないのは、どんな人だろう?
と考える。
やはり、専業主婦、高齢者、障がい者、ということになるだろうか。
未成年の児童や青少年は、勉強中なので、「活躍」からは除外する、ということになるだろうか。

これらをひとつひとつ考えてみると、高齢者は、健康であれば、生産的な仕事に就くことがまだまだ可能である。
働きがい、生きがいを求めている人もいるだろうと思う。
障がい者はどうだろう?
障がいを持っていても、なんらかの形で社会貢献したい、と思う人もいると思う。

次に、専業主婦である。
専業主婦は、家事と育児に携わっているわけであるが、給与をもらう仕事ではない。
人口の半分が女性であることを考えると、総理大臣は、特に女性に「社会で活躍する」という状態になってほしい、と思っているように思う。

私も、ときどき思うことがある。
せっかく四年制大学を出て、資格試験も合格したのに、結婚や出産、そして介護、という問題で、仕事を辞めて、家庭に入る人が多い。
これはもったいないことだと思う。
この主婦の人たちが、生きがいを持って家事と育児に励んでいるならまだしも、世の中的には、やはり「三食昼寝付き」を楽しんでいる女性も、とても数多く存在するように思われる。

こうした、学問をおさめた女性たちが、もっと生産的活動に従事できるようにすると、GDPも600兆円に達するのではないだろうか。

次に希望出生率である。
両親のもとから、子どもが生まれる、と考えると、二人以上の子どもが生まれないと、人口は減少していくということになる。
よりつきつめて考えるとこれは、とてもデリケートで、ソフトな面を持った問題である。
恋愛から結婚に至り、結婚から出産に至り、という過程を考えると、女性はもとより、男性の、ライフスタイル、人生観まで幅広く考えなければならない、と思う。

この、デリケートでソフトな問題を、政治的な視点から対応して、法案を立てるということである。
電話による「恋愛ホットライン」や「嫁姑ホットライン」を開設するべきだろうか。

次に、介護離職ゼロ、である。
高齢化社会において、介護の問題は、皆が直面しなければならない問題だと思う。
これは、女性だけではなく、男性にも負担がかかってくる問題である。
また、介護そのものを少なくするために、高齢者が健康でいられることも、大切な要件になってくるだろうと思う。

こうした目標を、総理大臣から提案されたので、国民として、ひとりひとりが、その目標に到達するために、「どうしたらいいか?」と、「なぞなぞ」を出されたつもりで、考えてみてはどうか、と思う。

私は、夢のある提案である、と思った。
みんなで一緒に、目標に向かっていきたい、と思う。

☆追記
四年制大学を卒業した女性が、一度は正社員に就きながらも、その後離職した場合、どのようないきさつで、離職することになったのだろう?
四年制大学を卒業した女性の、「追跡調査」をしてみてはどうだろう?


2015年10月7日水曜日

2015・ノーベル賞ウィーク。


今年も秋のノーベル賞ウィークがやってきた。
連日、速報が鳴り響く。
近年では、インターネットの動画で、発表の様子を、ライブ中継で見ることが出来る。
ノルウェーで行われている発表会の緊迫した様子が伝わってきて、どきどきする。
こうして「世界」に触れると、本当になにかこう、未来へのワクワクした気持ちが高まる。

月曜日の夜は、医学生理学賞の発表だった。
日本から、大村智博士が、授賞された。
微生物学の片りんに属する私としても、本当に本当にうれしかった。
長年にわたる、コツコツとした努力が実を結んだのだと思う。
「成功の理由は?」と記者会見で問われて、「私どもの研究は、共同研究ですから」という言い方は、とてもそのとおりで、うれしいものだった。
生物学の研究を本当にわかっているかたの言葉だと思った。
これから、日本でも世界中でも、微生物学の研究にスポットライトがあたって、予算も充分に組まれて、ますますの発展が期待される。
本当にうれしかった。
おめでとうございます。

昨夜、火曜日の夜は、ノーベル物理学賞の発表だった。
聞きなれないノルウェーの言葉に耳を澄ませていると、まちがいなく、日本人の名前が読み上げられていた。
「スーパーカミオカンデ」の言葉も聞こえる。
ニュートリノの研究で、日本の梶田隆章博士が、授賞された。
本当に素晴らしいことである。
飛騨の山奥に、地下1000メートルの深さに掘った、スーパーカミオカンデの話は私もよく知っていた。
日本の研究者の、真面目で繊細で誠実な性質が、こうした研究成果をもたらすのだと思う。
ニュートリノというのは、どこまで細かく小さいのだろうか。
宇宙の始まりに関しても、これからもっともっと研究が進むという。
また、これからの日本の子どもたちが、こうした研究に興味を持ち、取り組む意欲も環境も整うということだろう。
本当に、喜ばしいことである。
おめでとうございます。

こうして、秋の夜長は、世界的な、人類的な躍進を目の当たりにして、学問の秋を楽しむことができる。
きょう7日は、ノーベル化学賞の発表である。
そして、明日8日はノーベル文学賞、あさって9日はノーベル平和賞と、発表が続く。
週明けの12日月曜日は、ノーベル経済学賞の発表である。

明日8日の、ノーベル文学賞は、日本中の人々にとって、本当にやきもきして、ざわつく夜になりそうだ。
大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞が1996年であったから、もう19年たっている。
そろそろまた、日本にも「賞が来る」のではないかと、期待されている。

日本からの候補というか、ノーベル賞には「候補」というのはないそうだが、話題になっているのは、村上春樹氏だそうである。
村上春樹といえば、日本でも30年ほど前に、いっせいを風靡した作家である。
近年また、若い人たちに流行が来ていて、30年まえの作品が、最近になって映画化された、ということだ。
また、英訳、仏訳もされていて、独特の文体は英訳しても伝わるようで、特に中国の若者などに、人気があるということである。
世界中の、海外文学ファンにとって、やはり「読みやすさ」「面白さ」という点で、村上文学は、広く読まれている、ということだと思う。

でも私は、あえて言うとすると、村上文学が、日本を代表する世界的文学だ、とは、思えないところがある。
30年まえの日本と言えば、欧米への傾倒がまだまだ強く、自国の誇りとかアイデンティティが確立されていなかったころだ。
それで、イギリスのバンド「ビートルズ」の曲が題名になった「ノルウェイの森」や、海外文学を題名にとった「海辺のカフカ」などが、代表作になっている。
これらの文学が、「日本として、日本文化を世界に発信する」という意味で、日本国の代表作と呼べるかどうか、というと疑問である。

大江文学は、日本の伝統文化を隅々まで描きつくしていた。
日本家屋の描写などは、とても印象深い。
川端康成は、日本人の特別に繊細な感性を表現していたと思う。

そうした点から、今の日本を代表する文学を、しっかり選んでほしい、と切に願うものである。
正直、今、村上春樹氏が、ノーベル賞を授賞するとなると、日本の文壇は漂流してしまうと思うのである。

私が、「日本文化の発信」として、とてもよい作品だと思うのは、五木寛之氏の「親鸞」である。
こうした、日本的な情緒と描写のある日本文学を、世界に発信していきたい、と願うものである。

今夜も明日も、ノーベル賞ウィークはまだまだ続く。
涼しく穏やかな秋を、じっくりと味わっていきたい、と思う。


ノーベル賞ホームページ → http://www.nobelprize.org/


2015年10月6日火曜日

内閣改造の試練。


明日、7日は、内閣改造である。
相当数の閣僚席が、留任となっている。
昨年も内閣改造があった。
安倍総理大臣の方針としては、老壮青に女性、といった、バラエティに富む、それでいて安定した閣僚を整備したいようである。
来年の憲法改正に向けて、盤石な体制が準備されている。

アリの穴から堤が崩れる、という。
今回の内閣改造で、アリの穴となりそうなのは、どの閣僚席だろう。
国土交通相、公明党の席である。

思えば、維新の党も、不自然な分裂劇を繰り広げた。
次に、反戦派が狙いを定めるのは、公明党である。
公明党も、維新の党のように、内部分裂をすれば、議席の数は減り、連立与党は、危機にさらされる。

反戦派、反安倍派の動きは、安保法案の採決のあとも、決して止まってはいなかったようだ。
安倍総理大臣が、日本をあとにして、TPPに専念しているころ、反体制派は、公明党のそれもトップ幹部にモーションをかけて、公明党の分裂を、画策しているようだ。

ここで、太田国土交通相が、退陣となれば、公明党内の力関係がうまくいかなくなることは必須である。

総理大臣には、閣僚の任命権がある。
公明党の党代表がなんと言おうと、今は、与党の安定を、第一に考えて、今からでも、太田氏の留任を、決定すべきである。




2015年10月5日月曜日

TPP交渉大筋合意。乳製品について。


TPPの交渉も、最終的な目的地が見えてきたようである。
世界経済を革新的に変える、TPPの交渉は、誰もが注目しているところである。
夜になるという、共同記者会見が楽しみである。

最後の難関は、ニュージーランドがアメリカに対して、乳製品の市場開放を強く主張しているあたりだということである。
ニュージーランドは、酪農王国であり、酪農大国である。
ニュージーランド経済の大半を、酪農業が占めている、ということである。
そして、酪農立国の名にふさわしく、世界の乳製品流通量の30パーセントを、ニュージーランドが占めている。

乳製品とは、生乳、つまり搾ったばかりの状態の液体状の牛乳を、さまざまに加工して作った製品である。
チーズやバター、脱脂粉乳、粉乳、乳清、といろいろな加工製品がある。
アメリカへの市場開放は、乳製品のどれか、たとえば「乳清のみ」というような規定の枠を決めて行えば、アメリカもニュージーランドも、双方が納得できるのではないだろうか。

「乳価」は、生乳の値段である。
それは、世界経済における「株価」のような数値で表されている。
そして、世界的均衡を保っている。
世界的な「乳価」を気にしながら、農家は、生産をしている。

近年、世界的に、食生活の欧米化が進んでいることと、栄養状態のよくない難民などに対してとても栄養価が高いことで、乳製品への需要は増大している。

TPP交渉、大筋合意へ。


9月30日から始まっていた、TPPの交渉が、日程を延期しながらも、大筋合意に達する見通しとなった。
TPPが合意となれば、これからの日本の産業も、貿易も変化してくる。
長年取り組んできた課題だっただけに、大筋合意のニュースは喜ばしいことである。

最後の最後まで残った課題は、医薬品の特許保護期間であった。
私は、アメリカの言っていることは、とても重要なことだと思った。
医薬品の研究開発には、たくさんのコストと、膨大な人件費、たくさんの研究者の努力、研究のための設備投資、それから時間がかかる。
ひとつの薬を開発して商品化するまでに、数十年かかるものもある。

この医薬品のデータ、つまりレシピを、アメリカでは国内の医薬品開発のために保護したかったということだから、これも当然のことである。
医薬品の特許と、最初に研究開発した人たち、製薬会社の権利を保護しなければ、今後、医薬品の研究のための、意欲も資金もなくしてしまう。
それでは、人類的な、医学の進歩は望めない。
医薬品の研究を金銭的に守ることは、医薬品のこれからの未来のために、どうしても必要なことなのである。

