2016年11月21日月曜日

フィギュアスケート2016のシーズンです!


今年も、冬がやってきた。
街に少しずつ鈴の音が聞こえるようになると、フィギュアスケートのシーズンになる。
今年も、羽生結弦選手の活躍が、楽しみである。
11月25日には、札幌の真駒内スケートリンクで、NHK杯が行われる。

早いもので、あれからもう、一年たっている。

羽生選手は、私もカナダの試合のときは見させてもらったけれども、オフシーズンの間に、しっかりと体を鍛えて、ますますしなやかで強靭になって、リンクに戻ってきたように思う。
きっと、誰も知らないところで、血のにじむような練習をしていたのだ、と誰もが気づくくらいである。

さて、今年のショートプログラムは、プリンスの「Let’s Go Crazy」である。
昨年の、ショパンから打って変わって、イメージチェンジをはかろう、という魂胆であろうか。
しかし、バックハンドで裏打ちする、このソウルなナンバーは、羽生選手には、「パリの散歩道」くらいの、荒々しい調子で、演技できるだろう、と思う。
まだまだ、ショパンのころの、「気品」というものが、見え隠れしてしまうのだが、ここはどうぞ、ありのままに、クレイジーになってくれるものだ、と思わされて、とても楽しみである。

フリープログラムは、久石譲の「Hope&Legacy」ということになった。
世界に見せつけるには、まったく久石氏以外に、音楽担当は見当たらない。
素晴らしいプログラムだと思う。

久石譲氏は、かのスタジオジブリの音楽を、ずっと担当していて、みんなが、世界中のみんなが、耳なじみのいい、きれいなピアノの音楽を奏でてくれる。
今回の音の印象は、「天空の城・ラピュタ」の、空を飛ぶイメージかな、と思う。
久石氏の音楽は、短調を使っているところにとても特徴がある、と思う。
短調というと、日本音階というか、アジア的な音階で、センチメンタルな、悲しい印象になる。

そう、私は思うのだが、久石氏の音楽には、「悲しみ」が、一面に奏でられている、と思うのである。

しかし、「ホープ&レガシー」という題名である。
この、「希望と伝説」は、何を意味するのだろうか。

羽生結弦選手に、久石氏から贈る音楽、という意味では、羽生結弦選手が背負っているたくさんの「応援」を意味しているのではないか、と思われる。
それは、東日本大震災の、悲しみと、そこから復興する、できる、という「希望」である。
東日本大震災は、歴史に残る、悲しい伝説となった。
でも、本当にそれを伝説にするのは、私たち人間の力ではないか、と思う。
復興ができて初めて、それは、「伝説」となるのかもしれない。

「ホープ&レガシー」について、私は、私なりのもうひとつの「思い」を描いてみている。
それは、昨年のシーズンで、羽生選手が、300点越えの素晴らしい成果を記したことである。
これは、まったく本当に「伝説」「レガシー」である、と誰もが思っている。

そこにあった、「ホープ」とは、何だったのか。
久石氏も、羽生選手の周りの人たちも、私たち応援する人々も、皆が心をひとつにして思っている。

そう、昨シーズンは、世界中にテロや紛争が広がって、皆が絶望のどん底に沈んでいたときだった。
もう、地球人類の歴史は終わってしまうのではないか、世界戦争が始まるのではないか、未来なんかないのではないか、と思われたときだった。

そのときに、二十歳の声をあげようとする、すらりとした若者が、本当に素晴らしい、努力の結果、皆の平和への思いの結晶として、あのような素晴らしい演技をしてくれた。
私たちは、夜は、テロが怖いから、家に入って、テレビを見るしかなかった。
そのときに、明るい氷の白色と、輝きと、歓声と音楽と、ステップとジャンプを、くれた。

それが私たちの希望となった。

私は思う、「ホープ&レガシー」は、昨シーズンの、羽生選手への、「ありがとう」の気持ちであると。
あれから一年たって、春が来て、夏が過ぎて、秋そして、冬となった。
こうして、一年を生きてこられたのが、奇跡のようである。

あのとき、テロが起こるかもしれない怖い夜に、テレビの画面が輝いていた。
輝きのなかにいた、羽生選手、これが、「ホープ&レガシー」なのではないか、と私は思う。

今シーズンも、応援しています。



2016年11月20日日曜日

アメリカ大統領選挙とTPP発効について。-9月からきょうまで。


こんにちは。
朝倉聡子です。
ご無沙汰しております。
2016年も、残すところあと一か月となりました。
今年は本当に、いろいろなことがありましたね。

私は、特に今年一年で思い出に残っているのは、
4月から9月まで半年間、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の感想を書いたことです。
10月1日に、そうです、忘れもしないこの日に、「とと姉ちゃん」の連載終了となり、その後は、ときおりツイッターなどを入れながらも、休養しているわけです。

今年の夏は、アメリカからの「楽しい侵略」などもあり、大変な日々でした。
その間に、ドラマ感想の連載をしていたのだから、我ながら、タフな日々を生きていたものだ、と思います。

でも、さすがに、大変でした。
9月以降は、私の「権力」というものを、これをとても危険なものである、と考えて、どこに置いておくのが一番、安全で皆さまのためになるか、ということを思って、ともかくは、日本政府と、私の主人に委ねることにしました。

「権力」というのは、お金と似たようなもので、たくさんありすぎると、使いようによっては、毒にも薬にもなるものなのだ、と思い知らされた気持ちがします。

私が休養に入ってからも、政治も世界情勢も続いていました。
私は、主人に政治活動のすべてを委ねて、じっくり休養していました。
今も、休養中です。

そしてその間に、政治と世界情勢はどんどん動いていきました。

私も参加したのですが、アメリカ大統領選挙がありました。
10月には、テレビ討論会があり、その後、11月8日に、アメリカ全土で投票が行われました。

私も主人も、そして、世界中の民主的な人々は、アメリカ民主党のヒラリー・クリントン氏を応援していたように思います。
私も、テレビ討論会では、一生懸命に、ヒラリー氏を応援しました。

しかし結果は、トランプ氏の勝ちとなりました。
その日から、世界情勢は大きく「愕然と」動き始めたように思います。

ただ、私が思うのは、アメリカ大統領選挙は、アメリカ国民の選択であり、あくまでアメリカという独立した国の選択である、ということです。

ですから、アメリカという国が、国民が、トランプ氏に次の政権を任せた、という選択は、尊重するべきであると思うのです。
そして、日本政府としては、アメリカがどんな選択をしたとしても、その政権と国際交渉をしていくべきである、と思います。

政治的な判断としては、民主党ヒラリー氏になったとしても、共和党トランプ氏になったとしても、「次のアメリカ政権には、日米同盟においても、TPPにおいても、協力的にありたい」ということが、大事だったのではないか、と思います。

トランプ氏は、大々的な実業家です。
その経済政策においては、実業家としての手腕が期待できる、と思います。
しかし、政治や国際関係においては、素人同然といっても過言ではないかもしれないです。
そうした状況において、日本政府が、これまでの政治経験を活かして、アメリカという国に、さまざまなアドバイスをしている、としても、なんの不思議もないと思います。

そして、9月以降は、日本政府は、皆さんもご存知の政治家が、トップに立っています。
この政治家は、経済が得意分野です。
もしも、この政治家の得意分野が経済ではなかったとしても、日本にとっても、世界中の国々にとっても、今、一番のテーマとなっているのが、経済であることに、誰も異存はないと思います。

また、私と、以前の首相、そして、アメリカのこれまでの大統領が持ってきた「権力」というのは、日本国という一国にとどまるものではなく、世界的な規模の「権力」でした。

NHKで好評放送中のテレビドラマ、大河ドラマに「真田丸」があります。
日本が全国統一されて、その後、江戸時代に入るまでの様子が、克明に描かれています。

世界情勢に例えれば、「戦国時代」はもう終わりました。
「関ケ原の合戦」も、もう終わりました。

次に必要な政治的な手立ては、「徳川治世の確立」なのではないか、と私も、日本政府も考えています。

模範があるので引き合いに出してもいいと思うのですが、EU、ヨーロッパ共同体というのは、もともと、ヨーロッパのベネルクス三国が中心となって、経済においての共同体を作ったところが始まりでした。
その後、経済だけでなく、さまざまな政治的な取り組み、人と人との交流に関しても、共同されていった、ということです。

私は、これからの世界的な共同体への道筋において、まず、経済から始める、という、日本政府の取り組み方に、賛成しています。
私自身も、それがよいのではないか、と少し意見を言わせていただいております。

そうしたことで、まず世界情勢としては、アメリカの選択が、ヒラリー氏であったとしても、トランプ氏であったとしても、TPP発効への道を、まっすぐに進んでいる、ということは、とても大事なことである、と思います。

アメリカ大統領選挙が終われば、すぐに、TPPへの道を進み始める、これが今の政府の重要な仕事であるようです。

私自身は、これからの自民党や、与党に限らず政治の分野において、若い人たちのことも考えて、今少し、休養を取らせていただきたいと思っています。

その間も、世界情勢は進んでいます。
TPPと、新たな「徳川幕府」に対する、ご理解がありましたら、とても幸いです。

ではまた、ときおり、必要に応じて、ブログ記事を書くことにいたします。




2016年10月1日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第26週(最終週)「花山、常子に礼を言う」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第26週(最終週)「花山、常子に礼を言う」感想。

大好きな「とと姉ちゃん」。
きょう、その半年間の放送が終わった。
とても楽しかった。
振り返れば、いろいろなことがあった、半年間だった。
もちろん、ドラマのなかでいろいろなことがあったのだけれど、視聴者である私たちのほうにも、本当にいろいろなことがあったものだ、と思う。

4月には、熊本で地震があった。
その地震が鳴りやまないまま5月を迎え、6月にはEUの問題、7月にはテロの問題、8月には、次々やってくる台風、と、まさに嵐のような半年間だった。
個人的にも、たくさんのことがあった。


そうしたなか、毎朝毎朝、テレビドラマは続いていく。
私は、ずっと以前から、NHKの朝ドラが好きなのだけれど、その「好き」の理由は、自分自身の生活と、ドラマのなかのヒロインの人生が、並行して進んでいくところだ、と思う。

私が前へ進めない日に、ヒロインは一歩進んでいく。
逆に、ヒロインが悩む日に、私は「がんばれ」と言ってあげられる。
毎日、毎朝のドラマ放送が、どれだけ人々の力になっているか、ということを考える。

そして、半年間をようやく「クリア」した。

「とと姉ちゃん」の大きなテーマを、ふたつ、考えてみたいと思う。

最終週なので、「まとめ」ということを、少し考えてみたわけだ。

テーマのひとつは、「あなたの暮し」という意味だと私は思う。
編集長の花山さんは、戦争を体験したあとに、「あなたの暮し」を創刊することになる。
花山さんの言っていることが、少し哲学的なので、わかりずらくて、何度も考えなおした。
家族や友達とも、一緒に考えてみた。

それは、「あの戦争は、日々の暮らしを大切にしなかったから、そうなったのだ」という言葉の意味である。
日々のささやかな暮らし、庶民の暮らしを大切にしていれば、戦争にはならなかった、というのが、花山さんの哲学だ。
どういう意味だろう?

私なりに、こう思う。

私は、日本が戦争になるかもしれないときに、それは年の暮れだったけれど、障子の張替えをしていた。
日本的な文化であり、もう都会ではあまり見かけない風景かもしれないが、新しい年を迎えるために、障子の張替えをするのである。

障子の張替えは、とても繊細な仕事である。
とても細くて、ちょっと力を入れたら折れてしまいそうな桟、つまり「枠」がある。
そこに、水で溶いた糊をつけて、障子紙つまり和紙を、丁寧に張り付けていくのである。

この細い桟と、柔らかい和紙を触りながら私は思った。
戦争が起こったら、砲弾の一発もあれば、この障子は、壊れてしまう。
丁寧に心を込めて、張り替える、この障子が、「平和」というものに例えられるかもしれない。
そして、一発の砲弾が、戦争である。

平和というものは、とても繊細で、柔らかく、折れやすいものかもしれない。
けれど、この和紙を通して、日の光は、柔らかく部屋に降り注ぐのである。

花山さんと常子が、大切に作ってきた「あなたの暮し」は、こうして平和を一日一日、積み重ねることなのではないだろうか。

そして、その日々の暮らしを大切にすることが、「庶民の旗」をけなげに降り続けることなのではないか、と思った。
半年間、ドラマを観てきて、ようやくたどり着いた「暮らし」への、私なりの答である。

ふたつめのテーマは、「とと姉ちゃん」のタイトルである。
最終回に、大好きな「お父さん」「とと」が登場して、常子をほめてくれた。
お父さんに褒められるのは、うれしいものだ。
なかなか褒めてくれないものだ。

ドラマの最初の週で、「とと」と約束した、あのシーンを思い出す。

常子は、「とと」と約束をして、三つの誓いを立てた。
「家族を守る」
「鞠子・美子を嫁に出す」
「家を建てる」

これら三つがすべて、そうだった、父親の役割だった。
「お父さん」の仕事は、この三つなのではないか、と思う。

私たち、娘さんたちは、なかなかお父さんに近づくことができない。
いつも怖い顔をして、いつも怒っている。
でもその背中がなんだか寂しそうで、声をかけると、やっぱり怒られる。

一生懸命働いている「お父さん」は、本当は、「妻と娘たちを守る」ために、戦っているのだ。
そして、「家を建てて家を修理して家を維持する」ために、戦っているのだ。

そして、いつの日か、幼かった娘たちを立派に大人に育て上げて、お嫁に出すつまり、自立した女性へと導くのだ。

私は、最終回に登場した「とと」が、果たしたくて果たせなかった夢を、思う。
それは、漠然とした「夢」ではなく、責任であり、使命である、と私は思う。

幼い娘たちには、なかなか理解できなかった「お父さん」であるけれども、いつも遠くから、近くから、妻と娘たちを導き守るために、懸命に戦っている。

その「お父さん」には、きっと、「どうしたもんじゃろのう?」という、悩みが尽きなかったのだろう、と、「とと姉ちゃん」を見ていて、そう思った。

そして、素直に、「ありがとう」と思った。

半年間のドラマで、ヒロインと一緒に、「どうしたもんじゃろのう」と、悩みながら、長い長い坂を登って、こうして最終回にたどり着いた。
たくさんの人にお世話になりながら、励まされながら、私も、半年間のドラマ感想を書き終えることができた。
毎日歌っていたあのむずかしい歌も、ようやく、そらで歌えるようになった。

菜の花が咲いていた、あの四月から、長い道のりを歩いて、ここまでこられて、よかった。

私のドラマ感想を読んでくださった皆様にも、本当に心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

また、いつかどこかで、ドラマの感想を、書き綴りたいと思います。
その日まで。
本当にありがとうございました!!!



2016年9月24日土曜日

「女性が活躍する社会」は、誰が作るのか?

「女性が活躍する社会」は、誰が作るのか?

