2014年6月22日日曜日

最初で最後の課題として。

いつだったか、ずいぶん前の学生喫茶で、それは文学喫茶でもあったのだが、女流作家の卵である友人と、ずいぶん長い話をしたものである。
それは、学生らしく、あるいは文学を目指す者らしく、戦争と平和、という課題であり、そして、男と女という課題でもあった。
私と彼女の合意点は、とどのつまり、戦争が起こるのは、男と女の対立に根本原因があるのではないか、というところである。
今の日本は、平和である。
地震もないし、津波もない。
あるのはただ、男と女の対立のみである。
「男らしさ」とは何か。
倦まず弛まず、戦い続けることかもしれない。
闘争的であり、勝ちあがることかもしれない。
「女らしさ」とは何か。
常に生産的であり、傷を癒し、慰めと安らぎを醸し出すことかもしれない。
では、平和とはどんな状況なのか。

私は、男は男の人らしく、持って生まれた性分を活かしきれることが、男の幸せではないか、と思ってきた。
そして、その「男の幸せ」を支えるために、闘争的であることをむしろ奨励してきた。
それはたとえば、スポーツの世界であったり、経済的な闘争であり、「好き」ライバルであったりする。
そうしたなかで、勝つことが、男の幸せなのではないかと思ってきた。
どうせ仕事をするなら、成功したいと思うのが自然ではないか、素直で率直な気持ちではないか、と思う。
仕事をするにも関わらず、成功してもしなくてもいい、というのは、いささかひねくれていると思うのだ。

あるとき、ある国の大統領が戦争を始めた。
私と、その友人は、その大統領の妻や娘たちの行動が報道されていたこともあって、おそらくその大統領は、家のなかで、「男らしさ」が示せないのだろう、という話になった。
妻や娘が、この夫であり父親である大統領を、男らしいと認めないのかもしれない。
それで、この大統領は、ちょっと戦争でもして、それで男らしさを認められたいと思ったのではないか。
家のなかで、夫が父親が男らしいと認められているかどうか、ということは、一国が戦争を始めるかどうか、という大きな問題にリンクしていくものなんじゃないだろうか、と話したものだ。

世の中は、平和である。
家が波に流されてしまった人の命に切迫した問題は今はない。
そのかわり、男と女の問題が、これでもか、これでもか、と私たちにせまってくる。
最近の研究のテーマでは、男性と女性のちがいが、分かれてきている。
以前は、医学の領域においても、男女のちがいを明確にすることは避けていたようだ。
今は、心理学から脳の作用、教育方法まで、男女のちがい、という点に目を向けているようである。

男性と女性は、もともと持って生まれた性質が、こんなにちがうものなのか、と思う。
男性と女性が、それぞれの性質を理解しあって、尊重しあっていけたらいい、と思う。

あの文学喫茶での、私たちのちょっとした結論はこんなところにあった、つまり、男女の仲というのが、世界が平和になるための、最終課題となる。
それは、最初で最後の課題となる。
これを乗り越えられたら、きっと本当の、男も女も幸せになれる社会を、造ることができる。