せっかく、莫大な資金をかけて、医薬品を開発したとしても、ほんの5年か8年で、その特許を手放し、後発品を許すとなれば、「もうばかばかしいから、研究開発なんかしないで、どこかの誰かが開発したものを、後発品で売り出すことにする」というような製薬会社が現れないとも限らない。

アメリカの主張は、強気でもゲームでもなく、「本気」なのである。
アメリカの、「12年」を受け入れるくらいの態勢は必要である。
また、この「12年」の意義が、わかるようなアジア諸国の「意識変革」も、これから先もっともっと必要なので、理解させるように努めるべきである。





2015年10月3日土曜日

インフォメーション・「あさが来た」


9月28日から、NHK連続テレビ小説「あさが来た」が始まった。
朝の15分のテレビドラマが、半年間続くのである。
私は昨年4月から9月までの前半期に「花子とアン」の感想を書いてきた。
その後、10月から今年3月までの後半期に「マッサン」の感想を書いてきた。
どちらもとても手ごたえのあるドラマで、書いていてとても楽しかった。

今年4月から9月までの「まれ」は、都合によりお休みして、次回作の「あさが来た」を楽しみにしていた。
この「あさが来た」も、ホームページでいろいろ読んで調べてみると、展開が楽しみな、とても面白そうなドラマである。
この感想をまた、半年間、書いてみてほしい、という要望も多少ならずあって、私もどうしようか迷ったのだけれども、やはり見送ることにした。

というのは、若い書き手に、これにトライしてほしい、と思うからである。
テレビドラマを半年間、続けて見ることだけでも、忍耐力のいることだけれども、視聴者は、学校や会社、家庭という毎日を淡々と送っているのである。
そして、ドラマと一緒に、考えたり、悩んだり、楽しんだり、笑ったり泣いたりするのである。
そうした、視聴者と一緒の目線を持ちながら、一方で、ドラマ制作者の都合を考えてみたりもする。

私の「感想」には、そうした、いろいろな要素が集まっていたと、自分で思う。

今回の「あさが来た」のテーマは、ひとつは、朝ドラ初の時代劇、ということであるが、江戸時代から明治への激動の時期に、ヒロインがどう生きたか、という点が、大きなテーマであると思う。

また、いくつか絞れるテーマがあって、これは朝ドラのテーマとして定番であるが、「夫婦愛」である。
「あさが来た」では、生まれたときからの許嫁、という夫婦の縁だが、この縁を、一生はぐくんでいくことになる。
夫婦がどのように人間関係、夫婦関係を築き、大切にし、時には泣いたりもするのか、ここは、見どころというか、研究のしどころであると思う。

現代には、「嫌婚」という言葉もあるそうである。
もう、「婚活」つまり、結婚のための努力はしない、ということなのである。
結婚は、ハイリスクノーリターンである、と言いきる若者もいるそうである。

そうした現代のなかで、ドラマがどのように、夫婦が夫婦でいることの必要性を訴えていくのか、とても楽しみなところである。
視聴者によっては、「やっぱり結婚なんて必要ない」という結論に達するかもしれない。
ドラマがどれだけ、結婚の必要性を感じさせてくれるのか、あるいは、時代を嫌婚ブームに仕立て上げてしまうのか、見どころである。

もうひとつのテーマは、ヒロインあさが、女性実業家として成功していく点である。
時代背景がちがうので、今の私たちにそっくりそのまま当てはまるかどうかは、わからない。
しかし、普遍というのは、きっとあると思う。
現代社会で、仕事をして、それも大きな仕事をしていこう、としている女性たちがぶつかる悩みに、ヒロインあさも、きっとぶつかるのだろうと、思う。
その障害を、どのように乗り越えていくのか、ひとつひとつ、見守っていきたいところである。
これは、結婚しているかどうかには、関係ないかもしれないし、あるのかもしれない。
また、女性実業家という仕事が、恋愛や家庭とどう両立するのか、こうしたところも、学ぶところがたくさんあると思う。

できれば女性が、これらのテーマのどこかを見つけて、できればひとつに絞って、この半年間、ドラマをよく見て、そして、自分の感想を、自分の文章で書き表してみてほしい、と思う。

書いたものは、インターネット上に出すと、NHKの人たちが、けっこう探して隅から隅まで読んで参考にしているようなので、そういう方法もあると思う。
また、自分だけのものとして、日記などにしたためてもよいかもしれない。

私も、このドラマを見て、ここに挙げたいくつかのテーマを、そのときどきで、考えて、発表することもあるかもしれない。

でも、本当に、若手に、たくさん書いてほしい、と思うものである。

これから、冬を越えて半年間、ヒロインあさの笑顔に楽しませてもらいながら、じっくりと「女性の生き方」について、思索を深めていきたい。




2015年9月30日水曜日

インフォメーション・文学界新人賞


少しでも文章を書く人なら、机の中に、「書き溜めた小説」というのを持っているはずだ。
その未発表の小説は、いつから眠っているだろう。
いつまで眠っているのだろう。

今年の芥川賞は、お笑いタレントの又吉直樹さんが受賞した。
受賞作「火花」を、最初のほう少し立ち読みしてみて、「このくらいなら私にも書ける」と内心思った人だって、きっといると思う。

小説家になる一番の近道、あるいはエリートコースは、文芸春秋社の「文学界新人賞」をとることである。
そこから、芥川賞への道は、一直線である。

その、文学界新人賞であるが、今年から応募規定が変更になっていて、〆切が9月30日、つまり、きょうである。

私は、年末かと思っていたので、昨夜、改めて確認して、驚いてしまった。
しかも今年からは、一年に一度の選考だという。
そうすると、次のチャンスというと、来年の9月ということなのだ。

文壇では、何か変化が起こっているのかもしれない。
今年から、WEBからの投稿も募集しているという。

WEBでの応募フォームがまだ開いている。
本当の〆切は、きょう9月30日の深夜24時だ、ということだ。

机の中に、あるいは「デスクトップの中に」眠っている原稿があるなら、アマゾンに送っている場合ではない。
少なくとも、きょうはアマゾンはやめて、文学界に送ってみよう、とは思わないか?

私も、きょうこれから、ドキュメントフォルダの中を整理して、なんとか数時間で応募の準備をしようと思うが、どうも間に合いそうにない…。

たくさんの、小説家になりたいとちょっとでも思う人たちのために、インフォメーションをしてみた次第である。
一緒にがんばろう。

文学界新人賞原稿募集要項 →https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai_prize.htm




2015年9月29日火曜日

福山くんショックを乗り越える。

福山くんショックを乗り越える。


あれから24時間たったであろうか…。
福山雅治さんの結婚が発表された…。
いつまでもいつまでも、心の恋人でいてくれると思ったのに、
彼は、ひとりの女性を選んだ…。
既婚者も未婚者も、悲鳴をあげた、という。
悲しいのではなく、つらいのではなく、ただただ、「サヨナラ私の青春」などと思うだけである…。
「福山くん、おめでとう」
と言わなければならない。
つらくても悲しくても、おめでとう、と言おう。
自分自身の自尊心にかけても、「おめでとう」と言おうではないか。

ところで、女性たちは、きっと心にこう思っていると思う。
「この悲しみを乗り越えよう」と。
それで、やはり来年の参議院選挙は、勝たなければならない、と思うだろう。

憲法改正について、私もよく考えてみた。
しかしやはり、安全保障法案にしても、女性の意見が、うまく伝わらなかった感がある。
もっと上手に、的確に、国会に意見を伝えよう、と私は思ったのだ。

「例えば」である。
これはあくまで「例えば」の話であるが、
女優の吹石一恵さんに、女性の意見を代弁する国会議員として、参議院議員になってもらってはどうだろうか。

候補者選びというのは、いろいろな条件がある。
もちろん、日本国民なら、誰にでも平等に、政治に参加する権利がある。
が、候補者にふさわしい様々な要件があると、私は思うのである。

たとえば、吹石さんなら、人前に出て堂々と振舞えるように女優として訓練も経験も積んである。
これがやはり素人だと、人前で、テレビカメラが回っているところで、セリフひとつまちがえずに、演説をしゃべるのは、むずかしい。
想像してみてほしい、むずかしいだろうと思う。
けれども、日ごろから、あるいは若いときから、テレビカメラの前に立っていた人は、経験があるので、それができるわけである。

また、知名度の点で、女優さんとして名が通っていることは、とても望ましい。
選挙活動で一番苦労するのは、「名前を覚えてもらうこと」だという。
こうした点で、女優さんのお仕事をしていたかたは、すでに名が通っているので、選挙で勝てる可能性が高い。
丸川珠代さんなど、アナウンサーとして人前で話す経験とノウハウがあり、名が通っていて、政治にも理解がある女性が、候補者として選ばれたのは、こうした条件を満たしたからである。
特に女性は、人前で話す「度胸」が整っている状態が、少ないので、候補者として条件を満たす人が、なかなかいない、ということなのである。

吹石さんはまた、女性の意見を代弁する、代表者を選ぶ、というあたりでも、「条件」を満たしている。
ご結婚なされた夫の福山雅治さんは、長崎県生まれで、被爆3世である。
こうした点から、平和派、憲法改正反対派、として、ひとつの思想信条を代表する人物として、適任であると思われる。

また、吹石さんの置かれている環境を考えても、これまでもこれからも女優という仕事を続けていくということなので、ご主人の理解、家族の理解と支えがあることが、考えられる。
もちろん、立候補の前には、ご主人である福山雅治さんとよくお話をしあい、理解と納得をいただけることは、とても大切なことだろう。

女性たちが、政党を作ることもできるが、まずは、ひとつの意見を持ったグループとして集まって、その代表者というより、「代弁者」として、吹石さんに国会議員をお願いする、ということは、大切な政治活動である。

私は「ママの会」なり、あるいはほかの政治団体にしても、やはり国政に意見を伝えたいならば、議会制民主主義を、きちんと通り抜けることが大切である、と思う。
それは、自分たちの意見の代表者を、国会に送ることである。
国会議員として送るのである。

まず今から、コツコツと、意見の集まった「グループ作り」をすることである。
それから、そのグループの代表者を決めることである。
この代表者が、リーダーである。

リーダーと同じ人でもいいし、別の、先に述べた、人前で堂々と話す経験を持っている人を、議員にして、グループ全員で応援する。
選挙事務所や選挙カー、うぐいす嬢、ポスター作り、マニフェスト作り、ホームページ作り、こうしたことを、グループの皆で、分担して行う。

こうしたことを、コツコツと始めて、続けていけば、来年の夏の参議院選に、代表者を送ることができる。

これまで、福山くんの歌を聴きながら、心の支えにして仕事をしてきたけれども、これからも彼を応援しながら、仕事を始めていこう、と思う。




2015年9月27日日曜日

民主党の候補者選び。

民主党の候補者選び。

2015年9月19日。
安全保障法案が成立した。
あれから一週間が過ぎようとしている。

与党自民党・公明党の次のテーマは、憲法改正である。
秋の臨時国会では、憲法改正の論議が、始まるようだ。
これから、自民党は、来年の憲法改正と、それから参議院選挙の勝利に向けて、歩み始めることになる。