こんにちは。朝倉聡子です。
きょう、今さっき、主人と話し合っていました。
主人は、私の「とと姉ちゃん」の感想を読んで、「とてもいいね」と言いました。
「でも君、女性が活躍する社会を作るんじゃないの?」と言いました。
それで、誤解に気付きました。

私は、蓮舫さんの、民進党代表選での演説を聞いて、本当にガッツのある、やる気のある、素晴らしい演説だと思いました。
そして、蓮舫さんが、特に子育てや高齢者の介護について、女性がのびのびと働ける社会を、と言ったので、同じ女性として、応援しよう、という気持ちになりました。

でもそれは、あくまで、後ろからバックアップする、という意味の応援です。
私が、「女性が活躍する社会」を作ろうという意味ではないです。

私が政治の仕事をしてきたのは、女性のためとか、自分のため、というわけではないです。
特に、自分の利益とか、女性だけの利益だけを追求するような政策は、言ったことがないです。
私は、広く、社会のため、男性女性に関わらず、人のため、に、政治的な意見を言ってきました。
自分の利益を主張したことは、まずないです。

私は、一生懸命がんばってきました。
女性が、この男性社会のなかで、実力を持って、成功するには、たくさんの苦労があり、工夫があり、悩んだり苦しんだりしながら、がんばるものだ、と思います。

蓮舫さんはじめ、女性の皆様が、がんばる気持ちがあるのなら、後ろからバックアップしますが、私が先頭に立って、女性たちのために、環境を作ってあげようとは思っていないです。

もともと私は、「女性だけのために」という考えは、偏狭ではないか、と思うことさえありました。
政治家なら、日本国全体のことを、男女関わりなく、考えて手を差し伸べるべきではないでしょうか。
また、政治家の仕事としては、国際関係、外交関係もあります。
そうしたことを、幅広く、政治していくことが、大事です。

私自身は、これから、朝ドラマの感想の連載が終わったら、しばらく休養する予定です。
そして、今後も、国際関係や、日本国全体の政治を見渡して考えていくつもりです。
私自身は、これまでもこれからも、特別に女性だけのため、という政治は、しないです。

女性が活躍する社会は、女性たちにやる気があってこそ、現実になるものです。
誰かに作ってもらおう、というような「甘えた」考え方では、いつまでも「ただの女の子たち」と言われちゃいますよ。

何かを実現したいと思ったら、まず自分が、先頭に立って、がんばりましょう。
ね。
ではでは。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第25週「常子、大きな家を建てる」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第25週「常子、大きな家を建てる」感想。

半年にわたる、長い物語の、幕が閉じられようとしている。
今週は、これまでの放送を振り返るようなシーンも多かった。
ヒロイン・常子も、人生の後半生を迎えている。

これまでずっと一緒だった、母・君子が亡くなった。
そのとき、常子は44歳である。

母、というのは、年齢がまだ若いころは、対立したり、反抗したりする相手である。
常子たち姉妹の場合は、父が早くに亡くなったために、母と三姉妹が結束して人生と社会に立ち向かうしかなかった。
そのためか、母親に反抗するような場面は描かれなかった。
その母と三姉妹の結束の象徴のように、常子が大きな家を建てたときには、三姉妹とそのお婿さん、そして生まれてきた子どもたちも一緒の、大家族となる。

大きなリビングに、みんなで集まって食事をとるシーンは、本当にほほえましい。
こんな大家族を作ることができること、自分と家族の「居場所」を作ることができたのは、母・君子の、家庭構成力によるものかもしれない。

あたたかい言葉、あたたかい食事、社会の荒波に出ても、帰ってくれば、そこに居場所があり、笑顔があること。
母・君子が作っていたのは、そうした、社会から逃れる避難所であり、そして、子どもが成長し、男性たちが癒される、「帰り着く場所」であったと言える。

女性が、社会に出て働くことは、とても素晴らしいことだ。
そのために、家庭構成力が落ちてしまうのは、残念なことではないか、と思う。
大事なのは、バランスであると思う。

もともと、癒しやあたたかさ、安らぎの言葉と雰囲気、というのは、女性に特有のものかもしれない。
もちろん、男性でも癒し系の性質を持っている人もいるとは思う。

でも、家庭と仕事の両立というときに、女性にとって一番むずかしいのは、「社会の顔」と、「家庭の顔」の、スイッチの切り替えではないか、と私は思う。

社会に出れば、男性と同等に戦力として仕事をしなければならない。
それは、ライバル社との競争でもあるかもしれない。
その勢いや「よろいかぶと」を付けたままで、家庭に帰ってきたときに、平穏と調和を醸し出す、家庭構成力を発揮できるか、というと、とてもむずかしい。

母・君子が常に持っていたのは、平穏な家庭の雰囲気のムードメーカーという役割である。
そのムードを醸し出す力の強さは、それぞれの女性によって、少しずつちがうものかもしれない。

君子それ自身が、家庭そのものだった、と言えるのかな、と思う。

その君子が、73歳で亡くなった。
充実の人生だったと思う。

常子は、以前から、「常子さん自身のファンもついたことだし、何か書き始めれば」と、花山から進言されていたとおり、エッセーを書き始める。
人生も後半戦になって、新しいことを始めること、新しいことに挑戦する、この姿勢は、とても見事なことだと思う。

亡くなって初めて気づく、母の人生、ひとりの女性の人生の、「幸せ」について、常子は、「小さな幸せ」という題名で、エッセーを書き始める。

誰もがそうかもしれないが、人生の後半になると、姿形が母親と似てくることもあって、自分の人生と、母の人生を、そっと重ねるようになる。
そして、今生きている自分自身は、まぎれもなく、母から教わったすべてのことから出来上がっていることに、気づくものである。

気づくのかもしれないが、素直に受け入れるのかもしれない。
時には、母親ゆずりの性質を、褒められたりうらやましがられたりするのも、この年齢なのではないか、と思う。

それも、家も建てて目標を完遂したからこそ、「お母さんのおかげです」と言えるものなのかもしれない。
成功はたくさんの感謝を生み出す。

そうして、母から受け継いだ、ひとつひとつのことを、仕事に、エッセーに伝え残していく。

常子が、エッセーを書き、そして、社内で女性に対して親切に優しくするのも、その時代にめずらしく、女性が働きやすい会社を作るのも、すべて母の気持ちに寄り添っているからなのではないか、と思う。

後輩も増え、部下も増え、責任も大きくなり、仕事はますます多忙となっていく。
そのなかで、常子は、人生そのものを考え、女性の幸せを考え、それを後世に、つまり自分がいなくなったあとにも、残す形へと、これまでよりもっと大きな「残す」という方向へと、進めていく。

高齢化社会といっても、年齢は、本当は、若いころからの積み重ねの結果かもしれない。
子どもにとって、社会は機会平等であるべきだが、その機会を、どのように生かせたかは、高齢になって、結果が出る、ということではないか、と思わされる。

君子の人生のその終わり方も、充実も、常子の人生の充実も、若いころから一生懸命、丁寧に生きてきたことの、積み重ねであり、結果である。
年齢を重ねたらもうあとは結果だけ、とか、高齢者に機会はない、とか、いうつもりもない。
ただ私は、半年間、ヒロイン常子と一緒に、悩み、考え、行動してきて、やはり、人生の後半生は、結果を受け取るときなのではないか、とも考えさせられた。

ドラマもあと一週間の放送である。
どんなふうにしめくくりを描くのか、楽しみに、大事に大事に、時を積み重ねたい、と思う。


2016年9月21日水曜日

高齢化社会を考える。

高齢化社会を考える。

これから、ますます、高齢化社会へと向かっていく。
高齢化対策は、「今、作っている政策を、自分が体験する」と思って、考えなければならないと思う。
高齢者は、他人ではない。
いつか、そうなる自分自身の姿であり、家族の姿である。
心を込めて、「わたしはこういう老後を生きたい」と思えるような、思いやりのある政策を考えたいと思う。

一昔前と比べて、自由の気風が広がって、画一化された社会の枠組みがなくなっている。
それは、いいことでもあるが、損なってしまったものも、あるのかもしれない。

人間は、家庭のなかで生まれ、家庭のなかで死んでいくものだ、と私は思っている。
その「家庭」つまり、大家族制度が崩壊してしまってから、人はさまよい始めたように思う。
子育ても、老後も、温かい家庭のなかで、というわけにいかなくなってしまった。

これからは、家庭の代わりになるものを探さなければならない。
あるいは、家庭の代わりになるものが、社会制度なのかもしれない。
ある人は、自分自身の個人の力で、子育ても老後も乗り越えようとする。
しかし、ある人は、社会の庇護なしでは、子ども時代も、老後も、豊かに生活することが、むずかしい、となる。

こうした世のなかで、すべてを自己責任とする気風は、もう終わってしまったようである。
血がつながっていてもいなくても、手を取り合い、助け合う社会が必要である、と考える人のほうが、多くなってきたように思う。

老後のライフスタイルも、個人の自由を追求すればするほど、さまざまな形に変化してきた。
個人の自由であるから、誰も干渉できない部分が多いと思う。

生き方、ライフスタイル、老後、すべてを自分で決められるようにしなければならない。

豊かな老後、というよりも、安心の老後、トラブルのない老後を、社会が、それなりに準備してあげる、というのが、母性の強い社会かもしれない。

具体的には、私はこんなことを考えてみた。
老後を「第二の人生」と呼ぶことが多い。
ということは、「第二の学校」があってもよいのではないか、ということである。

時代は次々に新しいものが発明されて、刷新されていく。
老後の生き方も、変化してきた。
そうした老後に関して、公的な、あくまで、民間ではなく、公的な機関で、平等な「老後教育」が行われたらよいのではないか、と思う。

年金や健康、医療や家事にわたるまで、老後の人生を考えるべく、学校を作ってはどうかと思う。
そして、定年退職後、半年ないし、一年の間、その学校に通って、豊かで安全な老後を、準備するのである。

「第二の学校」で、教えたいこと、教えてほしいことを、具体的に、箇条書きしてみた。
こうしたことで、豊かで安全な老後を、健康で楽しい老後を、生きていけたら、素晴らしいのではないか、と思う。


高齢者学校
健康管理の仕方。
認知症予防の仕方。
健康診断の検査値の読み方。
資産管理の仕方。
相続の仕方。
お料理、家事の仕方。
家計簿の付け方。
老前整理の仕方。
お葬式についての知識。
○趣味いろいろ試してみる。
その後、公民館教室を選んで、趣味クラブに付く。
(人は社会的な生き物なので、どこかに所属していることが大事ではないかと思う。
自分に合った趣味サークルが見つかるまで、いろいろな趣味を試してみてはどうか、と思う。ボランティアもとてもいいと思う。)

「きょういく。きょうよう」=「今日、行く」「今日、用」

インターネットの仕方。
お悩み相談。



2016年9月18日日曜日

民進党・蓮舫氏の提案について。

民進党・蓮舫氏の提案について。

先日15日、民進党の代表選が行われた。
新代表は、圧倒的多数で、女性の蓮舫さんとなった。
蓮舫さんの、代表選に向けての演説を聞いて、これからの民進党の向かう方向を、知らされたように思う。
特に「女性」「子ども」が、クローズアップされていた。
これに関して、思うところを少し、書いてみようと思う。

女性と子ども、特にとても小さい乳児をめぐる問題を、考えてみた。
具体的な法案もいろいろある。
女性からの申し出も、訴えもいろいろある。
これに関して、私は、主人と一緒に、よく話し合ってみた。

ひとつは、「子どもはだれのものか」という問題である。

子どもは、大人が、自分たちの人生の選択として、子どものある人生を選んだ、と思える。
そして、自分が産んだ子どもは、自分が責任をもって育てるべき、という根強い「思い」があると思う。

昔は、大家族制度があって、子どもたちは、その大家族の中で、村のなかで、たくさんの人たちに見守られながら育てられてきた。
そうした昔の村社会が壊れた現代において、子どもを誰が育てるのか、という課題は、「やはり親が責任をもって」とも思うところでもある。

財産も介護も、子どもが親の面倒を見る、というのが基本であるから、もしも、子どもとその母親に援助をしたとしても、社会としては、「結局は自分の子どもなんじゃないの」ということになる。

私たちは、これらの「子育てが大変であるという原因について」を追求したり、あるいは、「本来誰が子育てに責任を持つべきか」という「べき論」を、いったん取り下げてみることにした。

それくらい、女性、特に働く女性の、子育てをめぐる訴えは大きく、社会の声となって、鳴り響くようになったからである。

私は、「子どもは親が全責任を持って育てるもの」「子どもは、親のもの」というひとつの価値観を、打ち払うことが必要ではないかと思う。

そして、女性たちが懸命に訴えているように、「子どもは社会のもの」「子どもはみんなで見守って育てるもの」というように、社会の価値観を、変化させていくことが、ポイントになってくるのではないか、と思う。
「子どもは社会みんなで育てるもの」という、世論を形成するのである。

この世論が形成されたのちには、女性たちが提案する、いろいろな法案が、成立可能になってくる。
大事なのは、「子どもは社会のもの」という価値観へと、世論を変化させていくことではないか、と思う。


次に、蓮舫さんの主張に関して、具体的な法案を考えてみる。

1、働くお母さんに対して、奨学金制度を作る。

育児期のたくさんの問題に関しては、「お金があれば解決する」問題は少なくない。
地方にいる実家の両親に出てきてもらうにも、ベビーシッターを雇うにも、お金の問題は急務である。
これを、女性が、社会で働いて、出世したときに、支払うようにするのである。

2、育児の現場をもう一度調べる。
赤ちゃん用品の現状を今一度、調べてみる必要があると思う。
子ども、教育に関しては、予算を惜しまない親が増えているなかで、育児用品、ミルクや紙おむつなどは、次々に新製品が発売されている。
今と昔では子育ての方法も、道具も、変わってきた。
育児の現場で、若いお母さんたちが、次々に発売される赤ちゃん用品に混乱させられていないか、今一度よく調べてみる必要があると思う。

3、NGOの支援。

働くお母さんや、ひとり親家庭に関して、あちこちにNGOができている。
それらの活動は、それぞれが孤立していることが多いように思う。
つまり、少人数の活動にとどまっている、ということである。
これらのNGOを支援し、大きな活動の輪へと広げて、活動を大きくできるように、支援することができるのではないか、と思う。


NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第24週「常子、小さな幸せを大事にする」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第24週「常子、小さな幸せを大事にする」感想。

秋風が吹き始める。
秋の稔りがある。
朝ドラでも、数々の稔りがある。
ひとつひとつ、人生の「名言」が生まれてくるのは、秋の季節なのかも、と思う。

「あなたの暮し」の商品試験に、「もの言い」がついて、新聞社の主催で、公開試験が行われた。
メーカーの人たちも集まって、洗濯機について、どんな試験をしているか、公開する。

視聴者の人々がみんなそうであったように、ひとつひとつの電化製品について、こんなふうに試験が行われていたことは、とても興味深い話だった。
常子の、永遠のライバルともいえる、赤羽根とも、直接対決となる。
アカバネの製品に、決定的な欠陥があったことは、もちろん、この勝負のポイントとなった。
しかし私は、赤羽根さんと、常子の、討論が、一番大事な、常子と「あなたの暮し」の、生き方ともいえる、「幸福観」対決だった、と思う。

赤羽根さんは、つらい戦争の体験から来た、自分自身の幸福観を持ち出す。
「お金持ちになること」「モノで豊かになること」これこそが、人々が求める幸福だ、というわけである。
確かに、戦中戦後を生活してきた人にとっては、経験からくる、必要性であるだろうと思う。
それはそれで、確かに、現実味のある、説得される理論である。

対して、常子は、「私たちは、小さな幸せを大事にしたい」と言う。
「小さな幸せ」の例として、読者からのアンケートカードの話をする。
「新しい冷蔵庫が家に来たときに、夏に冷たいジュースが飲めるのを、楽しみしていました」という話である。

夏に冷たいジュース。
私もこの夏は、我が家の冷蔵庫に、冷たいグレープフルーツジュースを冷やしておいて、暑くてたまらなくなったとき、物書きの合間に、キッチンに立っては、ガラスのコップに、冷たいジュースを注いだものである。
確かに、とても幸せで、でもそれは、とてもささやかで小さな幸せだ、とも思う。

この「小さな幸せ」を、日々、積み重ねていけたら、それだけで充分幸せな人生を送っていける、とキッパリ言い切ることもできそうだ。

私は、独身時代の「将来の夢」というと、こんなふうに、ささやかで小さな幸せの光景を、求めていた。
結婚して、小さな台所を持って、スープを何時間もコトコト煮ながら、台所の隅のテーブルで、小さな手帳に、ささやかな詩を書く。
そんな時間を大切にしたい、というのが、夢だった。