安保法案の採決の次の、勝負の「決め所」は、来年の参議院選挙である。
私は、今回の安全保障法案に関して、日本という国のたくさんの人々が、政治に関心を持つようになったことが、とても良いことだと思っている。

「ママの会」では、子どもを持つ女性たちが自らの主張を持って立ち上がった。
SEALDsでは、学生を中心とする若者たちが、自らの主張を持って立ち上がった。
こうした動きは、民主的でとてもよいことだと思う。

次の「戦い」は、デモでも街宣でもない。
参議院選挙である。

すでに民主党では、7月の選挙の候補者選びに入っている。
しかし、なかなか候補者が決まらないそうだ。
来夏7月の選挙に、今年秋から準備が始まっていることを、政治に興味・関心を持つ人々は、知っておくべきであると、私は強く思った。

民主党から立候補して、ママの会から10人くらいは、子どもを持つ女性が、立候補するのではないか、と予測している。
また、SEALDsからは、成人して、25歳以上であっただろうか、立候補する権利を持った若者代表が、参議院議員候補として十数人は立候補するのではないか、と予測している。

そして、野党連合の再編も素晴らしい勢いで始まっている。
共産党はすでに、野党共闘の呼びかけを行っている。
維新の会も、野党再編に力を入れているが、今の状態では、まとまるどころか、分裂に輪をかけている状態である。
これでは、野党連合が、与党自民党・公明党に勝てるかどうか、まったくままならない。

民主党では、昨年の衆議院議員選挙では「不戦敗」だったそうである。
つまり、最初から、候補者の数が、衆議院の過半数の数に達していなかったそうである。
こんな戦わずして負けるようなことが、今後の日本で起こるとは、考えられない、と私は思う。
野党連合も、議員の数だけ合計すれば、与党自民党・公明党に勝てる数はいるのに、こんなに仲が悪いことでどうするのだろうか。

しかし、こうした野党連合の今の姿は見せかけにすぎず、すでに共産党に与する党派が、集まりつつあるのではないか、と私は見ている。
来年の夏7月の参議院選挙に向けて、スタートが始まっている。

楽しみである。


秋は国際的。

秋は国際的。

9月も終わろうとしている。
今夜は中秋の名月である。

今年の国会は、とても長かった。
その国会も終わると、10月に入る。

10月は、毎年、国際的な日程の秋、と言われているそうである。
国連総会があり、ノーベル賞ウイークがある。
各国の首脳会談が行われ、
国際間の話し合いが、あちこちで行われる。

日本からも、安倍総理大臣が、国連総会に向けて出発した。
山積する国際的な課題について、提言をする予定であるそうだ。
耳を澄ませて聞きたい。

このところ、日本は国際化しているように思う。
海外からの観光客もとても増えているし、
輸入されたもの、輸出するもの、とても増えている。
テレビ番組を見ていても、英語を話す場面が増えていたりする。

また、国際ニュースがとても増えているように思う。
各国のニュースが、海を飛び越え、山を飛び越え、
日本のお茶の間にいる私たちの目に耳に、
飛び込んでくる。
私たちは、自然と国際的な感性を身に着け始めていると思う。
そうならざるを得ない状況かもしれない。

国際問題は、本当に、いろいろな問題があり、
日本人として生活していると、理解しにくい問題も多々ある。
それを、日本としても、国際社会の一員として、解決に取り組んでいくということは、とても良いことで、必要なことだと思う。

かつては、アジアの一国に過ぎなかったかもしれない。
もしかすると、閉鎖的で自分の国のことだけで、精いっぱいだったかもしれない。
これからは、世界に開かれた国として、国際社会の一員として、世界中の問題に積極的に取り組んでいく、ということである。

これからの日本の未来と責任を、大切に思う、秋である。



2015年9月20日日曜日

安全保障法案の成立おめでとうございます。

安全保障法案の成立おめでとうございます。
2015年9月19日未明、安全保障法案が可決された。
今回の採決に関しては、16日から特別委員会での審議が始まり、長い長い三日間だったと思う。
考えてみれば、2012年夏の、アジア危機から始まって、こうしてしっかりと法案を整備するところまでたどり着いたので、そのほうが長い道のりだったかもしれない。
民主的に法整備を整えるというのが、こんなに時間がかかることだとは思わなかった。
しかし、政権は、忍耐強く、時間をかけて、審議を尽くして、物事に対処したと思う。
この間に、たくさんの討論が重ねられた。
私も最終的には、両者の意見を聞くたびに、どちらにも理があるように思えて、まさに、情に棹させば流される、という状況のときも、あったと思う。
しかし、理想郷というのは、どこにもないのだ、と思う。
私たちは、現実を認めなければならない。
どこかにあるはずの、夢のような、善人ばかりが集まる理想郷を、いつまでも追い求めていたかった気もするときがある。
そういうときに、安保反対派の考えに流されたこともあった。
最終的には、結果が出るのを待ち、政府と内閣と総理大臣の判断に任せた、というのが、私の率直な心境である。
アジア危機がわかっていたからこそ、どう対応すればいいのか、私には何通りもの方策があるように思えて、そのたびに、日本政府のこの対応策に迷った、ということである。
しかし、やはり、理想と現実の間を、埋めなければならない。
政治には、「落としどころ」がある。
大人として、立派に妥協点を見つけなければならないが、その妥協というのは、自分の心の弱さとの妥協点であると、私は思った。
安全保障法案に関しては、たくさんの討論がなされ、世論が動いた。
これまで政治には全く興味を示さなかった、女性たち、若者たちが、考え、行動を起こした。
しかしやはりその行動や言動は、日ごろから政治を見ていなかった分、遅かったと思う。
私は思った。
あの、採決のとき、ライブ中継で見守っていた採決であるが、青票と白票で、採決をする、あの票である。
木で出来ているのだろうか、少し厚みがあって、透明なケースに入れて積み重ねたときに、票の状況が一目瞭然となる。
あの一票に、万単位の有権者の声が集まっているのである。
やはり、議会というところは、厳粛なところである、と思わされた。
これまで欠かさず続けてきた選挙が、こうして議員を国会に送り出し、政治の判断は選挙で出した代表者に委ねる、これが、議会制民主主義の基本である。
この基本のおかげで、こうして、自分自身が迷うときにも、正確な判断ができたことを、とても大切に思う。
これからの日本は、あのアジア危機のときのように、大災害のあとに、中国、韓国、ロシアと三方から計略的に狙われることなく、毅然として対応できるようになる。
そうしたときに、日本の歴史は、変わるだろう、と思う。
強い激しい変化の波が起こっていて、ともすれば流されそうになるときに、一生懸命毎日を生きていく、判断していくということが、大切であると思った。
私は、あの2012年のアジア危機のときから、アジア情勢、アメリカやロシアとの関係を、ずっと考えてきたけれど、きょうが通過点かもしれないが、私にとっては、ひとつの到達点であると思う。
しろうとの私が、政治に関与してこれたのは、ひとえに、政治の専門家である議員、政府のおかげであると、心底思っている。
今年の国会はこれで終了となった。
長い長い一年であった。
法案が成立して本当によかった。
新しい日本の出発を、おめでとうございます。
ありがとうございました。

2015年9月16日水曜日

軽減税率・飴と鞭。

軽減税率・飴と鞭。
安保法案も採決が間近である。
60日ルールを使える状況になったので、すぐにでも、今にでも、採決ができるというわけである。
毎日がハラハラドキドキである。
それにしても、SEALsが、思わず「大人たちはきたない」と言ってしまうのも、よくわかる。
大人の世界、政治の世界がよくわかるこのごろである。
与党・自民党は、連立を組む公明党の票を確実にするために、今、「飴」を送っているところである。
政治の世界は民主的で、正義と信念が通るべき世界ではないのか。
わかってきたこと、全国の国民が今理解していることは、自民党が今、公明党に飴を送っていて、それが政治家のやり方だ、ということである。
しかしこの飴、苦い飴もあれば、甘い飴もある。
今、公明党が口にしているのは、毒入りの飴である。
公明党は、来年の参議院選挙を考えて、昨年末の衆議院選挙で公約とした、「軽減税率」を、自民党に要求している。
公明党はすでに、支持母体の創価学会にほころびが出始めていて、こちらも必死である。
しかし、軽減税率という飴を口にして、安保法案に賛成すれば、そのあとは、いわゆる「戦争」である。
たくさんの識者が指摘しているとおり、アジアは今、危機的状況にある。
中国に対して、アメリカが攻撃をしかけることはあるだろう。
どちらが仕掛けたにしても、中国とアメリカの争いは、南シナ海のあたり、あるいは日本近海で、起こると思う。
それも、今すでに、一触即発の状況であるのだから、日本での安保法案の可決を待って、すぐにでも「始める」気だろう。
日本からすぐにでも、自衛隊が出て、日本近海でドンパチ始まることになれば、これはどう見ても、「戦争」である。
安保法案に賛成して戦争が始まったというなら、公明党は、平和の党のメンツが丸つぶれである。
今、創価学会のほころびは、始まったばかりかもしれないが、戦争になれば、来年の選挙など成立しないだろう。
しかしこれは、自民党にしても、同じ理屈なのである。
軽減税率の甘い飴は、猛毒の飴であり、公明党を地盤から滅ぼすものである。
公明党執行部も、そろそろ連立離脱を、決断すべきではないだろうか。


2015年9月15日火曜日

安保法案・採決までの日程。

安保法案・採決までの日程。
2015年。
9月もなかばとなった。
すでに秋の風である。
実りの秋である。
日本では、今、大きな法案が、実りの秋を迎えようとしている。
安全保障法案である。
採決までの日程が、大詰めである。
きょう、15日は、中央公聴会が行われる。
明日16日、水曜日は、地方公聴会である。
たくさんの人に意見を求め、たくさんの人に、法案を説明するのは、とてもよいことだと思う。
とても民主的に、手続きを踏んでいると思う。
そして、あさって17日、木曜日に、まずは特別委員会で、採決が行われる。
これはおそらくは午前中のことだろう。
そのあと、午後に、参議院本会議で採決が行われる。
野党は、この採決を阻止すべく、全力の政治的行動に出る予定であるから、本会議は時間がかかりそうである。
安全保障法案は、これまでいろいろな国会があったけれども、国民の賛否が大きくふたつに分かれることに特徴がある。
私もいろいろな審議や、国会の状況を見てきたけれども、こんなにも「最後の最後までわからない」法案は、初めて、という気がする。
もしも、参議院で採決できなければ、18日、金曜日までに採決するために、60日ルールを使って、衆議院で採決するように、万全の態勢であるという。
衆議院議員に禁足令が出ているそうだ。
参議院で採決できない場合、すぐにでも、つまり17日でも18日でも、衆議院での採決に踏み切る、ということだろう。
本当にすごい国会となった。
ニュースでは「大荒れが予想されています」と、台風ばりの報道である。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というが、もしも、安保法案に反対である議員がいたとして、それまでの審議では反対を表明してはいなかったのだが、採決のときだけ、反対票を入れたらどうなるのだろう?
これを、ひとりの議員でするなら、政治的にとても、あとあとまずいことになる。
でも、「みんなですれば怖くない」と思う議員がいたら、どうしよう?と思う。
私はもちろん、安全保障法案に「賛成」である。
だからこそ、心配しているのだが、最後の最後に、自民党も公明党も、議員が全員で、「反対」となったら、反対票を入れたら、どうなるのだろう?
賛成票を入れるのが、総理大臣一票だけ、となったら、どうなるのだろう?
(しかし、そういうことになったら、安全保障法案は廃案となり、総理大臣は責任をとって辞任し、国会は解散、衆議院解散総選挙ということになる。
総選挙、総裁選の準備はすでにできている。)