その「ささやかな幸せの時間」のために、どれだけの条件が必要か、考えてみた。
この光景を思い浮かべるとき、キッチンの窓の外には、砲弾が落ちていてはいけない。
スープに入れる、玉ねぎもニンジンも、農薬が不必要に使われていない、安心安全な食材でなくてはいけない。

スープを煮る鍋は、金属が溶け出すようではいけないし、スープを置いたストーブは、火災に対して安全対策をとっていなければならない。

部屋の中は、暑くなく、寒くなく。
清潔な衣服を着ていて、テーブルの上は清潔に整理整頓されていなければならない。

そして、できあがった、おいしいスープを一緒にいただくために、誠実でたくましい夫がいなければならないし、素直で聞き分けのよい子どもが、ふたりはいなければならない。
そして、夫と子どもたちが、私の作ったスープを「おいしい」と言って、食べてくれなければならない。

小さな、ささやかな光景であるけれども、その小さな絵を作り上げるためには、たくさんのたくさんの、条件が必要なのだ、と思った。


私が、政治や経済に関して、関心を持って、そこに参加しようと思ったのは、こんなささやかな小さな絵を完成のために、少しでもがんばりたい、と思ったからである。

家の中の整理整頓くらいは、個人の努力でできることかもしれない。
けれども、安全なストーブ、安全な野菜、安定した平穏な社会、というのは、決して個人的な努力だけでは、完成できないものだ。
政治、という社会活動が、必要なのである。

「小さな幸せ」の光景には、平穏で安全な社会のなかの、小さな家、というたくさんの条件が必要なのだ。

私はそうした意味で、女性が、小さな幸せのために、家庭と、愛する家族のために、社会参加を積極的に行ってほしいものだ、と思う。

というわけで、常子の人生のテーマ、「あなたの暮し」のテーマが、ここで、描かれた、一週間だった。
小さな幸せを大事に大事に積み重ねていく、その一助になれば、という「あなたの暮し」が、たくさんの読者から支持されたのは、常子の「小さな幸せ」が共鳴を生んだ、ということだと思う。

常子にとっても、私たち視聴者にとっても、とても大切な一週間だった、と思う。
大事なことに気付かせてくれてありがとう。

物語もラストスパートである。
大切に見守っていきたいと思う。



2016年9月14日水曜日

第二次アジア危機のこと。

第二次アジア危機のこと。
先日9月11日の「真田丸」観ました。
その前の週も、観ました。
その前の週、というと、9月4日の放送ですが、
その回のときに、「これは何か起こっているのでは?」と、思いました。
日本政府や、メディアの皆さまの動きの真意とか、水面下の動き、というものが、はっきりとは見えてこなかったので、ただただ、物事が推移していくのを、待つしかなかったです。

7月の参院選のころから、何らかのメッセージを感じ取っていて、「誰か大物が、日本の政治の指導をしているのでは?」と、漠然と感じていました。
それが誰なのか、どんな目的をもった人物なのか、なかなかわからないまま、時が過ぎていきました。
暗中模索、といってもいい日々のなかで、その「誰か」が何者なのか、ということで、こちらのメンバーとも、さまざまな憶測をして、対応法を考えていきました。

8月に入ってからは、何か大きく物事が動き始めたのを感じ、そして、それが良いほうに向かっているのか、それとも、そうではないのか、判断が付きかねる状態で、日々が過ぎていきました。

アメリカのオバマ大統領が、日本に対して、指導をしているか、あるいはGHQのような立場、つまり占領軍という立場でものを言っているらしい、と気が付いてから、どのように対応したらいいか、いろいろ思いました。

日本は、地震も台風もあり、政治的にもとても大きな問題を抱えていて、このままではどうなるのか、と思っていたところでした。
誰か、力のあるリーダーが、日本を統治してくれるのなら、それもありがたい話だ、と本気で思いました。
その思いは、ずっと続いていました。

特に、女性の政治家、リーダーを指導しているようだ、と気づいてからは、主人も私も、国際的にもトップレベルである指導者から、女性リーダーの指導を受けられるチャンスならば、と本気で考えました。
しかし、心の底で、何かもやもやしたものがあり、漠然とした不安があって、「これは良くない話なのでは?」と感じて、なかなか決断できませんでした。

「もうあと2~3日考えてから、新しいリーダーのもとで働いてみよう」と思って、その2~3日の間に、状況がずいぶんと変わりました。

叱咤、激励、それだけならともかく、非難、中傷、挑発、といったことが続き、「こういうことを言う人なら、付いていきたくない」という気持ちに変わってきました。
また、打ちのめされていくうちに、できるかどうか、という自信がどんどんなくなっていきました。

それで、ドラマの感想だけは、続けて行きたいと思ったので、何を言われても、読んでくれる人がいるのだから、と思って、週に一度は、ドラマの感想を書くことにしました。

正直、非難・中傷が、私に何かをするように、という「脅し」であることはわかったのですが、「何を」要求されているのか、よくわかりませんでした。
主人とも話し合ったのですが、私がもし、ブログを書かなくても、オバマ大統領としては、日本の占領をしたいならすればいいし、戦争をしたいなら、すればいいではないか、と思いました。

そういうあたりで、状況はだいたいわかったものの、安倍総理大臣にしても、オバマ大統領にしても、なぜ、戦争を始めるときに、私のブログが必要なのか、それがわからなかったです。
いまだに、わかりません。

先日の「真田丸」を観て、メディアのかたがたが書いてくることは、戦略だったのだろう、と思いました。
それでも、傷ついた心、壊れた信頼関係は、そんなに簡単に取り戻せるとは思わないです。

心理戦というのは、こわいものです。
勝ったとしても、勝ったほうも負けたほうも、同じくらいの「焼け跡」が残るものではないか、と思います。
特に、心の痛み、疲れ、それから、関係性の回復に、どれだけ時間がかかるか、ということです。

「真田丸」では、兄・信幸と、弟・信繁は、「見せかけの対立」を演じたわけですが、メディアの皆様は、私たちに、そうした作戦があって、あんなに数か月も、非難・中傷をしたのでしょうか?

私はよくわからなくなりました。
とても、混乱しています。

「真田丸」に、どれだけのメッセージが含まれていたのかも、私たち、こちらでも考えましたが、どうにも、どちらにでも考えられることも多く、判断のつきずらいところがあります。
「甲斐・信濃」を領国とした、という意味のことが言われていましたが、これは、「中国・韓国」という意味なのでしょうか。

何がどのように起こったのか、詳しいことを知りたいです。
よく知ったうえで、今後の対応法を、決めていくのがよいのではないか、と思います。

今後とも、よろしくお願いします。


2016年9月10日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第23週「常子、仕事と家庭の両立に悩む」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第23週「常子、仕事と家庭の両立に悩む」感想。

秋風が吹き始めた。
鈴虫の鳴き声も爽やかな秋の日々が続く。
どんな秋にしようか、と誰もが思うところだろう。
「読書の秋」「スポーツの秋」。
静かな秋の日々が、始まっていく。

朝の連ドラでは、秋風が吹き始めると、もう物語は終盤である。
常子の仕事と、「家庭」つまりここでは恋愛であるが、このあたりも、熟するときを迎えている。
サブタイトルでは「仕事と家庭の両立」となっているが、物語のなかでは、常子と、恋人・星野は、いわゆる「家庭」を築いている状況にはないようだ。
だから、「家庭」といっても、この週のテーマとしては、「恋愛」そして、「プライベート」というあたりだろうか。

常子が、社員を家族と思って一途に仕事をしていきたい、と思うときに、プライベートで、心動かされる恋人や子どもたちが存在する、ということは、とても悩むところだろう、と思う。
私はそういうときの、花山さんの言葉が印象的だった。
「不器用な人だな、君も」という言葉である。

子どものときに、父親と約束した三か条を一途に一生懸命に、実現しようとする、それは、常子の信条だろうと思う。
真摯に人生に向き合い、悩みながら、そのときそのときで、最善の選択をする、それが、常子の芯となる、いいところなのだろうと思う。

けれども、一生懸命、真摯に生きようとすればするほど、周囲とぶつかってしまう。

今週の放送では、メディア界、出版界の事情がよく描かれていた。
週刊誌と新聞のちがいや、全国紙という影響力の大きさである。
私は、このあたりで、「影響力」というものをもう一度よく学べた、と思う。
今、メディアに関わる人々も、これから関わりたいと思う人にとっても、とても大切な言葉が、新聞記者の国実さんから、聞くことができてよかった。

それにしても、赤羽根さん、というひとつのモチーフは、常子の人生に立ちふさがるもの、信念を通そうとするときの、すべての障害の象徴であるように思う。

私は、ドラマを観ることで、赤羽根さんの気持ちや状況がよくわかった。
また、社内で、いわゆる裏切り行為というのが出るわけだが、その社員の気持ちもよくわかったと思う。
その人にはその人なりの、状況や立場や気持ちがある。
ひとりひとりの気持ちを大切にすればするほど、信念を通すのは、とても高い理想となってしまう。
ひとりの女性が、「わたしはこういうふうにしたい」と思うことを、成し遂げようとするときに、これほどの障害にぶつかるのか、と思うと、「生きる」ということは、とても厳しい現実との、闘いである、と思わされる。

ひとりの女性が、「わたしはこういうふうにしたい」と思うこと、貫き通そうとすること、それは、身近なところから、仕事の範囲まで、多岐にわたって、あることだと思う。

たとえば、ダイエットに挑戦する。
「摂取カロリーを減らす」ためには、食欲であったり、友達からの誘いであったり、あるいは、「そんなことして何になるの?」という、自分の心のささやきであったり、たくさんの障害が出現するものだ。

また、常子のように、社会に何かを訴えようとする場合もある。
現代では、「食の安全」を訴えて行動する女性たちがいる。
意見がぶつかったり、あるいは、食品を扱う企業からの、いやがらせや抵抗を、もしかしたら、受けているのかもしれない。

何か大事な仕事を成し遂げよう、完遂しよう、としているときには、必ずこうした、障害が起こってくるものだ。

女性は特に、忍耐力を身に着けることが、とても大切なのではないか、と思うのである。

そうしたことを考えながらテレビドラマを観ていると、常子の一貫した、人生に向き合う真摯な態度が、目指すべき、女性の生き方として、明確に提示されているように思うのである。

そして今週は、恋人・星野との、家族ぐるみのお付き合いがあった。
ふたりの恋は、付き合いかたにしても、離れる理由にしても、いつも誠実で、まっすぐであった、と思う。

「仕事と家庭の両立」というのは、常子にとっては、仕事に対しても誠実に向き合う、恋人に対しても、誠実に向き合う、という、一貫した態度であったと思う。

坂口健太郎さんが演じる、星野武蔵は、若いころには、「葉っぱのあんちゃん」とニックネームで呼ばれていて、生真面目で、ちょっとあわてんぼうなところが、好感がもてた。
大人になってからの、坂口さんは、子どもたち、男の子と妹を、ふたりを従えて、父性愛を感じさせる、頼もしい存在になった。

仕事を一生懸命にしたあとに、星野宅のブザーを押して、子どもたちと愛する恋人の笑顔に出会うことは、常子にとって、とてもうれしい時間だっただろうと思う。

ロマンチックなシーンがたくさんあって、抒情を感じられた。
「月がきれいですね」の意味は、「ぼくはあなたが好きだ」という意味だと、そういう話があった。
夜空の澄んだ、明るい夜に、気持ちを伝えあう、そんな胸キュンのシーンは、朝ドラならではの、美しさであったように思う。

常子の、星野さんに包まれるときの、安心感が伝わってきて、そのときの、星野の確信をもった愛情が伝わってきて、とても素敵だった。

人生を丁寧に生きようと思う、充実させて生きようと思う、でも誠実に生きれば生きるほど、選択は重みを増して、ふたりの心に迫ってくるようだ。

私は、仕事に対しても、家庭に関しても、誠実に、真摯に向き合おうと思えば思うほど、不器用に悲しみも募ってしまう、そういう常子の生き方がとても好きである。

春から続いてきた、ひとりの女性の成長物語の終盤に、秋の景色は、ふさわしいものだ。
日々、秋の色に染まっていく太陽とともに、充実した秋と人生を、実らせたいものだ、と思った。
これからも楽しみに観ています。




2016年9月4日日曜日

今の、私の気持ち。


今の、私の気持ち。
今の状況を、そのまま書き出してみる。
女性は、戦利品ではない。
アメリカの認識がその程度だとすると、「平和」への意識のあまりの低さにがっかりとするばかりである。
うちの主人は、「平和」のための仕事なら、オバマさんやメディアの皆さんと一緒に行いたいと思っている。
創価学会も一緒に、「平和」への道を、歩みたいと思っている。

それに対して、朝倉聡子は、反対である。
理由として一番大きいこと。
オバマ大統領が信用できない。
オバマさんの理想とする「平和」は、確かに大義名分としては立派であるが、たわごとである。
アメリカが有利になる「平和」、アメリカ大統領選挙で、民主党が有利になるための、「平和」、
オバマ大統領の、個人的理想を実現するための、きわめて個人的な状況での「平和」である、と思う。

朝倉聡子は、オバマ大統領の個人的理想を実現するための手助けにすぎない状態で、自立的な仕事ができない。
安倍総理大臣のときもそうであったが、誰かの個人的理想や、個人的な人生の充実のための、「お手伝い」をするのは、もう二度とごめんである。

結局のところ、アイディアを出すのは、朝倉聡子で、成果はすべて、政治家が持っていく。
朝倉は、インターネットの闇の中で、地下活動をしたままで、毎日せっせとブログを書いても、日の当たるところに呼ばれる気配がない。
やってもやっても報われない、まったく虚しい作業である。

それでも、震災のあと、日本の皆様のために、と無償でがんばってきたが、その結果が、安倍総理の暴走であり、独裁であり、戦争への突入であった。
朝倉聡子は、安倍総理大臣を、信じて裏切られたわけである。

オバマ大統領が、はかりしれない知恵と、権力を手にしたときに、戦争をしたくならないと、誰が言えるだろうか。
まったく疑わしい限りである。
アメリカは、今でも、最新の核兵器と軍隊を持っていて、いつでも稼働できる状態である。
今、どんな理想を口にしていても、知恵と権力を手にしたら、人が変わってしまうことはまちがいない。

仕事として、「平和」を目指すなら、それはそれで、わからないこともない。
しかし、私の夫のことを、どうこういうのは、なぜなのか。
女性は戦利品ではない。
もし、誠実に愛情があって、結婚したいと思うのなら、インターネット上の妻、などという、たわけたことを言わないで、ミシェル夫人と正式に別れてから、花束の一つでも持って、私の自宅を訪れるべきである。

しかし、実際には、ただ、朝倉聡子の権力が欲しいだけであって、愛情のかけらもない。
権力争いが、戦国時代とそのまま同じ、ということは、アメリカ民主主義の低劣さを表すものである。
全世界が失望するところである。

また、この一か月間、読売新聞で書き綴ってきた、低劣で俗悪な悪口、非難、中傷、これらを見ていて、たくさんの人々が、オバマ大統領という人間の本質を見た気がしたと思うが、はるかかなた遠くにいたときのアメリカ大統領とちがって、本当に俗悪で、差別的で、傲慢であった。
こんな人、こんな指導者に率いられているアメリカ国民が、かわいそうである。
今のアメリカがこうなってしまったのも、よくわかる。
そして、こういう俗悪な性格を持つオバマさんと、絶対に仕事はしたくない、と思わせるほど、がっかりした。

次に、安倍総理大臣のときにもそう思ったのであるが、安倍氏も、朝倉と朝日、読売の知恵がなければ、総理大臣が務まらないほど、頭の中身が軽かった。
今もオバマ大統領は、朝倉に知恵を求めている。
それは、オバマ大統領の頭の重さよりも、朝倉のほうが、重い、ということを、認めているからである。
朝倉にしても、そう思う。
誰が、自分より頭の悪い、勉強不足な指導者の下で、せっせと働く気持ちになるものか。
ばかの下で働くと、余計ばかになってしまうから、やりたくない。

やりたくない、というが、いったい、オバマ大統領は、何を私にやらせたいのか。
それがはっきりしない。
何をどうしてほしいのか、言葉で表すことができていない。
その状況で、何をどう脅されても、さっぱりわからない。

あなたのほうが頭が悪いのに、なぜ私があなたに謝るのですか?
わかりません。

自分の人生は、自分のものである、と私は思っています。
これまで、世のため、人のため、と一生懸命、無償で働いてきました。
その結果が、戦争です。
私は、もう仕事がいやになってしまいました。
人間はとても愚かです。
男性は特に愚かです。


結論として、一番大事なのは、オバマ氏のいう「平和」というのは、ロシア・中国との戦争を意味する、ということです。
「平和」の名のもとに、共産国と戦争をする、それが、オバマ式の「平和」理論です。

こんな、やましい「平和」理論に、誰がだまされるものですか。



2016年9月3日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第22週「常子、星野に夢を語る」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第22週「常子、星野に夢を語る」感想。

「わたし、女の人のためになる雑誌を作りたいんです!」
常子が、愛する男性・星野に、夢を語る。
これまで、母と妹たちを守るために、自分の人生を捧げてきたけれど、「自分の夢ができたんですね」と、星野もほほえんでくれる。
男性は、恋をすると、恋人に、夢を語りたがるものらしい。
それも、本当に信頼していて、けっしてその夢をばかにしたりしない、そういう愛する女性にだけ、本心からの夢を語るらしい。
あなたは、愛する男性から、夢を打ち明けられたことがありますか…?

女性も、心から打ち解けあって、信頼できて、そしてその人と将来を共に歩みたい、と思うようになると、恋人に夢を語りたくなる。
私も、いろいろな夢を彼に語った。

私の夢は、とと姉ちゃんの夢と、よく似ている。
「女の人のためになる文章を書きたい」ということである。
読んでいてホッとするような、心が温まるような、勇気と活力が湧いてくるような、明日への希望の灯がともるような、そんな文章を書きたい。
…そうした夢を、恋人に語ってきた。
そして、彼はそれを心から応援してくれたし、アドバイスもくれて、助けてくれた。
ここまで来られたのは、頼もしい恋人のおかげである。

ところで、「とと姉ちゃん」では、雑誌「あなたの暮し」が、大変なことになっている。
商品試験の結果が、売り上げに影響する、ということで、企業にとっては、目障りな存在になってきたのだ。
常子も、相手のあることであるから、悩む。
でも、星野さんのところの息子さんが、粗悪品の電気釜で、やけどをしたことを聞いて、やはり、企業には、良心的な商品を作ってほしい、と、覚悟を決める。
「脅しには屈しません」と、輝く瞳と、ぎゅっと結んだ唇が、愛らしい。

私は今、常子の気持ちが、「すごくよくわかる~!」というかんじである。

商品試験というのは、世の中で販売されている、すべての品物に対して行われるべきだ、と思う。
誰もがそう思うだろう。
いっときの売り上げのために、宣伝文句を考えることが、売り手のすることではないと思う。
購入者の人が、安心して使えるように、誠心誠意、質の高い品物を提供することが、製作・販売をてがける者の心得である。

それは、文学作品や、文章、メディアに対しても言えることではないか、と私は、思っている。
庶民のために、受け取り手のために、本当に安全で質の良い「作品」を提供してほしい、そのために、試験と評論を行うのである。

私はそのために、主に女流作家の文学に対して、厳しいながらも、本気の評論を行ってきた。

その結果が、「赤羽根」さん、というわけである。

常子、負けるな!
メディアの誇りと自覚を持って、戦え!
権力には屈するな!
臆するな!

と、声を大にして言ってあげたい。

本当に、日本の世の中は、「良いものを良い」と言えない世の中になってしまった。
そればかりか、「悪いものを悪い」と言えない、沈鬱な世の中になってしまったようである。

女性たちが、その本を読んで、人生を誤るかもしれない。
人生の選択を誤り、恋愛を誤り、子育てを誤り、お金の使い方を誤り、何が正しくて何がまちがっているのが、判断力がなくなって、自分も家族もけがをする。
大やけどを負って、その傷跡が、一生、残る。

そういう文学作品を、世の中に放っておいていいはずがない、と私は思う。
粗悪品を、活字にして売るのは、やめてほしい。
質の高い文学作品を、誇りを持って、世に広めるべきだ。

庶民は苦しんでいる。
女性たちは何を道しるべにすればよいのかわからなくなって、安くて読みやすい文学作品を手に取るかもしれないが、結果、大やけどをしているのである。

私は、常子の夢、「女の人のためになる雑誌」を、もう一度、日本の世の中に取り戻したい、と思う。
そのためには、「悪いものは悪い」と言い切る勇気、そして、権力とは戦う気概も必要である、と思う。

戦後の日本の電化製品は、「暮しの手帖」の製品試験によって、他の国よりも、飛躍的に質が高くなった。
それが、戦後の高度経済成長期を支え、今も、「メイドインジャパン」は、世界に誇れるブランドなのである。

惜しいかな、日本文学には、今のところ、「メイドインジャパン文学」と誇れるほどのレベルがない。
それは、優れた批評家がいなから、優れた批評家を潰す土壌が根強いからである。

これからの、日本文学のために、真実に「女の人のためになる」ために、私も常子と一緒に、がんばっていきたい、と思う。

2016年9月2日金曜日

子どもたちの問題について。

子どもたちの問題について。

ここ数年、子どもたちの問題が、大きくなっている。
一昔前までは、子どもたちの問題も、いじめや仲間はずれ、ケンカ、といったことも、程度が甘かったように思う。
ここ数年の、子どもたちの問題は、いじめがエスカレートし、時にはまだ年端もいかない少年が、犯罪をすることにまでなっている。

こうした問題の根本原因をつきとめ、この問題を克服することが、今、人々の心からの願いであり、訴えである。

子どもたちのいじめ、それによる自殺や犯罪は、大人社会の反映である、と言われて久しい。
私自身も大人になってから、仕事をする上で、パワハラやセクハラ、脅し、からかい、といった、「いじめ」にあってきた。
きょうも、思い通りにならないと、からかう、いじめる、という社会の「常識」に触れたばかりである。
大人の社会がこうであるのだから、これらの人間関係が、子どもたちに影響しないはずがない、と私は思う。
大人たちは、子どもたちの問題にとりかかる前に、まず自分の胸に手を当てて、自分自身が、「いじめ」やパワハラを行っていないかどうか、よく反省してみることが、必要だろうと思う。

そして、自分自身が、こうした、おどしや嫌がらせを、どうしたらしなくなるのか、自らの心を省みる時間を、落ち着いて持つべきである、と私は思う。

ところで、近年の、子どもたちのいじめや自殺について、その原因を、今一度よく、考えてみたい。
ニュース等で語られる、いじめの背景では、両親の問題や、家庭の問題を、タブー視して避けている風潮があるように思う。

今、こういったことを発言すると、フェミニストの皆さん、女性の皆さんからは、とても反発を買うであろうけれども、あえて、ここで、本当のことに触れてみたいと思う。
それは、近年、特にここ20年ほどで、離婚と共働きが増えている、ということである。
母子家庭が増えている。
共働きで、家に「お母さん」がいない家庭が増えている。

ほんのゼロ歳児のときから、保育所に子どもを預ける母親が増えている。
そして、子どもが中学生、高校生という、まだまだ親の保護が必要な年齢のときに、母親が家をあけて、パートに出るような家庭も増えている。

母子家庭の家の子どもがいじめられやすいことは、女性も知っているかもしれないが、男性のほうが、よりよく理解している。
わかりきった、事実である。

また、共働きで、子どもを幼児期から手放して保育所や幼稚園に預けっぱなしにした子どもには、情緒不安定の性質が見られることは、誰もが承知の事実である。

これらの事実に目をつぶってはいけない。
女性の社会進出と同時に、子どもたちの問題が多発するようになったのである。

私は、子どもたちの問題を以前から本当に心を痛めながら、考えてきた。
そして、子どもの幸せを根底から支えるのは、女性の幸せ、「お母さん」の幸せである、という考えに至り、女性の問題に取り組んでいる。

女性が、より賢くなり、強くなり、また社会の中で守られて、愛されて生きるようになれば、その子どもは、健やかに強く、生き抜いていくはずである、と私は確信している。

補足であるが、子どもたちの睡眠時間が、都市化、現代化によって、減っていないか、と思って心配である。
よくぐっすり眠れているだろうか。
私は、疲れ切っている子どもたちを、よく休ませてあげたい。
寝つきがよくないことは、大人たちの問題でもある。
寝つきがよいかどうか、よく親が心配してあげて、対処するべきではないだろうか。

慢性的な睡眠不足を解消するためには、数か月のあいだ、しっかり眠ることが必要である。

おいしいものを食べて、ぐっすり眠る、この生活を続けていれば、なぜか世の中が幸せで満ち足りたところに、見えてくるのだそうである。
私の友達の体験である。

よく眠り、よく食べる、こうした子どもの、基本的な生活を支えてあげるのが、母親のとても重要な役目ではないか、と私は思うのである。





2016年8月30日火曜日

今、シリコンバレーでは、何が起こっているか。

今、シリコンバレーでは、何が起こっているか。
世界情勢の混乱、秩序のおびただしい崩壊を考えて、対応するうえで、一番大事なことは、その発端と原因を洗い出すことである。

私たちは、先日、スティーブ・ジョブスの伝記を読んで、考えていた。
私たちが、とても重要に思ったのは、ジョブス氏が、「世界を変える」という意気込みで、あらゆる仕事に取り組んでいたことである。
その結果、成し遂げられたことは、コンピューターのパーソナル化と、インターネットの普及、そして、スマートフォンの普及であった。

ジョブス氏の視点から、世界情勢を見てみれば、ジョブス氏の創立した、Appleというコンピューター会社、このAppleの、以前と以後では、確かに、「世界は変わっている」。

インターネットの普及で、誰もが簡単に、ワールドワイドなコミュニケーションをとることができるようになった。
Twitter、Facebook、なども大きい。
その根本は、コンピューターのパーソナル化である。

「世界を変えよう」という意気込みを持った人が誰で、その人が、なにをしたか、このポイントがつかめれば、対応策を講じることができる。
インターネット関連の法律の国際的な整備などが、対策として挙げられると思う。
こうして、コンピューターの使用、インターネットの使用を厳格化して規制すれば、IS、イスラム国のテロが、国際的に拡散していくことを、防ぐことができるのではないか、と考える。

今、シリコンバレーでは、何が起こっているのか。
次に、「彼ら」が、どんなふうに世界を変えようとしているのか。
予測されるのは、AI、人工知能の家庭への普及ではないか、と思う。
こうしたことに、先手を打って対応することで、次なる変化、秩序の崩壊に、対処することができるのではないか、と私は思う。




2016年8月27日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第20週「常子、商品試験を始める」感想。 NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第21週「常子、子供たちの面倒をみる」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第20週「常子、商品試験を始める」感想。
NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第21週「常子、子供たちの面倒をみる」感想。

春4月から、追いかけてきた「とと姉ちゃん」も、八月、夏の終わりの放送となった。
台風がみっつも日本に向かってきている。
これも夏の風物詩で、私たちはどこか、季節を受け入れるように、台風シーズンを迎え入れている。

物語はクライマックスを迎えている。
それは、ヒロイン常子の人生のクライマックスでもある。
創刊当時には、創刊ならではの苦しみを乗り越えてきた。
そして、順風満帆の出版状況となってからは、またひとつ、またひとつ、と成長して、拡大しつづけるわけである。

いろいろな視点で、今の放送を見ることができると思うが、私が思うのは、服装である。
三姉妹とも、質素な服装で、花模様の開襟のブラウスに、フレアースカートという服装が多かった。
戦争中には、もんぺ姿である。
それが、会社を設立し、経営が安定してきて、もちろん収入も増えているであろう状況になったら、服装もとても、よくなった。
子どもたちからは「おしゃれおばちゃま」と呼ばれる状況である。

やはり女性も、収入アップのためには、勇気を出して挑戦をして、そして「家を建てる」というような大きな目標に向かってもいいんじゃないか、と私も思った。

もう、収入面で、心配はないだろう。

しかし、そうなると、別の悩みが押し寄せるものである。

人生はそういうものだ、と「ととちゃん」の人生を見ていて思う。
食べるものや生活に苦しんで悩んでいたのが、それを克服すると、今度は、人生の駒を次に進めるための問題にぶつかる。

仕事の問題であったり、恋愛や結婚の問題であったりする。

特に常子は、三姉妹と母親という、家族構成ならではの、経済面の問題で、初恋の星野さんとの結婚が叶わなかった、といういきさつがある。

しかし、今回の、星野さんとの再会は、妹たちのこと、経済的なことを、すべてクリアした状態での、再会である。

NHKの朝ドラの、「定番ポイント」というと、いくつかあるようだ。
まずは、少女期は、高いところに登ったりするのが好きな、お転婆な女の子である、ということ。
それから、仕事を持って、その「夢を叶える」ということ。
ほかにもいろいろあるが、恋愛と結婚で大事なことは、「初恋の人と結ばれるかどうか」だと思う。

「初恋」というテーマは、「おしん」のころから、あったように思う。
聞いた話によると、高齢の視聴者のかたが、ヒロインの身の上に、自分自身を重ね合わせていて、それで、戦争やあるいは、親の反対から、初恋の人と結婚できなかった、という、甘く懐かしい思い出があるから、らしい。


私もこの二週間、常子が、初恋の星野さんと再会して、お互いに状況が変化していて、変わらないところも大いにあって、そして、再婚だって考えられるかもしれない、という、この物語には、ドキドキさせられた。
そして、「もし自分だったら…?」と考えて、主人とも、軽いジョークを飛ばしながら話した。

インターネットで、初恋の人の名前を検索する、これは、大人の女性が絶対に行ってはいけないことなのだ、という。
それを、行ってみた。

初恋に限らず、学生時代の友達、何人分も思い出して、検索してみると、フェイスブックをしている男友達がいて、その人には、娘さんがいて、なんかやっぱりすごく複雑な気持ちになった。

「再会」って、どんな気持ちなんだろう?
私は、フェイスブックを丁寧に折りたたんで、もう二度と見ないことにしたが、主人は夜遅くまで、パソコンに向かっていた。

というわけで、星野さんには、奥さんがもういないわけだから、ととちゃんは、大手をふって、再会と再婚にかけることもできるわけである。

思えば、髪を丁寧に結って、タイピストをしていた、ととちゃんが、出版社の社長になっているわけである。
35歳の、大人の女性である。
35歳といえば、人生のクライマックス。
恋と仕事は、同時にやってくるものだ、と私は思う。

いわゆる「モテ期」というものが、世の中にあるとすると、恋にも恵まれ、仕事も盛り上がる、という時期が、人生には、何度かあるようである。

逆に言えば、地道に根を張り、基盤を整えるべきときもある、ということで、そういうときには、花は咲かない、そういう日々だってあるかもしれない。
ととちゃんだって、「あなたの暮し」までの道は、地道に人生の基盤を築く時期だった、といえると思う。