私はとても心配性なので、こういうことを考えるのかもしれない。
テレビ中継も、インターネット中継もされているときに、そんなにみんなでそっぽを向いたりしたら、大変なことになる。
世界中に報道されることに、なるかもしれない。
実りの秋が、台風と火山の噴火で、本当に悲しい状況になっている。
安全保障法案という実りが、議員の大量造反という台風で、押し流されてしまわないように、心から祈りつつ、今週の日程を、見守っている。


2015年9月13日日曜日

若手の時代の到来。

若手の時代の到来。
スマートフォンのiPhoneで、新しい機種が登場するそうである。
今回、新しくなったのは、「そのすべて」なのだそうである。
私たちの世代は、もうどんどん取り残されてしまっているかんじがする。
考えてみれば、パーソナルコンピューターが普及し始めてから、10年と少ししかたっていない。
しかし、今、30代、40代という人たちは、10代のころから、パソコンや携帯電話を使っていた人たちなのである。
これから、コンピューターを利用した、キャッシュレス社会が到来するかもしれない。
これからの時代は、若手の時代だといえると思う。
キャッシュレスの近未来社会を樹立するためには、それはそれは、たくさんのリスクを背負うことになるだろう。
たくさんの討論が予測される。
障害も多いことだろう。
でも、今のメディアは、成熟している。
ここ数年で、日本のメディアが、とても成熟してきていることは、世界中の話題になっているそうである。
新聞を見ても、各紙が各様の論を繰り広げていて、事実を知るだけではなく、物の見方を知ることができるのは、本当に興味深いことである。
知り合いの知識人に聞いた話であるが、社会問題をどう捉えていいのか、一紙だけ読んでいるのでは、わからなくなる、というのである。
すべての新聞をとって読まなければならない、とうれしそうに困っていた。
また、テレビ番組のニュースも、そうである。
各テレビ局の解説が、とても分かりやすい。
それでいて、それぞれのテレビ局の個性があって、カラーがある。
どのテレビ局を選んでも自由であるが、あらゆるチャンネルを見て、論をかわすのも、とても楽しい。
日本のメディアの成熟は、東日本大震災のあと、4年半たった今、成し遂げられた実りかもしれない、と思う。
思えばこの間、ツイッターなどのインターネットの普及は目覚ましかった。
これからの、新しい時代は、新しく成熟した若手の人たちが、拓いていく未来だと、私は思う。
幸い、安倍総理大臣は、若手の育成にはとても熟練な政治家だそうで、若手政治家からも、若手メディアからも、信頼が厚いそうである。
こうした、「ついていく人」がいる限り、日本の将来は明るいと、私は思う。
私自身は、私のもといた場所から、今一度、自分の人生と、健康と、それから、仕事のことを、改めて考えてみつめてみたい、と思っている。
が、正直、メディアの若手の台頭をひっぱってきた自負があるからもちろん、「うの花」のように、スカスカになってしまった。
私自身、4年半、このブログを書き続けて、それまで貯めていた知識も、とっさに考えた知恵も、すべて放出してきて、預金残高のなくなった通帳みたいな状態である。
しかし、書いてきたことが、若手の育成につながっていた、と思えば、うれしくないはずはない。
これからの時代は、若手のみんなで、やっていける。
みんなそれほど、力をつけている。
私も、ずっと見守っていて、ときどきは、何か書くこともあるかもしれない。
そういうわけで、東京オリンピックに向けたこれからの5年間は、若手が精いっぱい、力いっぱい頑張る時代だと思うので、私は少し遠くから、みていることにした。
日本は、新しい時代を迎えようとしていて、それは、若手が拓く時代なのだと、私は本当に、楽しみに思います。


2015年9月12日土曜日

ハイリスク・ハイリターン。

ハイリスク・ハイリターン。
安倍政権が続く。
先日の、自民党総裁選で、安倍総理大臣が、無投票で再選された。
とってかわる他の人材がいなかった、ということが、大きな理由であると思われる。
自民党の独走態勢はどこまで続くのだろう?
安倍政権の政治は、どう考えればいいだろうか、ある政策はとても良いし、ある政策は、う~ん、と考え込んでしまう。
全体に、勢いがあって、流れが速い。
以前から、手を付けてほしかった政策も、たくさんある。
また、政策とは別に、公共事業の工事もめざましい。
完成は、3年後、5年後、10年後となっていくが、ともかく手をつけたのが、よかったと思われる。
全体に、政策が理想的なところが多く、これだけの理想を現実にするのは、本当に安倍総理ならでは、ということだろう。
新しい時代、という気がする。
しかし、何かよくわからないが、なんとなくすぐには賛成しかねるところがある。
それが何なのか、私はよく考えてみた。
そして、あることに思い当たった。
安倍政権の政治は、ハイリターンではあるが、ハイリスクである、ということである。
そして、そのハイリスクに対して、リスク処理をしていない、ということなのである。
リスク処理とは、まず第一に、国民の理解と納得をとりつけることだろう。
安倍政権の政治は、国民の理解や納得を後回しにしたり、「いらない」と決めているようなところがある。
しかし、安保法案のデモ行進でもわかるように、これがリスクとなって、政権と、支持率を苦しめている。
最終的には、選挙が、政権を苦しめる。
これまでの、安倍政権のハイリターンな政治には、なんらかのリスク処理班が付いていたのかもしれない。
それが、よく理解し納得した、メディアだったのかもしれない、と思う。
メディアが世論に訴える力を持っていて、政策を支持したことで、リスク処理が大幅に進んだのだろう、と考えられる。
しかし、次の政策、マイナンバーとキャッシュレス社会を考えてみると、確かに理想的で、「成功したら素晴らしい」でも、「もしもうまくいかなかったら、リスクが大きい」のである。
世の中の仕事には、リターンの代わりに、リスクがつきものである。
ハイリターンのものほど、リスクも大きい、という法則がある。
ハイリターンを望み、ハイリスクを引き受けるのは、個人の判断である。
性格によるものや、生き方の規範に従うものであるかもしれない。
だから、ローリスク・ローリターンの判断をするのもまた、個人の性質によるもので、どちらが正しいということは、ないのだと思う。
私自身は、女性であり、性格も女性的であるからか、リスクが大きいことを考えると、やはり、ハイリスク・ハイリターンは、望まない。
リターン、成果は小さくてもいいから、ゆっくりと地道に着実に、歩を進めたい、と思う。
安倍政権のハイリスクには、もうついていけない、という気持ちがある人も、多いのではないだろうか。
独走態勢の安倍総理大臣の、あとから、リスク処理をする人たちが、大変である。
改革路線はもういいから、ゆっくりと人生を楽しめばいいではないか、と思う。
一方で、キャッシュレス社会は、世界的な潮流であり、日本が一番最初を、トップをきれるかもしれない、ということなのだと思う。
でも、競争はもういやだ、というのが、日本国民と、リスク処理を引き受けてきた人々の率直な気持ちではないだろうか。
理想が高いのはよいが、その分、なくすものや労力のかかることを、ますます大きくなるリスクを、考慮に入れるべきではないかと思う。

マイナンバーと軽減税率。

マイナンバーと軽減税率。
安保法案の採決も間近である。
まだ日程がはっきり決まらないようだが、いずれ今月9月中には、
何もかも決着がつくだろうと思うと、なんだかほっとする。
ところで、採決間近、最近になって話題になっているのが、
マイナンバー制である。
このマイナンバーは、もう来月10月から施行されるそうである。
私たちが、安保法案であれこれ考えて、デモ隊が出たとか、
反戦派の運動とか、国際貢献は、と考えている間に、
いつの間にか、マイナンバー法案が可決されていた。
これは、一昔前ならば、「国民背番号制」と呼ばれていた、
国民ひとりひとりに、番号を割り振って、
行政の手続きをコンピューター化する仕組みである。
これが、人間を番号で扱うのはどうか、とか、
個人情報の取り扱い、とかで、しきりと議論されていた。
しかし、今回のマイナンバー制は、議論する余地のないまま、
いつの間にか可決である。
すでに、数か月前から、インターネットや広告などで周知されていたので、
私も知っていた。
行政の手続きがコンピューター化されるのは、効率的でもあるし、
利用者にとっても、簡単便利である。
だから、いい制度だと思っている。
私も、さっそくにマイナンバーカードを作ろう、と思っている。
ところが面白いことに、ここに軽減税率が「くっつく」という話である。
軽減税率はすでに、ヨーロッパでは導入済みなので、
いずれ日本も軽減税率を、ヨーロッパ式に取り入れるのだろう、と推測していた。
しかし、日本の軽減税率の仕組みは、マイナンバー制を使用して、
お買い物のたびに、このカードを提示し、
食料品など、軽減税率が適用される品物をどれだけ購入したか、
ポイントセンターなるコンピューターシステムを使って計測するのだそうである。
なぜ、今になって、この話が出てきたのだろう?
マイナンバーは、個人番号である。
その個人が、どこで何をどれだけ購入したか、コンピューターに情報が累積されるというのは、どうしてこんな仕組みが発想されたのか??と考え込んでしまった。
私たちがよく利用する、オンラインショッピングでは、どうなるのだろう?
オンラインショップでは、クレジットカードでの支払いが主である。
とすると、マイナンバーと、クレジットカードとが、接続されることになる。
となると、今までもクレジットカードとメールアドレスが接続されていたのが、
それとマイナンバーが接続されると、
今度は、メールアドレスと、Yahoo!IDと、マイナンバーが接続されることになる。
Yahoo!IDには、すでに、Tポイントカードが接続されているから、
マイナンバーとクレジットカードと、Tポイントと、メールアドレスが、接続されることになる。
また、人によっては、SuicaのカードやEdyのカードが付く人もいるかもしれない。
マイナンバーには、お給料や年金、健康保険証の番号もついているから、これは、ものすごい、個人番号の接続となる。
(10月1日には、国勢調査があって、これもインターネットで回答できるが、コンピューター化である。)
こうすると、これは、キャッシュレスの社会となるのではないか。
すでに、セブンイレブンのnanacoカードなど、チャージするカードを使っていて、Tポイントカードも使っていれば、カードを持ち歩くことや、買い物の際にカードを提示することは、慣れている、それほど苦労ではない。
その状況で、この毎日使っているTポイントカードに、マイナンバーが載る、というだけのようだ。
説明がむずかしくなったが、考えながら書いていてこうなってしまった。
すでに煩雑になっている、クレジットカード、ポイントカードを整理して、
キャッシュレスの社会を作ることが、もしかすると政府の、将来的な目標なのではないだろうか。
そうすると、夢の近未来である。
SF映画やSFコミックに描かれたような、夢の未来である。
私も、アニメ映画「サマーウォーズ」は、観てとても感動した。
この近未来の社会を、安倍政権は目指しているのではないか、と類推するのである。
安倍政権の第二ステージが始まった、という人もいる。
本当に、楽しみである。



2015年9月6日日曜日

安全保障法案・採決間近。

安全保障法案・採決間近。

安全保障法案の参議院での採決が、間近にせまった。
この9月、日本は大きな転機を迎えることになる。
もしも法案が否決されたなら、次に集団的自衛権に関して法案が国会に出るのはいつの日となるだろうか。
集団的自衛権は、日本の政治家にとって、長い間、悲願であった法案である。
それが、否決されたとなると、次に政治的求心力が高まる時代は、100年後になるのかもしれないし、二度と来ないのかもしれない。

集団的自衛権を持たない日本は、世界情勢のなかで、孤立している。
ただでさえ、武器を持つことができない、軍隊を持つことができない、そういう国は、とてもハンディのある国である。
戦後、アメリカは日本に、憲法でしばりつけて、軍隊に関するハンディを負わせた。
日本という国から「刀」を取り上げたといってもいい。
刀を取り上げられた武士の国・日本は、寂しい、気弱な国になってしまった。

日本の政治家が今、さかんに世界を飛び回っている。
もちろんそれは、日本の政治家に限ったことではない。
G20もサミットも首脳会談も、あちこちで頻繁に開催されている。
世界のトップがこうして、頻繁に会って話す、こういう時代はこれまでそうそうなかったように思う。
そうして、世界のトップが集まるとき、わが日本の国のトップは、どんな気持ちでいるのだろうか。

私は、国と政府と国民を、よく家庭に例えて考えている。
政府は、一家の主、大黒柱の、夫、主人である。
あるいは「お父さん」と呼ぶ家もあるかもしれない。
そして、国民は、妻、子どもたち、あるいは一家の主をリーダーとして集まってそこで暮らしている老後の生活を送る家族かもしれない。
そう考えると、一家の主が、社会に出て行って、「私は家庭をこのように治めています」「私の家庭はこんな家庭です」というときに、どれだけ「仕事」をこなしたか、その仕事の成果を誇ることは、あるだろうと思う。
一家の主が、その家庭の、住宅が素晴らしく頑丈で実用的であること、見栄えも美しくよく手入れがされていることを、誇りに思うだろう。
そして、会社の昼休みに、社員仲間と集まって、「わりとさりげなく」話すのである。
どの家のご主人もそうではないだろうか。
そして、「国民」がどれだけ、一家の主に協力的であるかを話すのである。
妻がこれほど、夫のために料理を作ってくれた、とか、困ったときに助けてくれた、とか、家事のことも、育児のことも、大切に丁寧に成し遂げてくれているので、すべて妻に任せられる、と胸を張るのである。
また、子どもたちが、一家の主が施した教育の成果があって、努力家で、性格も明るくはつらつとしていて、夏休みの自由研究も、特別な成績を収めることができた、と「わりとさりげなく」言うのである。
しかしこういうことは、言わなくてもわかっているもので、「お宅の奥さんは、とても心が優しくて働き者ですね」と言われたり、あるいは「お宅のお子さんは、とても優秀だそうですね」と褒められたりもする。
世界のトップが集まって、「我が国は」の話をするときは、一家の主が「我が家は」の話をするときと同じである。

しかし、である。
我が日本国のトップである安倍総理大臣は、世界のトップがお茶のみ話をしているときに、ひとり孤独と劣等感を味わっているのである。
それは、「我が国」に、まだセコムを導入していないからである。
どのお友達のご自宅にも、セコムが導入されて、妻も子どもたちも、貴重品もとても安心して眠っているのに、我が日本国だけは、セコムがないのである。
あんなにがんばって、日銀にたくさんの金融政策をして、自宅には、山のように金銀が積まれるようになった。
それなのに、セコムがないのである。
妻と子どもたちが、セコム導入に反対なのだ。
これは、集団的お友達セコム、と言って、もしもお隣の家に泥棒が入ったら、うちから高枝切りバサミを持ってかけつけることになっている。
そして、我が家に泥棒が入ったら、お隣のおじさんが、金属バットを持って駆けつけてくれる、という仕組みである。
この町内会のセキュリティシステムに、入会することを、妻と子どもたちが、頑強に拒むのである。
その理由は、「泥棒さんとは、よくお話をしあって、すべてを解決するのが平和的だから」というのである。
その「お話合い」を、妻と子どもたちがするのか、というと、「あなたがやって!」とピシャリと断られるのである。

我が国の一家の主は、どうしても、この高枝切りバサミを持ちたい、と願っている。
お隣のご主人は奥さんに許してもらって、ちゃんと、いいのを持っている。
反対側のお隣のご主人も、奥さんがたいへん協力的で、すごくいいのを、持っている。
どうも、向こう隣りの家の奥さんは、「あなた、もっといい、泥棒対策をしましょうよ!」と、夕ご飯には、ステーキも用意してくれるらしい。
それなのに、安倍さんちでは、戸口に鍵をかけることも許されないのである。
世界は今、町内会の助け合いブームである。
町内会に入会して、活躍したい、お隣のご主人と、せめて世間話くらいはしてみたい安倍総理大臣は、今、泣いている。
奥さんと子どもたちには「オレについて来い!」と言ってみたが、そっぽを向かれている状況である。

そういうわけで、私は、世界的近隣町内会に、参加できるように、安倍総理大臣に賛成してあげたい気持ちである。

日本の夜明けは近い。
世界に貢献できる日本になれるように、あとちょっとだ、がんばろう!!!

2015年8月31日月曜日

デモ隊のバックに付いている大物政治家とは誰か。

デモ隊のバックに付いている大物政治家とは誰か。
昨日、8月31日、日曜日に、国会議事堂周辺で、大規模なデモがあった。
これらのデモ隊、さまざまな「安保反対」を訴える団体には、これといった代表者がいない。
リーダーシップを執っているのは誰なのか。
学生たちに、ハンガーストライキを起こさせるほどの、影響力を持った人物は誰なのか。
背後に、安倍政権と対立する、大物政治家が、存在するのではないだろうか。
デモ隊は、その大物政治家にうまく利用されているのではないだろうか。
反安倍勢力を作って、安倍政権を脅かしたい人物がいるのではないだろうか。
このところ、あちこちで、不可思議な事件や事故が起こる。
大物政治家なら、こうした事故を、人為的に起こすことも可能だろう。
それは、政治家が一番よく知っていることだろう。
「安倍政権になってから、社会不安が大きくなった」と言われるほどの、こうした状況を生み出したのは、いったい誰なのか。
誰かが、作為的に、社会不安を作り出し、国民の心を不安に陥れ、コントロールしようとしているのではないだろうか。
その「誰か」を私は考えてみた。
安倍総理大臣にも、心当たりがないか、考えてみてほしいと思う。
私は思い当たった。
小沢一郎氏である。
考えてみれば、3年前の選挙で、滋賀県知事であった嘉田氏を、たった一か月で考えを変えさせて国政選挙に出させたのが、小沢一郎氏である。
なんらかの、心理的なトリックを使う人物なのではないだろうか。
宿命の対決は、今ここにある。


2015年8月30日日曜日

9回裏ツーアウト満塁。

9回裏ツーアウト満塁。
8月も、もうすぐ終わる。
12年ぶりの「寒い夏」だそうで、気象予報士も予測ができなかったそうである。
火山の噴火、地震、台風、何かが起こりそうな、起こっているような、2015年の夏である。
安保法案の参議院での審議も、もうすぐ100時間に達しようとしている。
あと2週間で、「60日ルール」の適用である。
安保法案、成立目前という日程であるが、反戦派も黙っているわけがない。
負けの風が吹いている。
選挙もそうであるが、風が吹く、ということはある。
安保法案の廃案に向けて、風が吹いているような気がするのは、私だけではないと思う。
反戦派もがんばっている。
あの結束力の高い創価学会に、反乱の署名運動を起こさせたのは、反対派の活動家たちだろうと思う。
これで、創価学会と公明党の間にすきま風が吹き始め、土壇場での採決反対票になりかねない状況となってきた。
あるいは、最後の最後に、キャスチングボードのカードを切って、連立を離脱するのかもしれない。
そういった状況を想定してか、自民党は、維新の党と、結びつきを図っていたようであるが、その維新の党も、事実上分裂して、安保法案で協力体制を組むことは、不可能になってしまった。
昭恵夫人へのバッシングは日ごとに、激しさを増している。
もともと、「家庭内与党」を公言していた昭恵夫人だが、いつの間にか、ご主人である安倍総理大臣を守るようになった。
安保法案に協力してくれるように、特に女性を集めての講演会で支援を願っているようであるが、それが、この状態である。
いかに政治家の妻といえども、こうしたバッシングには、心身ともに疲れ果ててしまうだろうと思える。
ご主人である総理大臣も、心労が絶えないだろう。
自民党の若手議員に関するスキャンダル、そして離党問題も持ち上がった。
もともと、若者たち、SEALDsのデモ運動を批難して、ツイッターが炎上したわけであるが、それとは別に、献金問題が浮上した。
これらはすべて、安保反対派の活動の成し遂げるところだろう。
沖縄での協議は成功しているのだろうか。
もうすぐ、工事再開の時期である。
沖縄に、エンタテイメントの施設、沖縄ユニバーサルスタジオジャパンを作ってあげる、というのは、甘い儲け話であるが、沖縄の筋金入りの平和活動家が、このような「飴をしゃぶらせる」ような方策に、むしろ激昂している姿が、目に見えるようである。
8月14日には、安倍総理大臣から、談話の発表があった。
わかりやすく歴史を解説した話ではあるが、「おわび」の文言などは、反対派の言うことを聞いた、ともとらえられかねない。
すでに、平身低頭の姿勢である。
そして、経済の失速である。
世界的な株価の下落は、安倍内閣の柱である、経済政策にボディブローを及ぼした。
これからどのような展開になるか、経済政策に関しては、不安材料でいっぱいである。
そうした状況におびえてか、来年の参議院選挙を不安に思った自民党議員からは、すでに弱気な声が上がり始めているようである。
9月の総裁選も、自民党議員の弱気を反映して、無投票当選となりそうだ。