恋も仕事も、「ちょっと欲張り?」でも、人生は、楽しんで、苦しみのあとにまた楽しみがあって、そういう味わい深いものだ、と思う。

ととちゃんの、地道な前半生の上に続く、花開く日々を、楽しみに観ていきたい、と思う。


2016年8月20日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第19週「鞠子、平塚らいてうに会う」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第19週「鞠子、平塚らいてうに会う」感想。
8月も、お盆を過ぎて、夕方には雷雨の起こる、日本らしい夏となった。
大きな背の高いひまわりの花が、あちこちに咲いている。
NHK朝の連続テレビ小説も、盛り上がっている。
登場人物たちに、次々に大輪の花が咲いてきている。
半年間も長く、女性たちの半生をテレビドラマで見続けていると、やはり女性の人生は、前半の若い時代もいいけれども、ライフイベント、人生の山場を迎える時期があって、そして、仕事もプライベートも実を結んでいく、というのは、本当に美しい出来事だ、と思う。

ととちゃんたち、三人姉妹の、次女の鞠子が、結婚を迎えることとなった。
戦後の闇市で出会った、実直で誠実な男性・水田が、その夫となる相手である。
私は、この水田さんが、とても立派で頼もしい男性である、と思った。
不器用でちょっと弱虫、というようなキャラクターで登場したのであるが、一目ぼれの女性・鞠子に対しては、「僕とお付き合いしてください」と、きちんと言えるのである。
これこそ、男のなかの男、だと私は思う。

近年は、女性であろうと男性であろうと、積極的に恋愛に飛び込むのが一般常識となっているかもしれない。
でも、やはり、男性が意を決して、プロポーズする、というのは、本当に男らしい、まさに男らしい、一生一度の瞬間、というかんじがして、すごくかっこいいと思う。

ところが、この水田のプロポーズに対して、鞠子は「考えさせてください」と、答を先送りしてしまう。
水田は、「自分では不足なのかも?」と悩んでしまう。

女性が、結婚をしようかどうか、というときは、やはり、人生の次のステージに向けて、大きな挑戦をしようかどうか、という選択のとき、そして勇気をふりしぼるとき、だと言えると思う。

大好きで大好きで、ともかく胸に飛び込んでいくような恋愛・結婚も、あるのかもしれない。
けれども、鞠子の場合は、自分の人生、生き方を、よく吟味して、考えて考え抜いて、最良の選択をする、というタイプなのだと思う。

やはり、結婚は、大きなビジネスにとりかかる、というような、とても大きな決心がいるものではないか、と私は思う。
ひとつの家庭を築くこと、ひとりの男性の妻となること、子どもを持つこと、どれをとっても、一生の大事である。
こうした大仕事を始めるかどうか、できるのかどうか、自分に自信がなくなったり、飛び込む勇気がなかったり、するものだろう、と思う。
それだけ、この結婚に対する、重要度も期待も大きい、ということだろう。

鞠子は、作家になりたい、という目標もあって、大学は無理を言って、文学部で勉強させてもらっていた。
「それなのに、まだ作家になれない」というあたりも、鞠子の迷いだと思う。

先日、ヒロイン常子の結婚、つまり星野からのプロポーズの話のときも、私は考えてこう書いた。
ひとつの目標を持って、生きてきた女性にとっては、「挫折して結婚する」ということになりかねない、ということである。

鞠子にとっても、作家になることをやめて、出版社での仕事もやめて、専業主婦になる、ということだから、相当の挫折感があった、と思われる。
そして、書いた文章を、カリスマ編集長・花山から、「全然ダメ」と言われて、ますます落ち込んでしまう。

大好きな人からプロポーズされて、結婚も近いというのに、憂鬱で落ち込んでいるのだから、不思議なものである。

私は以前から、こうした、エンゲージブルー、というものを、考えている。
私は、エンゲージブルーというのは、アイデンティティの変容の時期なのではないか、と考えている、というわけである。

君子お母さんの家庭にいた、「娘さん」というアイデンティティを、水田さんの「妻」というアイデンティティに、変えていかなければならない。
「作家の卵」というアイデンティティを、「たまきの母」というアイデンティティに変容させていかなければならない。

そこには、挫折をともなう痛みもあるのかもしれないが、新たな人生への準備として、自分自身を整える、という意義があるのではないか、と私は思う。

「母になる」というあたりでは、マタニティブルーも、アイデンティティの変容の時期、と捉える、という意味である。

この時期に、鞠子は、すごくがんばった、と思うのだが、作家になりたいという、夢を持つきっかけとなった、師匠に会いにいくことになる。
「原始、女性は太陽であった」と書いた、平塚らいてう女史である。


出版社に勤めていたので、実際に会う機会があって、本当に幸せなことだ、と思う。
編集者として、仕事で会うことになるのだが、相当の苦労はする。
そして、会って、話をすることになる。

短い会話、短いシーンであったが、とても印象的で、象徴的であった。

というのは、平塚らいてうが、若い時分には、女性解放運動をしていたものが、戦争をきっかけに、平和活動に転向した、という話だからである。
そして、若いときに主張していたことを「あれ、やめたの」とあっさり言っている。
そして、「人は変わるの。でもね、変わるって、とてもいいことなのよ」と、やさしくゆっくりと鞠子に語り掛けるのである。

鞠子は、ちょうど、「娘さん」から、「奥さん」に、変わろう、としている時期である。
変わろう、という心と、変わってはいけないのではないか、という主義貫徹の心が、戦って葛藤している状況である。
そのときに、人生の先輩から「変わってもいいのよ」と、やさしく語り掛けられて、心がすっと落ち着いていくのである。

そして、がんばった仕事は、鬼編集長・花山から、ほめてもらうことができる。
このときの褒め言葉が、鞠子の結婚へ踏み出す、自信になった、というわけなのである。

私は、結婚に悩んだときは、やはり、とことん悩んで、迷って、先輩の指導を受けて、たくさん本も読んで、自分の納得するまで、自分の気持ちに付き合うのが、一番いいのではないか、と思った。

そして、愛する水田に、承諾の返事をする。

結婚式のシーンは、本当に感動的だった。
大好きな家族に見守られて、新しい出発をしていく二人を、私もずっと見守りたい、本当に心から、「幸せになってね」という気持ちになることができた。

三人姉妹の物語はまだまだ先がある。
結婚して、家庭を持って、子どもも産まれた鞠子には、まだまだ人生もテレビドラマも続きがあるだろう、と思う。
悩み多き時期を、たくさんの家族や友達、先輩に相談して、愛に包まれて乗り越えた鞠子には、たくさんのこれからの幸せがあるだろう、と思う。

朝の連続テレビ小説には、女性のライフイベントが、彩あざやかに描かれる。
これからも、期待して、三人姉妹を見守っていきたい、と思った。




2016年8月12日金曜日

8月15日に向けて思うこと。その5。

8月15日に向けて思うこと。その5。

国会がまったく「カラ」であるような、このお盆の時期に、アメリカは、4年前も、日中韓の間に、亀裂を生じさせて、アジア危機を誘発しようとしました。
今、同じことが起こっているのではないか、と私たちは思っています。
8月15日が、「決行」の、その日なのではないか、と私たちは推測しています。

アメリカの心理術にまいってしまって、アメリカが救世主のように思えるかもしれないですが、それに、疲れ切ってしまって、もうどうでもよくなってしまったかもしれないですが、今一度、状況を整理して考えてみてはどうか、と思います。

以上、朝倉聡子とその夫からでした。

ありがとうございました。

8月15日に向けて思うこと。その4。

8月15日に向けて思うこと。その4。

民主党の代表選に関しても、同じようなことを思います。
蓮舫さんは、とても自信をもって、やる気になっています。
蓮舫さんはとても人気があるので、民主党の代表になるかもしれないですね。
そうすると、日本において、沖縄、東京、閣僚、民主党、が、オバマさんを尊敬する状況になった、といえます。

アメリカは、こうして、日本に介入して、心理的な侵略をしているのではないか、と思うのです。

女性を「とられる」と、そのパートナーである男性の地位が、下がってしまいます。
オバマさんの狙いは、そこにあるのではないか、と思います。

実際に今、中国とのやりとりをめぐって、尖閣諸島では、「奇妙なこと」が、起こっています。


8月15日に向けて思うこと。その3。

8月15日に向けて思うこと。その3。
東京都知事選挙のようすを見ていても、ちょっと疑問に思うことがありました。
小池百合子候補の選挙の手法です。
「緑色のものを持って集まってください」と、こうした選挙戦術は、どこから出てきたものでしょうか。
どうしても、東京都知事になりたい、小池さんに、アメリカのオバマ大統領が、親切に教えたのではないでしょうか。
そして、当選しました。
その後の、東京の権利は、小池さん、そして、オバマさんにあります。

丸川珠代五輪担当相も、アメリカのオバマ大統領が、指導・教育していると思われます。
リオオリンピックの開会式にすぐに出席を決めるなど、これまでの政治の手法と比べて、とても迅速です。
誰かから指示されているように見えます。


8月15日に向けて思うこと。その2。

アメリカのオバマ大統領は、アメリカの世界最先端の心理学を使って、戦略を練っています。
日本の「困っている女性」の、お願い事を聞いてあげる。
そうすると、その女性は、オバマ大統領を尊敬するようになります。
特に、その女性が、政治関係の仕事を持っていて、しかも、自信がない、とすると、政治のしかた、選挙のしかたを親切に教えてあげることで、尊敬を勝ち取ります。

そのようにして、安倍昭恵さんの要望、これは、心の痛むような要望ですが、聞いてあげたのではないか、と思われます。
昭恵さんは、沖縄を訪問しました。
今、自民党の本部は、沖縄基地問題に触れることができない状況です。

8月15日に向けて、思うこと。

8月15日に向けて、思うこと。
あれから、4年たちました。
4年前の8月15日。
アジア危機が起こりました。
4年前も、アメリカは、大統領選挙の直前でした。
アジア地域で、戦争を起こしたい。
特に、対・中国の戦争を、起こしたい。
アメリカは、中国との戦争を起こすと、民主党は勝つことができます。
民主党に、「お土産」を持って帰りたいのが、オバマさんの思惑ではないか、と思われます。

7月の連続テロは、私たちを苦しめました。
私たちは、「戦時下にある」と、認識させられました。
これは、アメリカの「マッチポンプ」ではないか、と私は思っています。
マッチで火を点けたのも、アメリカ。
そこへ、火消しに現れるのも、アメリカ。

アメリカはそうした方法で、イラン、イラク、中東に、介入してきたのではないか、と私は思います。

私たちは、度重なる地震と、テロで、疲れ切っています。
心のどこかで、救世主を望んでいます。
しかし、救世主など、本当は、どこにもいないのです。

私たちも、いっときは、政治を司りました。
国民の要望は、まるで神様にお願いするかのように、絶え間なく、陳情も次から次へと押し寄せて、私たちは疲れ切ってしまうくらいでした。
なんらかの目的なしで、他の国を助けてあげたい、と思える為政者が、いるとはとても思えない状況です。



2016年8月10日水曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第18週「常子、ホットケーキを作る」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第18週「常子、ホットケーキを作る」感想。

暑い夏も盛りとなった。
これから、お盆休みにかけて、連続テレビ小説は、快進撃を続けて行く。
夏休みとなって、子どもたちや「お父さん」も一日中家にいて、テレビを見ている日々が始まり、そのなかで、熱闘・甲子園も、始まった。
そこへ、4年に一度のオリンピックである。
毎日毎日、テレビで忙しい!

それでも、女性たちの日々は、着実に一歩一歩続いていく。
私は、NHKの朝の連続テレビ小説の一番「女性らしいところ」というと、この一日一日の積み重ねという、忍耐力にも似た、着実な歩みである、と思う。

この週は、常子が、いわゆる、「理想と現実」のはざまで、とても悩む週となっている。
理想を追求したい花山。
花山の象徴するところは、理想であり、目標でもあるが、上司であり、そして、先輩である、というところだろう。

常子が働く女性として、何度も障害にあってつまづくのは、それは成長のための障害であるが、花山が、「広告をとるとどんなことになるのか」という経験を、年長者として知っていた、という上司の象徴が大きいと思う。

常子はそこへ、経験値の低さと、新しいものへの希求から、挑んでいくことになる。

ここから、ぼくの話になります。

ぼくは、働く女性のハードルを感じます。
女性は、仕事として、職場の男性と接します。
もちろん、仕事を上手に進めていくための、仲の良さです。
その仲の良さを、恋愛感情であるように誤解するのが、上司の家族です。
これは、仕事のできる女性にとって、とても不愉快なものです。
仕事上の付き合いであるから、付き合って話もして、目標も同じくしてきました。
それなのに、この上司の奥さんが、変な目で見たりすると、仕事の邪魔になります。

幸い、ドラマのなかでは、花山さんの奥さんは、会社の仕事に口出しをしません。
これが、仕事を持つ夫、この内助の功、というものです。
夫が、会社でどんなふうに、女性社員と仕事をしていても、妻には関係のないことです。
それを、夫の職場に口出しをするのは、夫にとって、邪魔な妻である、だから、愛されない、大事にされない、ということなのです。

ぼくたちも、私事を、仕事に持ち込む女性たちには、本当に迷惑をこうむってきました。
社会性がないというか、常識を知らない、というか、本当に困った奥さんです。

ここから、朝倉聡子です。

そういうわけで、常子も、社会に出る女性として、職業婦人として、数々の無理難題を引き受けながら、人間的成長を続けていくわけです。
私はやはり、女性は、いつまでも社会のなかにいて、社会人として、大人として、きちんとした常識的な振る舞いができるように、日々成長しつづけていくべきだ、と思います。

そして、それを実践してきたのが、自分自身である、という少なからず誇りを持ちながら、一緒に仕事をしてきたチームメイトに、とても感謝して、これまでと同じく、男女平等で、人間としても平等で、仕事の実力が認められた状態で、仕事をし続けていきたい、と思いました。

夫が仕事をなくしてしまえば、すぐになくなってしまうような社会的地位では、女性の立場はすぐになくなってしまいます。
常子は、実力で社会のなかに立場を築いています。
そうしたところが、私が常子を尊敬できるところです。
私も、社会人として、どんな理不尽な困難にも負けず、これからも自分の力を精いっぱい出し切って、仲間のために、たくさんの人々のために、家族のために、がんばっていきたいです。

そして、一番愛する夫の、一番の理解者でありつづけることを、とても大事にしていきたい、と思います。
ありがとうございました。

2016年8月6日土曜日

広島平和祈念日・リオオリンピック開会式。

広島平和祈念日・リオオリンピック開会式。
きょう、2016年8月6日も、とても暑い夏の日となった。
私は、朝から、リオオリンピックの開会式を見た。
ちょうど地球の裏側にあたる、ブラジルでのオリンピックである。
広島で、原爆投下の時間にあたる、午前8時15分には、リオで、日系移民の紹介が行われ、日の丸の赤い着物に、赤い旗で、平和の祈念が行われていた。

オリンピックの開会式は、プログラムのなかで、一番大好きである。
2時間もある選手の入場行進も、最新のファッションもあり、民族衣装もあるその選手たちの表情も、みんな観ていた。
そして、地球はひとつであることを、胸の底まで熱く熱く感じていた。

私がとても印象に残ったのは、やはり、ブラジル・リオからのメッセージで、地球の緑のことである。
小さな種が、ブラジル、アマゾンのレインフォレストになり、地球上の大半の酸素を補給している。
そうしたことを大事にしてほしい、というブラジルからのメッセージが伝わってきた。

そして、組織委員長の挨拶では、「私たちは決してあきらめない」「私たちはリオを誇りに思う」という言葉が、とても印象的だった。

世界には紛争が相次いで起こっていて、ブラジルも、その例外ではない。
そういうときに、平和のメッセージを作り出すことの困難さを感じたし、そこであきらめない、仲間がいること、をとても感じた。

とても長い入場行進と、終わりのないカーニバルのあとに、楽しみな聖火が登場して、どんなふうに今回は、聖火がともされるのかな、と期待していたら、本当に、期待通りで、なんだか感動で胸が熱くなって、涙がちょっとだけ出た。