安倍自民党の、この8月は、天気と同じく、失速気味というか、反対派の圧勝目前、野球の試合でいうなら、9回裏ツーアウト満塁で、一打サヨナラ、というあたりである。
こうなると、9月の予定はどうなるだろうか。
安保法案の廃案である。
安保反対派の勝利、となる。
廃案の責任をとって、安倍総理大臣は退陣、そして、衆議院解散総選挙、となるだろう。
しかし、ここに、チャンスがある。
安保反対派は、反対ばかりしているだけで、次の選挙で、政党も党首も議員も、準備することができていない。
昨年末の選挙がそうであったように、安保反対派は、烏合の衆なのである。
平和政策を主眼とした、政党を作ることができないし、候補者を擁立することもできない。
次の選挙も自民党の勝利である。
来年の参院選も、もし、民主党に多数とられたとしても、「軽いねじれ」が起こるだけではないか。
大勢を見れば、安倍自民党の勝利である。
もしも、反対派が、今から政党や候補者を準備して、特に女性候補などを擁立する準備ができていたら、これは本当に、安倍政権が「倒れる」ということになる。
昨年末には、準備期間が足りなかっただけで、今はもう議員になれる人材がいるのかもしれない。
潜在的には、新しい政党が準備されているのかもしれない。
サヨナラ本塁打とは、次の政権のことである。
とても心配である。

2015年8月26日水曜日

世界的な株価の下落について。

世界的な株価の下落について。

ここ2か月ほど、世界的な株価の下落が、続いている。
ギリシアの債務危機もあり、中国の市場が不安定になったこともあった。
ユーロ圏では、賢明な対策の手が打たれた。
しかし、世界的な市場の混乱は、すぐには収まりそうにない。

本当の原因はどこにあるのか。
どのようにして、この下落を、止めたらいいのか。

政治は、長い歴史の間に、経験によって、法則を得てきた。
経済もまた、長い歴史の間に、経験によって、商法という法則を得てきたのである。

この法則に違反すると、市場経済が混乱する。

つまり、現在の、世界的市場の混乱は、「商法に関する違反」が、原因だと思われるのである。
この違反を取り去り、厳しく対処すれば、市場経済の秩序が取り戻せるとみてよいと思う。

では、商法に完全に違反しているのは、どこの取引なのだろうか。

私は思う。
中国である。

中国は、株式市場に、政府当局が、介入している。
政府の、市場への介入は、商法の違反である。
これを厳しく取り締まれば、この株価の混乱は、収まると、私は思う。

2015年8月24日月曜日

東京オリンピックのエンブレムのこと。

東京オリンピックのエンブレムのこと。

秋の気配が感じられるようになった。
変化、また変化の時代である。
人々の気持ちは、先行きへの不安が増しているように思う。
そんなときに、希望の光として、それは一筋の光というより、
大きな松明として、輝くのが、2020年の東京オリンピックである。
すでに、新国立競技場は、計画の見直しにはいった。
スポーツのための、本当に高度な競技場へと、計画が進んでいるようで、
頼もしいかぎりである。
本当にうれしい。

しかし、次に話題となってしまったのが、
オリンピックのエンブレムの問題である。
いわゆる、盗作疑惑、というものが浮上してしまった。

この盗作疑惑のニュースに触れて、たくさんの人々が、それぞれに、東京オリンピックのエンブレムを、自分なりに考えたりデザインしたり、あるいはそれを、ツイッター上で公開したりしている。
また、それらの仮エンブレムが、「これも素敵」「これもいい」と、話題になっている。

こうした状況は、たくさんの人々が、「私も、オリンピックに参加したい」と思う気持ちの表れであると、私は思う。

疑惑のほうの話題が持ち上がったときに、一番先に感じたのは、「いったい、いつ、そんなコンテストがあっただろうか?」という疑問である。

参加するには、たくさんの大きな条件があったのかもしれないが、もしかすると、有名なデザイン事務所にだけ知らされた、コンテストだったのかもしれない。

日本には今、イラストやデザインの旋風が巻き起こっている。
これは、私だけが思うことではないと思う。

私は、活字文化という方向性で、絵やイラストよりも、活字と文章を主体として表現活動をしてきた。

しかし、今は若い人も、子どもも、ちょっとしたイラストが描けない人のほうが珍しいぐらいである。
美術大学も、アニメーション専門学校も、大人気である。
一億総イラストレーター、といっても過言ではないかもしれない。

こうした状況を踏まえて、「私もオリンピックに参加したい」という気持ちを汲んで、もう一度、エンブレムのコンテストを、やりなおしてはもらえないのだろうか。

くだんの疑惑の件は、判別にまだまだ時間がかかりそうである。
こうなったら、氏のことはまた別の問題として決着をつけることとして、東京オリンピックのエンブレムのほうは、早く決めたほうが良いと思う。

そこで、エンブレムデザインの再募集をしてほしい、と思う。

新国立競技場だって、計画を白紙からやりなおしているではないか。
よりよい、より主体的に参加できる、オリンピックのために、ぜひともお願いしたい、と思う。


それから、楽しみなのは、大会キャラクターである。
オリンピックまであと5年をきっている状況である。
キャラクター商品となると、市場価値も大きい。

おりしも、日本では「ゆるキャラ」ブームである。
市町村や企業が、オリジナルの「ゆるキャラ」を作っている。
「ゆるキャラグランプリ」も開催されていて、私も投票して、グランプリがどの子になるか、楽しみにしている。

日本を代表するキャラクターを、選んでほしい。
そして、できるだけ早く決めてほしいものである。

日本全国のイラストレーター、デザイナーが、「うずうず」している状況である。
かわいらしく、愛されるマスコット、キャラクターのコンテストも、大規模に開催してほしい。

スポーツだけではなく、みんなが実際に参加できるオリンピックに、楽しみを広げていきたいものだ、と思う。


2015年8月8日土曜日

安全保障法案の参議院審議について。

安全保障法案の参議院審議について。

今日の日本は、明治維新の時代の様相である。
国際貢献をするか、しないか。
これは、世界に開かれた日本国になるか、それとも、世界に目を閉ざしたままの日本で居続けるか、という選択である。
つまり、現在の日本は、開国派と鎖国派に分かれて、戦っているような状況なのだ、と私は思う。
どちらが正しいのか。
勝ったほうが、正しかったことになるだろう。
歴史が証明する、というが、勝てば官軍、というわけである。

日本が国際貢献のために安全保障法制を可決すれば、いずれ長い将来にわたって、日本は世界に開かれた国となる。
そうすると、開国派が、「正しかった」という結論になる。
歴史が証明する、というは、こういうことなのかと、改めて思う。

今の日本は、国内で内乱が起こっているような状況である。
社会不安も内乱の影響であるといえるだろう。

ところで、あなたは、鎖国派、開国派、どちらだろう?
私は、開国派である。

明治維新の時代では、開国への時代の流れ、世界情勢の流れには、誰も逆らえなかった。

今、インターネットの普及というツールを介して、世界のグローバル化が進んでいる。
この時流を止められる人は、誰もいないだろうと思う。
いずれ、10年先か20年先かわからないけれども、開国の流れが実現していくことになるだろう。
そうした意味で、現在にどのような批判をされても、私は開国派なのである。

武力を使った国際平和の維持、国際貢献、という意義を、特に女性たちが理解しないようである。
非常にむずかしい理論だからである。
複雑である、ということだろうか。
また、男性の発想である、ということもあるかもしれない。
「あなたの息子さんも、世の中には悪い人がいることをいずれ知って、お母さんあなたを守るために、命を投げ出して戦いたいと思うようになるんですよ」と、伝えたい。
実際に現在でも、息子さんたちは、女性であるお母さんたちを、陰に日向に、守っているのである。
守ってもらっている「お母さん」たち、女性たちが、そのことに気づかないだけなのである。

戦後70年、「平和」と一言ですべてが語られてきた日本社会においては、「世の中には悪い人がいる」「国際貢献をするべきである」という正当な考えが、通じない。
もう、頭が固くなって硬直してしまっているのだろう。
それに、自分が正しいと信じ込んでしまっているのだから、人権侵害も考慮に入れないで、激しい攻撃をする。
本当に平和を願う人が、人権侵害まがいの活動をするだろうか?
人の心を傷つけ、命をねらうようなことを、するだろうか。
それが本当に平和を願う心なのだろうか。
私は、疑問である。

特に女性たちは、もともと「私は政治には興味がありません」と公言していた人たちが多い。
なかば「いばっている」かのように「政治には興味がない」と言っていたのである。
投票にも行かなかったのだろう。
政治に興味もなく、理解の程度も浅く、感情的になって、「わが子が」「わが子が」と連呼している。
こうした女性たちを、理屈で納得させようとすることは、骨折り損のくたびれ儲けになってしまうので、もうやめたほうがよいのかもしれない。
「わかる人たちだけで決める」のも、リーダーシップである。
多数決がすべてではない。

すでに、参議院の審議に入っている。
60日ルールもあることだし、9月には、国会の、政治のトップの人たちの、国際貢献の気持ちと、積極的な平和建設の気持ちが強い人たちで、安保法案を可決することが、可能であるように思う。
そのようにして、明治時代にも、国の方向性は決定されてきた。
今回の、歴史の選択にも、そうした手法でよいのではないか、と私は思う。

しかしここで、気になることがひとつある。
反戦原理主義の人々の、戦略である。

共産党を主体としたデモが各地で行われている。
この共産党の反戦原理主義活動は、創価学会の切り崩し、という戦略に向かっているようだ。
創価学会は宗教団体であるが、いわずとしれたことだが、公明党の支持母体である。
この、創価学会の会員が、自発的行動で、共産党や民間の主催するデモ行進に、参加しているようだ。
それも、創価学会員であることを、公表したうえでこうした行動に出ているようである。

創価学会は内部規律のとても厳しいところである。
特に、宗教はどこもそうであるが「裏切り行為」というものを、固く禁じている。
私も、友達の創価学会員から聞いたが、裏切り行為は、「地獄落ち」ということなのだそうである。
その「地獄落ち」の行為を、公然と行っているのだから、これは、内部規律が働かなくなってきた、とみるのが、判断できるところである。


創価学会といえば、公明党の組織票、大票田として有名な活動団体である。
こうしたところで、内部規律がきかなくなり、個人が行動を起こし、インターネットで裏組織を作って、「反戦平和」のために、融通の利かない行動を起こし始めたとすると、公明党にとっては、大変な危機的状況となる。

すでに、来年の参議院選挙では公明党には投票しない、選挙運動にも協力しない、と公言する人がいたり、雑誌やサイトのインタビューに答えたりする会員がいる状況である。
公明党に対して、請願書を送ったりしている。
署名運動も始まっているようである。

こうした状況を、公明党はどうとらえているのだろうか。
公明党が、選挙のことを恐れて、創価学会の会員の運動のために、連立を離脱することがあったら、どうなるだろうか。
反戦運動をしている創価学会員は、公明党に、連立離脱を要求しているようである。