きらきら輝く聖火、と太陽。
この聖火が、17日間、ずっと私たちを見守ってくれる。
地球はひとつ。
自信と誇りをもって、平和のメッセージとともに、きょうも一日一日を、生きていきたい、と思った。



2016年8月4日木曜日

小池百合子新都知事・丸川珠代新五輪相。

小池百合子新都知事・丸川珠代新五輪相。
7月の都知事選で、新しく、小池百合子都知事が就任された。
8月にはいってすぐには、内閣改造が行われ、丸川珠代新五輪相が就任された。

小池百合子さんの当選に伴って、都政は混乱状態、と言われている。
首都・東京の政治であるだけに、国政にも影響は必須である。

小池百合子さんには、どのような政治手腕が問われるだろうか。
私はこう思う、小池都知事は、まずこれから先4年間の任期をまっとうするために、一番重要な課題は、東京オリンピックを成功させることである、と、思うのである。

東京オリンピックは、ほかのこれまでの都知事が経験したことのない、大きな仕事を抱えた、ということになる。
4年間の任期がそのまま、オリンピックの準備期間になるので、これが成功するかしないかは、都知事として成功するかしないか、という問題になってくる。

ほかにも行いたい政治も理想もたくさんあるだろうけれども、まずは、オリンピックに手をつけるところから、始めるのがいいのではないか、と思う。

というのは、オリンピックは4年後にせまっており、国際間の信頼関係から、絶対にとりやめにはならないから、やらなければならないからである。

絶対に待ってくれないのは、建物の工期である。
これは、物理的に時間のかかるものであり、工事の着手の遅れは、そのままオリンピックの手遅れにつながってしまう。
エコオリンピックにしたい、とか予算を削りたい、とかいろいろな悩みも要望もあるだろうけれども、たくさんの人がこれまで関わってきて、立てた予定があるはずである。
その予定にそって、速やかに工事に着手して、東京オリンピックの始まる、少なくとも一年前には完成させる気持ちで、しっかりと行うことである。

次に行うべきことは、遅れてしまった都政を、速やかに進めることである。
前都知事の問題と、知事選とで、都政が遅れてしまっている。
都知事の権限で決裁するべき問題も、山積みになっているのではないか、と思われる。
それらをどんどん進めて、政治を前に進めるのがよい、と思う。
こうしたところで手間取らずに、決断力を示すことで、都議会がついてくる、ということもあると思う。
仕事が進むこと、仕事をすること、仕事を与えることで、都議会が進み、ついてくる、ということはあると私は思う。

その次に、オリンピックのハード面である、建物建設を進めながらであるが、オリンピックのソフト面の取り掛かるのがよいか、と思う。
これは、小池都知事が理想としているとおり、「東京」のブランド化戦略である。
オリンピックの成功は、都民と国民が、どれだけオリンピックを楽しめたか、どれだけ「いいこと」があったか、で決まる。
幸いにも、小池都知事は、東京のブランド化について、とても詳しいようなので、期待できるところである。

そして、オリンピックの事柄を進めて、これまで山積していた都政の問題を解決してから、自身が持っていた理想に取り掛かるのがよい、と思う。
これは、支持者からの熱望でもあるけれども、保育所の建設や、介護士の待遇改善など、福祉の分野である。
特に保育所問題に関しては、期日の目標設定が、来年の春になるのではないか、と思われる。
新入学のシーズンである。
これは、秋口からとりかかっても差し支えないと思う。
また、するべきことをしてから、理想に取り掛かるということ、郷に入れば郷に従えの順序である。


ところで、どんな偶然なのか、あるいは、たくさんの国民からの期待なのか、新閣僚でも、五輪相が、女性の丸川珠代さんになった。
ここでは、国政と都政の連携が期待されるところである。

丸川さんは、リオオリンピックの開会式を見学に行く、ということなので、とてもよかったと思う。
実際に、さまざまな種目の会場に行ってみて、体験してくることができて、その良かった面は、東京オリンピックに活かし、よくなかった面は、改善点として、学んでくることができると思う。

そして、丸川五輪相の大事な仕事は、国から予算をたくさんいただいてくる、ということである。
国からの予算がたくさんあって、東京都の予算をそれほど使わなくて済むことになれば、都民の負担が減る。
そうすると、都民からの不平不満の声も減る。

国際大会は、日本、そして、東京を、世界にアピールする場であるから、本当は、お金はかければかけるほど、居心地のよい大会になるはずである。
そのあたりは、国民としても、世界に誇れるオリンピックにしてほしい気持ちは、ある、ということだから、一生懸命やりがいもあると思う。


私は、東京にオリンピックを呼びたいと思ったきっかけは、未来の子どもたちのためになる、と思ったからである。

私は、北海道で育った。
北海道は、札幌オリンピックのあった地である。
札幌オリンピックで使われた、選手村も残っていてこれは団地になって、札幌市民が暮らしていたし、競技に使われたスケートリンクは、今でもスケートの国際大会が開かれて、昨年暮れにも、フィギュアスケートの全日本選手権が開かれた。
また、手稲山や、大倉山では、オリンピックで使われたコースが残っていて、一般のスキーヤーが、滑ることができた。
「このコースを、オリンピック選手が滑ったんだ」と思うと、どきどきワクワクしたものである。
そして、今でも、札幌では、冬になるとスキーやスケートの国際大会が開かれていて、札幌の町なかでは、国際的な選手と出会うことができる。

そうした環境が、子どもたちに夢を与えるし、心身ともに健やかになれるスポーツへの関心を高めさせてくれる。
今も、東京オリンピックをめざして、日本の各地で、子どもたちが、スポーツに力を入れていると思うと、本当にうれしい。

4年後の大会では、国内で開催されるということで、小さな子どもも、お年寄りも、国際大会を楽しむことができる。
身近で国際的なレベルを体感できる、という体験を、子どもたちにさせてあげたい。

そして、1964年以来、老朽化してしまった、スポーツ関連の施設を、改善して、新しくして、使いやすく安全にして、子どもたちに、これから先、ずっと長く使ってほしい、と思うのである。

東京オリンピックは、未来への投資、子どもたちへの夢の建設だ、と私は思う。
新都知事、新五輪相には、本当にこの仕事を、成功へと導いてくれるように、期待でいっぱいである。


2016年8月3日水曜日

8月の予定は、オリンピックに甲子園に…!

8月の予定は、オリンピックに甲子園に…!
2016年も、8月に入った。
夏休み、お盆休みの8月である。
今週末は、花火大会、という地域も多いのではないかと思う。

7月は、参院選、都知事選、と政治が落ち着かなかった。
都知事は、小池百合子さんに決まった。
東京初の、女性都知事となった。
女性たちからの期待もとても高いところである。

思えば、イギリスでも、一番困難なこの時期に、メイさんが、女性首相になった。
北海道では、すでに、女性知事が、三期目である。
これから、女性がトップに立つ時代、そして、女性のための政治をする時代になるのかな、と兆しを感じられる、そんなふうである。
こうなると、11月のアメリカ大統領選では、ヒラリー・クリントンさんが、女性初のアメリカ大統領になる、ということも、本当にあるのかもしれない。
楽しみになってきた。

さてさて、8月のお楽しみといえば、それはもちろん、この6月、7月のことを考えると、盛夏でもあるし、健康を考えて、体をいたわるのが一番である、と私は思う。
9月から、つまり秋からは、政治日程もいろいろ、いろいろある。
だから、8月は、ゆっくり休むのがいい、と思う。

そういうわけで、リオオリンピックである。
すでに、新聞や雑誌では、競技の日程が発表された。
私たちにとっては、テレビ中継の日程である。
なんと、8月5日の朝、9時45分から、NHKの地上波で、サッカーの予選が始まる。
日本VSナイジェリアである。
これは、ぜひとも見なければならない。

翌日、8月6日の朝、7時30分から、これもNHKの地上波で、開会式である。
競技日程の都合で、開会式よりも前に、試合が始まることになるらしい。

私は、オリンピックで一番楽しみなのは、この開会式と、陸上のマラソンである。
とにかく、開会式は素晴らしい。
ロンドンオリンピックでは、009が女王陛下をヘリコプターで連れてやってきたり、ビートルズのメンバーが歌ったりした。
ともかく、イギリスロックファンなら絶対に見逃せない、開会式のスゴメンであった。

北京オリンピックのときも、「世界で一番最初に紙を発明したのは私たち中国よ!」とばかりの演目で、そう、開会式は壮大なミュージカルなわけだ。それで、千人もの太鼓隊が出て、大音響だった。
すごかった。

ブラジル・リオでは、どんな開会式になるのか、本当に楽しみである。
日本でも、4年後には、東京をアピールする素晴らしいミュージカルを行わなければならないから、ここは、都政が今最初のところだと思うけれども、小池百合子さんにも、どうか、リオの開会式には、行ってみて、その大きさとか、裏舞台とかを、体験してきてほしい、と思う。

それにしても、閉会式で、次は東京、と言われて、そのときに、東京のトップは女性です、と顔をお見せできるのは、けっこう素敵なことかもしれない、と思う。

というわけで、月9である。

7月から三か月のクールで始まった、月9であるが、前回の月9が、福山雅治さんのドラマにしては、ちょっともう少し…、というところだったのが、今回の月9「好きな人がいること」は、とっても素敵!
キラキラした、夏の日盛りに、海あり、山あり、水族館あり、おいしいケーキあり、というところである。
月9の話題はまた、今度、詳しい感想など書きますので、乞うご期待、というところです。
あ~でも、観てみるのが一番いいね。
感想とか詳しく書くよりも、恋って、ハートで感じるもの、かもね。

というわけで、戦時下も、はりきって、夏を楽しみましょう!!! 
                         
                                                      by 聡子



2016年7月31日日曜日

きょう7月31日は、東京都知事選。

きょうは、7月最後の日曜日。
海も8月に入れば、波が高くなる。
夏は熟していく。
その日曜日が、東京都知事選挙である。
私も朝早くに起きて、投票をしてきた。
日本の首都・東京の首長を決める、大切な選挙である。

考えてみれば、日本の現状を考えるにしても、これからの未来を考えるにしても、大変な出来事が連続して起こっている。
この一か月だけ考えてみても、出来事を、頭を整理する気持ちで並べてみたら、こんなふうになる。

6月23日 イギリスの国民投票、イギリス、EUを離脱することになる。
株価の下落と世界恐慌が予測される。
次の週 バングラディシュのダッカでテロ、日本人も犠牲になる。

7月10日 参議院選挙
7月13日 天皇陛下 生前退位を発表
7月14日 都知事選公示、フランス・ニースで大規模テロ

そのあと、ドイツ、ミュンヘンでテロ、ドイツの他の都市でもテロ、と続く。

そして、7月26日には、日本で障がい者施設で事件が起こっている。

私は思う、人間にも、社会にも、許容量というものがある。
ここ数年の、「戦争になるかも?」「イスラム国が」という怖れと不安で、人々のストレスは許容しがたい数値まで、あがっている。

しかし、特にここ一か月の動きは、まさに、「戦時下」「戦争中」と言っても差し支えない状況になってきた。

夏祭りもコンサートも花火大会も、平和だから、楽しめるイベントであったことに、今さらながら気づく次第である。

今回の戦争は、表立った戦争とは言えず、裏でひそかに進められている戦争、と言えるだろう。
しかし、大金が、戦争に流れるために、経済状況や食卓の状況は、とことんレベルが下がっていくことになるだろう。
社会不安も広がっていく。

正式に、非常事態宣言や、治安維持法が出てしまったほうが、人々の覚悟も、安全も、はかれたかもしれない、と思う。

ここは、心ある人が、自発的に、社会の状況を感じ取り、家族を守り、健康を守り、心を守っていくことが、必要になるだろう。

日本国政府は、メディアや国民の理解を得ることを、もうやめてしまった。
そして、どんどん、戦争を進めている。

今は、戦時下である。





2016年7月30日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第14週「常子、出版社を起こす」 第15週「常子、花山の過去を知る」 第16週「『あなたの暮し』誕生す」 第17週「常子、花山と断絶する」感想。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第14週「常子、出版社を起こす」
第15週「常子、花山の過去を知る」
第16週「『あなたの暮し』誕生す」
第17週「常子、花山と断絶する」感想。

早いもので、もう7月もおわりである。
関東地方もとうとう梅雨明けした。
梅雨明けらしい、明るい青空が広がっていて、カラッとした晴れになっている。

この7月は、本当に大変な7月だった。
誰にとっても、本当に乗り越えがたい、つらい7月だったと思う。
毎日を、毛布をかぶって、マンガの本を読みながら、テレビ三昧しながら、音楽を聴きながら、どうにか逃げ切ってきたところである。

私は、テレビドラマのありがたさは、こういうところにある、と思う。
どんな朝も、フィクションは、優しく明るく、微笑みかけてくれる。

そういうわけで、4月からずっと、苦労しどおしの「ととちゃん」も、7月の花開く、大団円を迎えている。
ライフワークである「あなたの暮し」の出版となったわけだ。

このあたり、出版業界の仕事のしかたや、気持ちなどがよく描かれていて、専門知識のない視聴者には、本当に興味のつきない展開となっている。

昭和20年代の家具や建物も、レトロで懐かしいし、銀座に構えた出版社も、建物がとても素敵である。

ととちゃんは、戦後の混乱期にあって、闇市に、ピンチよりは、チャンスを見つける。
それは、叔父からヒントをもらったものでもあった。
このまま、事務員としてお給料をもらって働いていても、一生にもらえる金額は限られている。

戦後の物資不足、そして、活字への希求が、大きなニーズを生み出している時期で、どんな雑誌でも、出版すれば売れる状況となっていた。

こうした状況に、自分自身の仕事人生を賭けてみるチャンスを見出したのは、さすがととちゃんだ、と思う。

ととちゃんには、「家を建てる」という目標もある。
まずは何よりも、家族を養わなくてはならない。
そうしたときに、勤め人としてお給料の少なさを嘆くよりは、起業をして社長になって、たんまりもうける、これは、とても楽しい発想だと思う。

思い起こしてみれば、歯磨き粉の件といっても、やはり、「一山当てよう」という行動力が、常子にはあったのだった。

常子の才覚の一番素晴らしい、と思えるところは、やはり経営センスだと思う。

常子と花山の関係が、あまりうまく見えてこないところはあるが、花山伊佐次という、有能な編集者を雇うことで、出版の仕事に、大きな宝の山を見つけた、ということだと思う。

この、花山伊佐次、噂には聞いていたけれども、やはりスカートをはいていた…。
すごかった…!