もし今、公明党が連立を離脱すると、参議院で議決ができなくなる。
採決を行っても、過半数をとることができない。

60日ルールで衆議院に送られても、採決を行うときに、公明党の議席がなくては、規定の三分の二に達しない。

このとき、もしも維新の党が、公明党の代わりに連立を組むとか、あるいは採決の際にだけ自民党に協力するとしたら、それで、規定の数には達する計算になる。

しかし、今から9月の採決に、間に合うだろうか。

共産党や反戦活動家の戦略には、「勝ち目」が、あるのである。
創価学会員の短絡的平和主義者の切り崩し、ここが、ねらい目であり、この作戦がうまくいくと、共産党と反戦活動家が、安保法案を、台無しにすることも、可能なのである。

公明党としては、意思を固く持って、連立離脱をしないで審議、採決するように、と思うものである。

沖縄地域で、共産党、民主党、反戦活動家、創価学会員の「まとまり」があるようである。
リーダー格も存在するように思われる。
また、共産党、公明党、沖縄県という地域性から、誰もが見て取るように、低所得者層の不満が、反戦運動のエネルギーになっているようである。

この時代を、新しい世界の平和の方向へ、乗り越えていきたい。
たくさんの人々の、時代を切り拓く思いと行動で、世界へと開かれた国づくりを、していきたいものである。


2015年8月3日月曜日

安保法案と、新しい国造り。

安保法案と、新しい国造り。
安全保障法案が、衆議院を通過した。
先週からは、参議院での審議が始まっている。
国民世論が、大きく揺れている。
政治問題としては、「盛り上がっている」という見方もできるだろう。
安全保障法案に対して、賛成意見も反対意見も、これだけたくさんの考えと意見が出てくることは、民主主義国家として、とても頼もしいことだ、と私は思う。

ところで、安倍総理大臣は、安保法案が可決されたら、すぐにでも戦争を始める気持ちでいるのだろうか?
このあたりで、国民の疑心暗鬼は深まるばかりである。
何しろ、秘密情報保護法案もあるし、政治家というのは、昔から、選挙のときだけの口約束、と相場が決まっている。
本当に、信じて大丈夫なのだろうか?

私は、こういうときに、安倍総理大臣という人の、人柄や性格を、じっくりと考えてみる。
人々は、「政治家」というだけで、腐敗や汚職の色眼鏡で見てしまう傾向があるように思う。
けれども、私は、日本の政治家は、高潔で理想肌であるように思う。

特に、震災後の日本の政治家は、若手も含めて、理想と情熱に燃えているように思う。
そして、安倍総理大臣という政治家は、やはりとても、理想の高い政治家であるように、私は思う。

たとえば、安倍総理大臣は、山口県の出身であるが、山口県には、高名な吉田松陰がいる。
安倍総理大臣の演説には、この吉田松陰の名前が、何回も出ている。
「松陰のように、やろうではないか」という呼びかけもある。

現代の日本は、時代が変化変化のときである。
それはあたかも、明治維新の変化の時代と、重なるものかもしれない。
そして、安倍総理大臣は、現代の吉田松陰となるべく、理想を掲げて政治を行っているのではないか、と思うのである。

吉田松陰は、国内にあっては、改革、革新を進めた。
そして、国外にあっては、「強い日本」を造ろうとしていた。
明治維新の時代は、長い間の鎖国がほどけて、黒船が来航していた時代である。
「外にあっては」「国際的には」という点は、とても大切な視点だったのだろうと思う。

安倍総理大臣は、外務大臣を歴任している。
御父上の安倍晋太郎氏も、外務大臣であった。
若いころから、外務の仕事として、海外へ何か国も渡航して、仕事をしている。
それで、外務大臣的なものの観方が身に付き、時には海外で悔しい思いも情けない思いも体験して、「日本はもっと国際的にならなければならない」「日本は、海外の欧米諸国とも肩を並べられるくらいにならなくてはならない」と強く思っていたのではないか、と私は考える。

それで、今回の安保法案も、世界情勢のなかで、すぐにでも戦争の後方支援に乗り出したい気持ちもあるかもしれないが、どちらかというと、「新しい国造り」という意味合いが、とても強いのではないか、と思うのである。

憲法改正に関しても、国の枠組みを、基礎から変える、ということである。

私自身は、憲法改正には、賛成である。
戦後70年もたって、憲法は、時代にそぐわないほど、古くなってしまった感がある。
しかし、憲法9条を変えるべきかどうか、というと、はてなマークがついてしまう。
それでも、憲法改正の問題に、取り組むことはとても大切で必要なことであると、私は思う。

2011年に中東で、チュニジアやエジプトの市民革命が起こった。
インターネットの普及とともに、たくさんの市民が集まって、腐敗した政治にNOを突きつけ、デモを起こすことが、世界中で行われるようになった。
しかし、ただの怒りをもとにしたデモは、政治と社会秩序を破壊するだけで、建設的な新政府の樹立にはつながらない。
もしも、政治に不満があるのなら、民主的な手続きを踏んで行うべきであると、私は思う。

そうした点から、新しい国造りを、憲法の改正、という民主的で合法的な手段で行うことを、これまでも提案してきた。

憲法の改正は、新しい国造りそのものである。

安倍総理大臣は、来年には憲法改正を行いたいそうである。
それは、安倍総理大臣の思い描く理想であるところの、「外にあっては強い国造り」という目標の達成への道筋である。
これは、合法的で民主的な道筋である、と言えるだろう。

ところで、私たち国民は、この安倍総理大臣の理想とする「強い日本の国造り」に、賛成して協力する気持ちになるだろうか。

考えてみると、総理大臣は政治の長ではあるが、王様でも神様でもない。
天と地を創造したのは、神様であるが、そうした権限を持っているかどうかは、首を傾げてしまうところである。

「もし私が王様だったら?」と考えてみたことはあるだろうか。
もし、あなたが王様だったら、どんな国造りをしたいだろうか。

私だったら、北欧型の、高福祉社会にしたい、と思う。
実は、ずっと以前からこうしたことは考えて来ていて、それで、高負担高福祉、という意味で、消費税の増税に賛成した。
税・社会保障一体改革である。

消費税の増税は決まったが、残念ながらその後、税の使い道は、国土強靭化、武力の強い日本、という方向へと向かってしまった。
本当に残念である。

もし私だったら、高福祉社会にしたい。
お年寄りや小さな子ども、病気の人や障害のある人が、心豊かに暮らせる国を造りたい。

これは、個々人によって、理想がちがうようである。
私の友達に、こうした問いかけをしてみたら、その友達は「貧困対策をしっかりした、安心な国造りをしたい」と答えてくれた。

今年の夏は、猛暑である。
この暑さのなかで、エアコンもつけられない、エアコンのついた場所にいられない人たちがいる。
そうした人たちが、熱中症で運ばれるニュースを聞くたびに、心痛む思いがするそうである。
貧困は、とても重要な社会的な課題である。
日本中の人が、経済的に豊かに暮らせるような国造りをしたい、これが、その友達の願いだそうである。

私たちひとりひとりが、安倍総理大臣、という王様ひとりの理想に、賛成や反対をするだけでなく、国造り、ということを、考えてみてはどうだろうか。
それは、もちろん、国際的な対応法を考えることも含まれる。
グローバル化の世界にあって、どんな日本でありたいだろうか。

新国立競技場の問題も、たくさんの人が、まず興味を持ち、よく知り、自らの考えを述べることで、民主的に建設されようとしている。
これは、本当によいことだ、と私は思う。

本当に、安倍総理大臣の国造りの理想に、賛同できるか。
できないとすると、どんな日本を造っていきたいか。
いま一度、民主的に、みんなで考えていきたいものだ、と私は思う。

未来の子どもたちへ、最大のプレゼントをしていきたいものだ、と私は思う。



2015年7月17日金曜日

楽しみな新国立競技場。

楽しみな新国立競技場。

新国立競技場の建設計画が、白紙からもう一度始めることになった、という。
2020年の東京オリンピックが決まってから、着々と進む、前へ前への、都市計画。
その、メインスタジアムとなるのが、新国立競技場である。
東京に決まったのが、一昨年。
そして、オリンピックまで、あとわずか5年である。
競技場の建設も、今まさに始めなければ、もう間に合わなない、というところで、やんやの大騒ぎとなっている。
たくさんの人たちの、興味と関心が、オリンピックに向かって現実味を帯びてきた、ということで、とてもよいことだと、私も楽しくなってきた。

問題の建設計画は、その予算の高いことと、デザインとにあるように思う。
やはり、2500億円というのは、びっくりするほどのお値段である。
いったい、どうしてこんなに高くなってしまったのだろう?
この予算で、日本スポーツ振興団では、どうしても進めたいようである。

それはきっと、スポーツマンにとって、「夢の殿堂」となる、新スタジアムだからだろうと思う。

今、日本中が、戦後の節目を迎えて、建て替えラッシュである。
せっかく建て替えるならば、と、どの専門家も、最新の設備を望むものである。
たとえば、病院の建て替えの際には、医師たちが、最新の医療機器を望んで、予算が高騰することになり、あわてて、「あきらめを含めて」妥協地点で、少しお安いものにするそうである。

私たちも、自宅を建て替えるとしたら、最新の設備を備えたい、と思うのではないだろうか。
太陽発電や、IT設備、そして、最新のデザインである。

スポーツマンは、もしかすると口下手なのかもしれない。
走りやすいトラックと、そうでもないトラックとがあるそうである。
また、ロッカールームの設備も、カギをつけてほしい、と願っているし、シャワールームも数とプライバシーを高めてほしい、と願っている。

また、国際競技ということからも、同時通訳の設備や、世界同時放送の設備も、どうしても重要だろうと思う。
防弾ガラスのついた、VIPルームも大切になるし、選手や観客の健康管理のための、専門の保健室も必要になるだろう。
もしかすると、救急処置のできる設備も大切かもしれない。

また、観客にとっては、パウダールームの設備は、とても大切である。
限られた時間でたくさんの観客がパウダールームを利用できるように、清潔で明るい環境を整えたいものである。

まずは、スポーツマンの一番、活躍しやすい環境を整えることが、優先順位が一番ではないか、と思う。
もっともっと、スポーツマンに、発言してほしいものだ、と思う。
オリンピック選手の人たちの意見を、もっともっと取り上げてほしいものだ、と思う。
また、スポーツマンの人たちが、口をそろえて言うことは、やはりどうしても、開閉式の屋根をつけてほしい、ということである。
雨の日に、濡れないで、安心して競技に打ち込める環境を、未来の選手たちのためにも、整えてあげたい。

実用性が第一で、その次が、デザインになるのではないだろうか。
わたしたちの本音として、デザインをした人が、イラク人の女性であることは、かなり大きなネックになっているように思う。
たくさんの人たちの税金を投入して造る、日本の国の首都の真ん中にある建築物のデザインを担当した人が、外国人である、ということは、いかに国際化といっても、とうてい受け入れられるものではない、と思う。