花山は、絵の才能もあるし、文章の才能もある。
絵の才能のある人、というのは、どこでもそうだけれども、社会常識からは、ちょっとはずれてしまうところがあるようだ。
けれども、才能があればあるほど、才能という大輪の花を支える柱が、必要になってくうる。
それが、経営であり、お金であり、「現実」であり、社会常識である、と私は思う。

かのゴッホも、絵の才能はとても大きかったのだが、絵ばかり描いていて、その絵を売ることや、絵を売って、次を描く絵の具代にすることには、まったく関心がなかったようである。
絵の才能を認め、肯定し、讃え、そのうえで、画家の生活や、画家としての仕事の成功をうながす、マネジメントが、必要だったわけである。

絵や音楽、文章の才能がある人には、自分か誰か他の人で、マネジメントをする人がいると、大成する、と私は思う。

いわば、才能と経営の二人三脚である。

常子と花山は、経営者と才能者ということで、二人三脚を組むことができた。
そこには、多大な葛藤もあっただろう、と思う。
でも、そこから生み出されたものが大きかったから、雑誌「あなたの暮し」は、大成功したのだろう、と私は思う。

これから、真夏、8月に入る。
「とと姉ちゃん」も、暑い暑い真夏を走り抜け、秋に向けて、どんどん進んでいく。
秋の稔りに向けて、毎日、毎朝の笑顔を、私たちに届けてくれる。
これからも楽しみに、常子とその家族たち、仲間たちを、見つめていきたい、と思う。



2016年7月24日日曜日

憲法草案。再アップします。

以前、5年ほど前であったが、日本でもツイッターを基盤とした、たくさんの人たちのデモ、大衆運動が起こるのではないか、という考えを持った。
そして、不満のエネルギーは、単なる現状の破壊ではなく、次なる新しい時代の構築であるべきだ、との考えにいたった。
世界各国では、本当に、ただの不満の爆発が、社会状況を破壊のための破壊に追いやっている。
しかし、心ある人たちは、次なる政府、次なる時代の構築に向かって、スクラップ&ビルドの活動を、続けている。

以下に示すのは、2011年の暮れに、朝倉聡子個人として、フランス憲法やアメリカ憲法をもとに、なかば「パロディ」の要素を含めながら、「誰でもがみな、憲法を考えてみることができる」と、提案した、憲法草案である。

当時の原稿が保存してあったので、ここでそのまま、再アップしてみたい、と思う。
たくさんの人が、この草案を見て、もっとよりよい草案づくり、そして、目指す目標の一致につながるように、との希望を込めて、ここにもう一度、示してみることにします。

朝倉聡子
2016年7月24日

☆ーーーー☆

新しい日本国憲法・草案(by聡子)
日本の国の憲法を、新しくするために、国民ひとりひとりが新しい国づくりを考えてみることが大切だと思う。
「どんな国造りをしたいか」国民全員が、草案を練ってみてもよいのかもしれない。
朝倉聡子も、基本的にはフランスの憲法の構成を基準にしたが、
草案を作ってみた。
ご笑覧ください。

日本国憲法
前文
私たち日本国民は、自由と平等と平和を愛し、それを促進していくために、これらの憲法を制定する。
平和主義に基づく、討論と協議による政治の推進と、助け合いの精神による公共扶助、公共福祉を推進する。
すべての国民が、健康で豊かな生活を築くために、政治と社会は、尽力する。
生命と子どもたちの幸福を守り、豊かな社会建設を行う。

第一章 主権
主権は国民にある。これまでの長い天皇制を排し、すべての国民が平等となり、
政治を推進する権利を持つ。

第二章 大統領
日本国が合衆国になるにあたり、大統領を制定する。
大統領の選出方法、権限については、条文に定める。

第三章 政府
大統領のもとに、公正な選挙制度によって選出された国会議員が集まり、
中央の政府を制定する。
この政府で行えることは、法律の改定である。

第四章 国会
公正な選挙で選ばれた議員が、集い討論する場を国会とする。
国会には、定例国会と臨時国会がある。
年に3度、定例国会を開き、国民からの要望を法律にするために、討議と決議を行う。

第五章 国会と政府の関係
国会で決められた法律に関して、政府は一定の権限を持つ。
すなわち、よくない法律を排除し、よい法律を実行する権限である。
また、政府は国会に対して、新しい法律の審議を求める権利を有する。

第六章 条約及び国際規定
国際間の条約や規定は、国会で審議し、決定したあとに、相手国に通知するものとする。
いかなる国際条約も、国会と国民の認証なしに、締結することはできない。


第7章 行政
法律を国民に施行していくために、行政を行う。
これは法律の実行化であり、現実化である。
行政を行うために、公務員制度を定める。

第8章 司法権
法律を守らない国民に対して、対応するために、司法の権限を定める。
最高裁判所を定め、次に地方裁判所を定める。
死刑に関してはこれを行わない。

第9章 人権
人権を守り、人権意識を向上させるために、特別委員会を置く。
すべての国民が、言論の自由、表現の自由、信教の自由、結社の自由を持つことと定める。

第10章 教育の権利
すべての国民が、自身の幸福のため、社会貢献のために、高い教育を受ける権利を保障する。

第11章 経済社会評議会
経済は国の要となる事業である。
国民が高いレベルの経済状態を獲得し、維持するために、政府は常に経済に関する観察と評議と、手助けを行わなければならない。
商業の自由を守るために、法律を順守するように努めなければならない。

第12章 地方自治
地方自治は、これを独立した州として認める。

第13章 アジア連合
日本国は、将来のアジア連合の設立に向けて、積極的に活動しなければならない。

第14章 改正
この憲法を改正する手続きは、国会と国民の討論ののち、必要な手続きのもと、行うことができる。



2016年7月7日木曜日

2016参議院選挙・終盤の状況について。

2016年、夏の参議院議員選挙の選挙戦も、終盤となった。
ここへ来て、自民党は苦戦を強いられている様子である。

昨年の、安全保障法案の時期から、日本国民の間には、根強い政治不信、与党不信が高まっている。
高まっているのは、平和への強い願いと、戦争への深い危惧である。

今回の参院選では、安全保障法案の文字が出てこない。
そのかわり、改憲、憲法改正の論議がある。

憲法改正を掲げる自民党は、この話題を避けたいようであるが、誰もそうは思っていない。
自民党にとって、大切な選挙戦略は、「改憲は必要である」「憲法9条の改正は必要である」「日本は国防軍を持つべきである」と、日本国民に思わせることである。

今年はいろいろな事件が、世界中で起こっているが、こうして参議院議員選挙の期間中に、それも直前に、バングラデシュで、日本人が巻き込まれるテロ事件が起こったのは、不思議なことである。

これは、偶然ではない。

この時期、私が脅されているのは、バングラデシュのテロ事件について、知っていることを、公表するな、と言われているのだと思って差し支えない。
バングラディシュのテロ事件は、首相官邸、麻生太郎氏が、IS、イスラム国に、たくさんのお金を払って、頼んだものである。

こうして、参議院議員選挙の選挙戦の期間中に、「世界は危険である」「日本は危険にさらされている」と、「事実をもって」訴えれば、日本国民が、改憲の自民党に投票する、そして、世論が、国防軍や戦争に、大きく動くことになる。
そうした目的をもって、与党自民党は、テロ組織に、テロを起こすように、頼んだ、というわけである。

私は、こうしたことを、許さない。
日本国民がこうした行為を許すはずがないのである。

自民党は、内部から苦戦している。
投票日直前になって、追加緩和の話も出ている。
安倍政権から始まった、自民党の暴走は、ゆるやかに止まっていこうとしている。

参議院選で与党が敗北すれば、次は、都知事選である。
ここで、民進党の候補に、ぜひともお願いしたいところである。

そのあとは、衆議院解散総選挙になってほしい、と思う。
たいへんな根気がいることであるが、あの、戦争に向かって突進していった、安倍政権の暴走を止めるのには、ゆっくりと、確実に、自民党の議席を減らしていくしかないのだ、と私は思う。

一緒に、がんばりたい、と思う。




2016年7月2日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第10週「常子、プロポーズされる」感想。

第11週「常子、失業する」
第12週「常子、花山伊佐次と出会う」
第13週「常子、防空演習にいそしむ」



朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」も、とうとう7月に入った。
半年間の連載ドラマである。
持久走のようなものだ、と思う。
4月の放送開始から三か月たった、ということになる。

民放のテレビドラマでは、三か月で「ワンクール」というテンポで放送されていることが多いから、ここまで毎朝三か月観る、ということは、本当に気の長い話である。
それが、もう三か月続く。

女性たち、特にご家庭で暮らすご婦人の皆さま、それから高齢のかたがたが、毎日どのような生活リズムで暮らしているのか、朝のあわただしい時間帯に、時計代わりになるテレビドラマがどんなものか、だんだんとわかってきた、と思う。

NHKの朝の連続テレビ小説は、もうずっと前から続いてきて、もう何年もこのタイムスケジュールで一日を送っている、という視聴者もたくさんいる。
私もそのひとりである。

そのテレビドラマが半分まできた、ということは、それなりに、達成感とか充実感のあることではないだろうか。


大好きな「ととちゃん」は、戦前編と戦中編を終えて、いよいよこれから、戦後編に入る。

私も、毎週毎週、一週間ずつ感想を書きたかったけれども、政治的な状況や社会状況のなかで、少しずついろいろなことを進めてきていて、そのなかで書けない日もあったけれども、毎日、一視聴者として楽しませていただいて、とても楽しかった。

それで、4週間分の感想を、ここにまとめてみようと思う。

第10週は、女学校時代から、フレンドリーなお付き合いをしてきた、星野武蔵からのプロポーズと、そして別れであった。
初恋と、その恋への別れは、少女時代への別れでもある。

でもその恋も、戦争という社会状況と、常子の家庭環境と、責任と、生き方と、それから、星野のほうの研究や仕事、といういろいろな理由で、別れるしかなくなる。

本当に、ふたりは結婚できる状況ではなかったのだろうか。
いろいろな意味で、切ない話である。

やっぱり、好きな人と結婚できるのが、一番素敵なことだ、と思う。
常子にもいろいろな理由があって、選択をした、ということだけれども、本当は好きな人と一緒になるのが、一番の幸せだったんじゃないかなぁと思う。
そう考えると残念だ。

でも考えてみると、星野武蔵は、大阪へ行って研究者になる、ということは、人生の目標であった、その夢が叶う、という状況だったということになる。
ご両親もかねてより希望していた、ということだ。
とすると、常子と武蔵の結婚によって、武蔵の人生の目標は、達成できる、ということになる。

常子のほうはどうだろうか。
常子は、お父さんが亡くなってから、一家を守る、という三本柱の目標を立てている。
妹たちを守る、妹たちを嫁に出す、家を建てる、という目標である。
もしも、武蔵と結婚して大阪に行くとなると、これらの三本柱の目標は、どれもこれもかなわないまま、挫折、ということになってしまう。

結婚する、ということが、人生の目標の「挫折の結果」だとすると、こんな変な話はない、ということになる。

もしも常子が、子どものころから、人生の目標など持たず、目標に対する努力もあまりせず、教養を身に着けるくらいの感覚で女学校へ行き、そして、人生に対して「ニュートラルな」状態でいたのなら、好きな男性との結婚で、夫の人生に寄り添うことが、自然にできたのではないか、と思われる。

自分の人生に対して「ニュートラルで」いること、これは、アイデンティティの問題かもしれない。
また、親やきょうだい、お金と生活、住む場所と仕事、といったことは、環境と呼べるかもしれない。
アイデンティティの点で、ニュートラルであること、環境の面でもニュートラルであること、これが、結婚に関して、「結婚しやすい」状況かもしれない。

女性は、結婚に関して、ニュートラルでいたほうが、結婚しやすいということかもしれない。

そう考えてみると、子どものときから将来の目標を持ち、高校で一生懸命勉強して、大学では専攻を持ち、資格試験にも受かって専門職に就いた、という方向性で生きてきた女性にとっては、結婚は、すごく、アイデンティティを「折る」ほどの問題となってしまうのかな、と思えてきた。

常子が、好き、という気持ちだけでは、結婚を素直に選べなかったのは、女性としてだけではなく、人間としての生き方、アイデンティティに、しっかりとした芯があったからだ、と言える。
それがいいことなのか、わるいことなのか、そこまでは私にはわからない。
でも、結婚に関しては、きっと、結婚という選択とは対立してしまうほどの、大きな問題となったのだろう、と思う。


それでも、好きな人と一緒になるのは、本当に素敵なことなのに、もったいない、と思った。

次の週からは、戦争という背景のなかで、森田屋さんのことや、祖母の滝子との別れなど、常子の人生の変動期が描かれていたように思えた。

特に、参議院選挙も近いからか、戦争の描き方には、NHKの思い、脚本家やプロデューサーの思いが、表れていたように思う。
近年の日本では、戦争が昔のこととは言えない状況になっていたので、何かとても身近に感じさせるところだった。

そして、常子は今度は、失業してしまう。
この失業のいきさつというのは、本当にこういうものだったのか、と思うけれども、それも、女性の働き方を考えるうえで、とても参考になるものだった。

お竜との出会いは、いささか不自然なかんじがする。
それから、ビヤホールというのは、あの当時は、職業婦人としては流行っていたのかもしれないけれども、女性の振舞い方として、考えさせられる。
やはり、人前でお酒を飲むとか、お酒をふるまう席に出る、というのは、控えておくのが、女性の慎み、というものではないだろうか。

女性だから、という理由で、自由が束縛されるように感じる人も多いようだけれども、本当は、世の中には、男性が出入りする専門の場所と、女性たちが出入りするべき専門の場所、というのは、分かれているものだ、と思う。

そういう話になるとまたやっかいだけれども、常子のとった行動は、やはりどこかで軌道を外れてしまうような、失業しても当たり前、とも言えるような行動だったのではないか、と私は思う。
私だったら、女性同士で、お酒をふるまう店には出入りはしないんだけど、と思う。


次に、花山伊佐次との出会いがあった。
これは、視聴者みんなが楽しみにしていたものだった。
花山氏とのエピソードは、戦後に続いていくものなので、これからを楽しみにしていよう、と思う。

それにしても、戦争は、つらく悲しいものだ、と思う。
これまでも、朝ドラでは、何度も何度も、戦争を、いろいろな角度や視点で描いてきたけれども、私は、滝子さんが、200年続けてきた青柳商店をあとにするところや、あるいは、にぎわっていた深川の情景が消えていくところは、とてもつらかった。

これから、私たちは、明るい賑やかな未来に向かって、ひとつひとつまた、積み上げていくんだ、と本当に思う。

季節は真夏を迎える。
そして、「とと姉ちゃん」の物語も、熱いクライマックスを迎える、ということになる。
これから、常子がどんなふうに、少女時代を乗り越え、戦争を乗り越えて、それらをすべて、自分の力にして、伸びていくのか、本当に楽しみである。

私も、暑い夏を、常子と一緒に、悩んだり、笑ったりしながら、太陽のほうを向いて、向日葵の花のように、伸びていきたい、と思った。





2016年6月5日日曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第9週「常子、初任給をもらう」感想。

6月にはいった。
もうすぐ、梅雨入りである。
季節の家事や、衣替えがあるのも、日本ならではの文化なのかな、と思う。
そして、そこに、「暮らしかた」の雑誌が生まれたことも、とても大切な日本の文化なのではないか、と思う。
梅雨まえの、青空が本当にまぶしくてきもちいい。

「とと姉ちゃん」は、新卒一か月目を迎えている。
この時代にはまだ、それほど多くはなかった、オフィスレディ、OLである。
OLの定義というといろいろあるかもしれないが、会社に雇われて、月給をもらう、というようは雇用形態をいうのだろうか。

これまでの、住み込みで仕出し弁当を作っていた仕事の働き方とは、ちょっと勝手がちがうようである。
人数も多いし、部署に分かれてもいる。
人間関係も、横の関係、縦の関係、と複雑になっている。

こうした状況のなかで、常子は、仕事の取り組み方そのものに悩むことになる。

私も、新卒時代を本当に思い出す。
そもそもいったい、何のために仕事をするのか、仕事ってなんなのか、根本的に何が何だかわからなくなってしまった、私にも常子のような迷い戸惑いがあった。

ある先輩は、お給料のために仕事をしている。
そうすると、決められたお給料をもらえればいいわけだから、自分の労力を最小限にとどめようとするわけである。

ある先輩は、「誇り」のために仕事をしている。
自分自身の自尊心にかけて、人から言われた仕事はしたくない、自分自身の能力を社会に、いや会社に、示したい、ということである。

常子の場合はどうだろう。
常子は、いろいろ迷って悩んで、材木業を営む祖母のところに相談に行く。
祖母は「世の中、男と女しかいないんだから、うまくやっていくしかないじゃないか」と言う。
そして常子は、「困っている人を助けるため」と、仕事の意義を見出していく。