国の象徴として、誇りをもって世界に見せられる建築物として、日本国の人がデザインしたことは、とても大切になってくるように思う。
私たちはこうした「本音」をもっと言ってもいいように思う。
もしも改めてコンペを行うならば、国際コンペではなくて、日本国内のコンペであることが望ましいように思う。
そして、日本の伝統文化を活かしたデザインが選ばれることを、期待している。

次に、工期の問題である。
2020年の東京オリンピックの前の年に、フットボールのワールドカップが、日本で行われる。
この大会にも間に合わせたい、という思いがあった。

また、オリンピックのあとには、音楽や、文化のコンサートホールとしても使いたい思いもある。
たくさんの目的をもった、競技場にした、という山盛りの要望がある。

こうしたことが、ひとつひとつ、かなえられる競技場であるためには、建設には、時間がかかりすぎる、という話である。

私は、建設に関しては、「サグラダ・ファミリア」方式をとってはどうか、と思う。
スペインの教会、サグラダ・ファミリアは、建設が始まってからすでに100年ほどたっているそうだが、完成までまだあと30年かかるそうである。

奈良の大仏・唐招提寺であれ、エジプトのピラミッドであれ、国家事業、国費を投入した大切な建物には、それ相応の時間をかけて、とりかかっているものである。

まずは、フットボールの大会のための、枠を造ってはどうだろうか。
それから、オリンピックのための、設備を整えてはどうだろうか。
それから、開閉式の屋根を整えてはどうだろうか。

また、競技場の大きさにしても、周辺地域を整える意味でも、少し小さ目にして、近くに、専門の競技場をいくつか造って、スポーツ村のようにするのも、いいと思う。

東京の都心に、日本の健康を代表する、スポーツ村を、数十年がかりで建設していくのは、とても楽しみなことである。

また、IT技術の進歩も著しいところである。
あとから、ITのための設備が出てくることもあるだろう。

ロボットくんが、建設にたずさわることもあるだろうか。

これからの、新国立競技場、とても楽しみな世論である。





2015年4月4日土曜日

NHK「まれ」第1週「魔女姫バースデーケーキ」感想。

4月に入った。
桜の花の咲く季節。
新入学や新入社、新しい人生の始まりを迎える人も多い。
新しい社会に飛び込んだ人にとっては、たいへんなことも多いかもしれない、と思う。
これから始まる季節を、どんなふうに、生きて行こう、と思うだろうか。

新生活をしっかりと組み立てていくためにも、日課は大切なことである。
そんなときに、朝ドラはうれしい。
毎朝、決まった時間に起こしてくれて、新しい笑顔を見せてくれる。

今春からは、「まれ」が始まった。
「まれ」は、ヒロインの女の子の名前であるが、同時に、このドラマのテーマもあらわしているという。
「希望」の「希」という意味である。

ご当地ドラマで楽しみなのは、「今シーズンはどこが舞台なのかしら?」ということである。
「まれ」は、北陸、石川県能登半島が舞台である。

一週目は物語の始まりである。
登場人物の名前も表示されて、人間関係もとてもわかりやすかった。
そして、北陸の素晴らしい自然が、丁寧に映し出されている。

一週目は、まだ子役、「まれ」の子ども時代である。
「まれ」と、弟、両親が、北陸に移り住んだ経緯が描かれている。

子ども時代というのは、本当に自然と共にあるものだ、と思う。
子ども時代は、田舎で生き生きと伸び伸びと成長するのが、一番よいのではないだろうか。

朝ドラで楽しみというと、どんなドラマでもそうであるが、大好きな俳優さんが着る、衣装もとても楽しみである。
今週は、ヒロインが子役、ということで、子どもらしい服装をたくさん見ることができた。
女の子は、本当に楽しい。

まれ、の初登場シーンでは、青い海辺に、ピンク色のサロペットである。
Tシャツにサロペット、という姿が、「まれ」の活発な性格を、よく表しているように思える。
小学生のうちは、活動的に動きやすく、着替えやすく、洗濯もしやすい服装が、一番よいように思う。

また、服装は、自己表現である。
女の子がこれから、大人になるにしたがって、時と場所をわきまえた自己表現の仕方を身に着けていくために、小学生の服装は、とても大切な訓練期間となりそうだ。

まだ、子どもなので、母親が選んであげている状況だろうと思う。
この時期に、服装に対する、自然な取り組み方と、基礎を教えてあげるのは、大切だと思う。

今週の「まれ」では、80年代ということであるが、かわいらしいリンゴの模様のエプロン姿もあった。
また、Tシャツにもバラエティがあって、胸のところには「にわとり」、背中には、目玉焼きがプリントされたTシャツも、とてもかわいらしかったと思う。

また、赤いTシャツの、胸のアップリケが、同じ赤色でつけられているのも、とてもハイセンスだと思った。

お父さん役のアロハシャツも、花模様で楽しい。
お母さん役の、質素で快活なワンピース姿も、とてもきれいで好感が持てる。

春から、朝ドラで、学べることがたくさんある。
会話も、背景も、どれをとっても、参考になることばかりである。
春の季節を、朝ドラと一緒に、さあ、翔けだそうよ!


2015年3月28日土曜日

NHK「マッサン」第25週(最終週)「人生は冒険旅行」感想。

半年間、ずっと毎朝観てきた、朝の連続テレビ小説「マッサン」も、いよいよ最終週、最終回となった。
昨年の秋から、真冬、年末年始やお正月も越えて、ずっと「お友達」になってきた「マッサン」とも、お別れである。

最終週は、1949年から始まる。
政春は55歳である。
戦後の復興期に造った三級ウイスキーが好調で、次に造った一級ウイスキー「スーパードウカ」も、とても好調に売れている。
特に、スーパードウカは、マッサンが目指してきた、本場スコットランドにも比肩する、理想のウイスキーである。
日本で最初の本格的ウイスキー造りに、とうとう成功するのである。

そして、日本中の人々に愛されるウイスキーとなる。
「マッサン」の物語の初めには、まだまだ日本人には、ウイスキーは、なじみがなく、聞いたこともないお酒だった。
それが、政春の夢のとおり、日本にも本格的ウイスキーの時代が来るのである。

夢の実現を成し遂げた政春。
まさに、「男のサクセスストーリー」の完遂である。

広い工場。
赤い屋根とレンガ造りの敷地。
冬の北海道のロケもとても素敵である。
冬の日に、窓から雪が降る情景も、とても美しい。
ときどき、屋根から雪がおちるのがいい。

そして1971年。
政春は77歳になっている。
本場スコッチウイスキーとして認められた賞の授賞式と、回想のシーンで、完了している。

20代のときに、ウイスキー造りを学ぶために、スコットランドに渡ってから、50年の歳月が流れている。
50年といえば、人生そのものである。
一生をかけて成し遂げる夢としては、時間は少ないかもしれないし、長すぎるかもしれない。

しかし、たくさんの人々が、夢と冒険に向かって走り始めることはできても、「成し遂げる」「成功する」ということはむずかしい。
いくつもの山や谷を乗り越え、たくさんの障害を乗り越え、次々にやってくる試練に立ち向かい、ときにはくつろげる日もあり、ときには笑いもたくさんある、そうした人生を、最終的に成功に成し遂げるものは、いったいなんだろう?

私は、ドラマのテーマである「冒険心」「チャレンジ精神」とともに、もうひとつ、「忍耐強さ」があるように思った。

それは、チャレンジやときには「賭け」と呼べるほどの、豪胆さや、先行きの見えないものに突き進んでいく勇気とともに、同時に持っていなければならないものだ、と私は思う。

政春は、その忍耐強さを、ウイスキー造りそのものから、得たのではないか、と私は思う。
それは、ウイスキーの醸造は、年月のかかるものであり、有機的なものであり、自然環境や気候、植物が、関わるからである。

有機的なこれらの事象は、人間の考えや理想の、想定外のことをするようである。
手に負えない、自然と「時間」に向き合って、政春は、自分自身を鍛えてきたように思える。

最初の動機は、若者らしい情熱と夢だったかもしれない。
それは、衝動でもあったかもしれない。

しかし、ウイスキー造りには、醸造のために貯蔵しておく期間がどうしても必要であった。
この「最低5年間」で、政春はずいぶんと苦心したようである。
それは、投資家にしても、商売としても、同じであった。

気の遠くなるような作業と、先を見越した作業の積み重ね。
あとは、時間と湿度、霧や気象条件が、成功をあとおししてくれる。
これらのものを、味方につけられるかどうかは、ひとえに、人間の側の、忍耐力と柔軟性にかかっているように、私には思われる。

また、ドラマを見ていて、政春がそうであったが、ここが一番いいところ、というところで、思わぬ障害がはいるものである。
それは、家族であったり、時代背景であったりもする。

「やめる理由」は、いくらでもある。
失敗を正当化する理由も、いくらでもつけられる。
「私の成功を邪魔したものは、これこれこれらのものでした」と他人に吹聴して回ることだって、できると思う。

でも、そこをもう一歩、忍耐強く持ちこたえられるかどうか、自分自身に向き合えるかどうか、だと、私は思う。

政春も、理想のウイスキーにたどり着けるまで、葛藤と試練の連続だった。
そのときに、「最終目的をあきらめない」ために、妥協さえ必要になった。
柔軟性も身に着けた。

77歳の政春の身に着けた能力、持っている能力は、これから何かを始めても、どんなことでも成功できるほどの、能力ともいえるだろう。

だが、残念なことに、人生は一度きりしかない。
77歳の政春が、何かをこれから成功させられるとして、「足りないもの」といえば、寿命だろうか。

限られた人生、限りのある時間のなかで、成功を組み立てられるかどうか。
政春の生き方は、さまざまなことを、問いかけてくれる。
すでに、妻のエリーは、寿命を終えている。

実はようやく、ここで思うのである。
忍耐強さ、柔軟性、というのは、妻のエリーの力なのである。

政春が、自分で自分に都合をつけて、ウイスキー造りをやめようとしたときに、「あなたの夢はウイスキー造りでしょ」と励まし支えたのが、妻のエリーであった。

もしかしたら政春は、妻のエリーに「ウイスキー造りのことはもう言わないでくれ」と思ったこともあったかもしれない。

しかし、窮地のときに、本来の自分に立ち向かわせてくれて、忍耐と柔軟性を教えてくれたのは、エリーであった。

妻もひとりの生きた人間である。
特に女性というのは、自然に近い存在とも言えるかもしれない。
理屈ではどうにもならない、人間関係というもの、夫婦仲、家族というもの、こうした複雑で有機的な力が、成功の支えになったのだ、と私は思うのである。

考えてみれば、夫婦仲を長く続けることも、忍耐力のたまものである。
エリーの愛情深さこそが、その忍耐力の原動力である、と思えるのである。

夫の勇気と、妻の愛情、これらが有機的に育まれて、組み合わされて、そして、ひとりの男の、サクセスストーリーが、完遂するのである。

エリー。
政春。
そして「マッサン」。
半年間、本当にどうもありがとう。
勇気と愛を、たくさんたくさん、ありがとうございました!!