こうして、新卒で悩んだときに、家に帰って相談する人がいるかいないかは、新卒の仕事のその後に、とても大きな影響を及ぼすらしい。

常子の場合は、森田屋の皆さま、母、姉妹、ボーイフレンドの星野さん、祖母の滝子や、隈井さんなど、たくさんの人間関係に恵まれている。
仕事をする女性を支えるのは、たくさんの人間関係というネットワークなのかもしれない、と思う。

ここで、「女性は雑用係なのか」というテーマが出されてきた。
たくさんの女性たちが、とても悩んでいる問題ではないか、と思う。
「女性は雑用係にさせられる」これは、家庭においても、会社においても、そうした処遇を感じるのかもしれない。
「雑用」の反対語には、「メインの仕事」という意味があるだろう、と思う。

タイピスト、というメインの仕事があるにも関わらず、表に出してもらえない、他の用事を言いつけられる、という何か虐げられた、目下に思われた思いが、どうしてもぬぐえないのでないか、と思う。
それも、「女性だから」という理由ならば、納得ができないところだろう、と思う。

私自身は、こうしたテーマを、「女性だから雑用係としてしか扱われない」というふうには、捉えてこなかった。
私は、女性は持って生まれた性質がある、と以前から思っていて、それをこうして書いてきた。
女性の持って生まれた性質で、特質ともいうべき性質に、「柔軟性」があると思う。

最近の脳科学では、女性はたくさんの情報をいくつも同時に考えることができるそうだ。
たとえば、何枚もの書類をいっぺんに見て、どれがどれだか判別をつけられる、ということである。
男性には、こうしたことがむずかしいそうである。

冷蔵庫のバターを探せるか、見つけられるか、というと、男性の脳では、探すのがむずかしいそうである。
だから、男性は、常子に「書類整理をしてくれ」と頼むときに、「男の俺にはできないけれど、女性の君には得意分野だから、頼むよ」と言っているのではないか、と思う。
これは、推測である。
男性は、本当は、男性に苦手な仕事があって、女性たちにはそれが得意だ、と知っているので、頼むのではないか、と思う。

しかし、仕事の内容が定まらず、個人的な「手伝い」を頼まれることは、確かに私もあった、と思うと、このドラマが見事にできている、と思わざるを得なかった。

見事に描かれている、といえば、上司たちである。
タイピストを取りまとめるすぐ上の上司は、なんだかもやもやしていて、常子の話に対しても、早乙女の話に対しても、確固とした支持を出さない。
指示であり、支持である。

しかしこれは、主人に聞いた話であるが、わざとなんだそうである。
女子社員をとりまとめる、すぐ上の上司というのは、女子社員の状況をすべて把握していて、それでいて、のらりくらりとした態度をとり、誰の肩も持たないようにしているのだそうだ。
誰かひとりの肩を持てば、肩を持たれた女子社員がいい気になって、チームを乱すことは必須だそうである。
だから、早乙女に対しても、常子に対しても、どちらが正しいともなんとも言わないのだそうだ。

そして、その上の上司に、きちんと報告しておくのだそうである。
この、上の上司、佃さんといったか、この上司は、たとえば夜勤のおじさんと、お茶など飲みながら、女子社員たちの様子をきちんと聞いていて、女子社員の間に何が起こっているか、きちんと把握している。
そして、「ここぞ」というときに、出てきて、女子社員たちをまとめるのである。

…。私は、主人にこうした話を聞くまで、男性社員や上司が、どんな考えでこうして振舞っているのか、全然知らなかったし、わからなかったので、本当に驚いた。
女性のみなさんは、知っていました?
でもでも、本当に、ああいう場面にちゃんと、「その上の上司」って、現れるでしょう?
そうですよね。
そして、仕事の実力で、女子社員たちの上下関係をきれいに整理整頓してくれるんです。
本当に、社会、いや会社の仕組みはよくできている、と思います。

ところで、女性は本当に、雑用係なのでしょうか。

私は、会社の仕事は、スポーツのチームに例えられると思います。
サッカーやバレーボールも今とても話題ですが、やはり、チームで働くということは、パスやトスをする役割の人がいれば、シュートやアタックをする役割の人がいるわけです。

「私は雑用係にさせられた」と思っている人は、シュートをする係にさせてもらえないので、不満がたまっているのではないか、と思うのです。
でも、チーム全体の利益を考えることが、大切だと思うのです。

常子も、会社という組織の社員です。
会社の仕事が円滑に進んで、商売が繁盛して儲けがでる、その儲けのなかから、割り当て分をお給料としてもらっているわけです。
だから、タイピストという、アタッカーではない役割に割り当てられたのなら、その仕事を一生懸命するのがいいと思います。
そして、他の社員の手助けをするなら、その仕事をして、トスやパスを上手にするのがいい、と思うのです。

私自身は、仕事の取り組み方としても、家庭内の役割としても、「サブリーダー」であることを、すごく真剣に考えて取り組んできました。
サブリーダーは、リーダー本人ではないのですが、常にリーダーの下で、縁の下の力持ちをします。
それは、時には食事を作ることであったり、健康管理であったり、家事であったり、育児であったり、あるいは、家計管理であったりします。
そうして、リーダーがアタックをしやすいように、環境を整えるのが、サブリーダーの仕事です。

サブであってもリーダーなので、主人が留守をしたときや、リーダー不在の状況になったときには、リーダーシップもとれる、という力も、持っていなければならない、と思います。
これは、能力的にもそうですが、権限としても、リーダーになれる力を持っていないとならないかもしれないです。

「わたし」という一人の女子社員を、サブリーダーにおいておけば、リーダーとしての成功はまちがいなし、だから、いつもどの社員もが、「常子さんに手伝ってほしい」「常子さんの作った資料ならまちがいない」「このサブも常子さんに頼みたい」となるわけです。

常子は、どんな仕事もニコニコしてこなし、誰かの役にたって、そして、だからこそ、自分自身の能力を、最大に発揮している状況だと思います。

女性は、雑用係ではなくて、サブリーダーをするのに向いている性質を持っている、と私はそう思います。
誰か、力あるリーダーのもとで、一生懸命仕事をすることができたら、本当に幸せです。
その「力あるリーダー」が、花森安治ということになるのでしょうか…?
少なくとも、今の常子が、どんな仕事も責任をもって引き受ける、そういう仕事のしかたをしているから、見出されて「一緒に編集の仕事をしよう」となるのではないか、と私は思うのです。

アタッカーばかりが、仕事ではない、と私は思います。
女性も男性も、誰か力強いリーダーのもとで、やりがいのある仕事をしてみたいものだ、と思いませんか?
そのときの、力強いサブリーダーであることを、私は目指してきました。
今も、そうしています。

そういうわけで、今週は、このブログを考えながら書いているうちに、もう梅雨入りです。
雨の日のレインブーツは、もう用意いたしましたか?
私は、赤い水玉のレインブーツを、用意しました。
傘は、その日の気分で、いろいろな彩を、と思っています。

それでは、また。
来週の「とと姉ちゃん」も、楽しみにしています!!!

2016年5月29日日曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第7週「常子、ビジネスに挑戦する」 第8週「常子、職業婦人になる」感想。

ぼくより。
今週は、朝倉聡子の夫である、ぼく、から、朝倉聡子の、職業婦人の体験談をお話しします。
まず、朝倉は、お茶汲みをいやだとは思いませんでした。
お茶汲みも立派な仕事である、と思って、おいしいお茶、おいしいコーヒーを淹れるように努力しました。
その結果、係長や課長から、「朝倉さん、お客さんに、ぜひ、あなたのお茶を淹れてください」と言われるようになりました。

ぼくの奥さんは、自分の生計を稼げればそれでいい、という考えでした。
大卒でしたが、えらくなりたいとは全く思いませんでした。
そして、北海道の田舎で一生、静かに暮らしていければいい、そして、お給料から、本を買ったり、映画を観たり、ただのテレビがあればそれで幸せ、という生活設計を立てていました。
それなので、東京に出ようとか、管理職になろうとか、まったく考えていませんでした。

安いOLに雇われて、それで幸せでした。

朝は、7時ごろ起きて、ごはんを食べて、8時半に出勤しました。
そして、夕方5時きっかりに帰りました。

彼女の仕事内容は、決められていて、長時間椅子に座っているだけではなく、カウンターでお客様のお相手もしていました。
それなので、座りっぱなしでなくて、足を動かしてお話もできるので、活動的でいい、と思っていました。

お金を扱うこともありましたが、いつも適切に扱っていました。
そうした仕事ぶりを見て、係長は「朝倉さんは、本当によくやってくれる」と言いました。
仕事の覚えぶりも、「乾いた砂が水を吸い込むように覚えていく」と褒められました。
そして、「朝倉さんに仕事を任せると、一、言うと、十、わかる」と言って、仕事仲間から一目置かれる存在になりました。

仕事上、お昼ごはんをごちそうになることもありました。
課長のところにきた、高級お重、これを、課長は「わたしは、奥さんの作ったお弁当を食べなければならないからね。いつも朝倉さんはよくやってくれるから、おなかいっぱい食べなさい」と言って、譲ってくれました。

服装は、質素なブラウスに、スカート。
お化粧は、学生時代に、お友達とお化粧ごっこをして覚えて、薄化粧で、上品にまとめていきました。
髪は落ちてこないように、バレッタで留めていました。

アクセサリーをしていくと、課長は丁寧におしえてくれました。
「あなたは、目がとても大きくてきれいです。だから、胸元から上には、輝くダイヤは目なので、ほかの宝石は要りませんよ」と言われたのです。
それなので、朝倉さんはすべてを察して、その後は、仕事には、アクセサリーをつけないで質素に行くようにしました。
これは、今でも続けている習慣です。

朝倉さんが、仕事で何かミスをした、というと、二回ほど、遅刻をした、ということです。
ぼくは、遅刻の理由について、詳しく聞いてみました。
すると、こういうことです。
前の晩、紅茶を飲みすぎました。
電車で8駅ほどの家で、ある高名な詩人が、文学の会を開いていました。
そこには、猫ちゃんがいました。
紅茶を飲みながら、猫をなでながら、文学について、熱く語っているうちに、終電になってしまいました。
家に帰ってきてからも、文学の話で頭が熱くなっていて、眠れなかったのです。
それで、次の朝、起きられなくて、遅刻をしました。

課長は、「もう少し、そのあたり、自己管理ができるようにしてくださいね」と、やさしく言いました。


朝倉さんは、隣の席に座っている女子社員には、丁寧に仕事を教えてあげました。
それは、女子職員マニュアル、というのをワープロで作って、印刷して、まとめて、申し送りをしたのです。
その後、その課では、この女子職員マニュアルが、定番となって、何十年も使われています。

朝倉さんは、手芸が得意です。
職場で大事に使っているワープロの、ワープロカバーを、手縫いで作りました。
帆布で、縫いました。
それを、夜勤のおじさんが、タバコの焼け焦げをつけてしまいました。
夜勤のおじさんは、朝倉さんにすごく謝りました。
朝倉さんは、アップリケを縫い付けて、「大丈夫です。かわいくなりました」
と言いました。
おじさんは、朝倉さんの優しさと思いやりに、とても感謝しました。

ある日、朝倉さんは、昼休みに、ハガキを書いていました。
お菓子の募集で、ハガキを送って応募すると、グアム旅行が当たる、というものです。
面白がった係長が「ぼくも送ってみたいから、ハガキくれる?」と言いました。
朝倉さんは、快くハガキをあげて、住所も教えてあげました。

そして、数日たったある日、係長が拝みながら「朝倉さん、ほんと、ごめんね」と言いました。
朝倉さんは、「どうしたのかしら?」と思いました。
「当たっちゃった」
そういうわけで、係長は、一週間のお休みをとって、家族全員で、グアムに旅行してきました。
朝倉さんは、こうして、職場で、皆さんに、幸せを分け与えていました。
ぼくは、こういう姿こそ、「女性は太陽である」ということだと、思います。

ぼくは、先週と今週の「とと姉ちゃん」を一緒に観ていて、彼女が、「本当に女性の仕事を取り巻く環境って、こういうものかしら?」と、疑問に思っているのを感じました。
彼女にとっては、社会は、あたたかく守られている場所です。
ドラマ「とと姉ちゃん」でも、もっといろいろな女性を描いてもいいのではないか、と思います。

おわり。



2016年5月22日日曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第6週「常子、竹蔵の思いを知る」感想。

5月の青空のもと、戸外に飛び出すのもうれしいし、家でテレビを見るのもまたうれしい。
「とと姉ちゃん」も、ヒロイン常子が、さまざまな体験をして、5月の青空のもと、伸びていくのが、とてもうれしい。

この週は、亡くなった父・竹蔵の思いを知る、という題名であるが、その竹蔵の思いとは、君子と祖母・滝子との、確執を解きたい、という思いであった、というストーリーである。
父・竹蔵は、母・君子と結婚するときに、祖母・滝子の反対を押し切ってしまった。
しかし、君子と娘たちとの生活を、月に一度は手紙に書いて、滝子に送っていた、という話が、明るいところに出るわけである。

そうした、竹蔵の思い、そして、常子たち三人姉妹の思いが実って、滝子と君子が、和解する。

母と娘の葛藤、というのは、そんなに古いテーマではない、と私は思う。

むしろ、最近になってから、あちこちで取りざたされているテーマであるように思う。
ずっと以前の名作文学を読んでみても、母と娘というのは、たとえば、義理の関係にある母娘がとてもむずかしい、というテーマはあっても、実の母娘は、共闘仲間のように、親しく仲睦まじかったように思う。

特に女流文学などで、実の母娘の関係が、それも、とても「仲悪く」描かれて、問題視されるようになったのは、近年であるように思われる。

そうした意味で、この週の「とと姉ちゃん」の、母娘和解に関して、とても興味深く観ていた視聴者が、とても多かったのではないか、と思う。

私も、どんなふうにこの母と娘が和解するのか、と面白く思って観ていた。

結局のところ、環境、人間関係、というものが、母娘ふたりを、和解に導いたように思う。
今は亡き、父親の思い。
孫娘たちの思い。
近所の人たちの思い。

そうしたものにあたたかく包まれて、母と娘は、「産んでくれてありがとう」という、地点で、和解に達する。

私は、やはり親子というものは、そうした原点に返るのが、一番のことであると思った。

近代になってから、特に明治時代から現代にかけては、女性に関する人権の解放と、それから、生き方の思想が、大きく変化している時期である。
生き方の思想、時代のありかた、世間のありかた、社会のありかたである。

それも、非常に速い勢いで、女性の解放が、進んでいる。

母親の時代に、「女性はこうすることが幸せ」と思われていた思想が、娘の時代には、別の形に幸せが置かれている。

近代になるまでは、子は親の「持ち物」であった。
これは、たとえば別のドラマになるが、NHK大河ドラマ「真田丸」などで、娘が政略結婚に使われ、それがとても重要な役割を果たしていたことからも、うかがわれる。
娘は、親の持ち物であった。

しかし、近代、それも、ここ数十年になってから、子どもには子どもの人権がある、と「ある日、突然に」言われ始めたのである。
特に結婚に関しても、親が子どもの結婚を、口出しするのではなく、決定することが、当たり前であった。
親が子どもの人生を管理していくことは当たり前であったし、それが子どもにとっても幸せであると、親も信じていた。

近代になって、海外から人権や、個人主義の思想がはいってきて、女性たちの思想は変わっていった。
そうしたときに、母と娘の葛藤が、生じてしまったのだ、と私は思う。

母は母で、母の時代の思想で、娘の幸せを思っているのである。
しかし、娘は娘で、娘の時代の思想で、自分の幸せのために、精いっぱい、生きているのである。

ドラマのなかでも、滝子は滝子の時代にそって、君子の結婚を決めている。
しかし、君子は新しい時代の思想にそって、自分で選んだ相手と恋愛結婚をしようとしている。
ここで、滝子と君子の対立は、昔の時代と、新しい時代との対立である。
あるひとつの思想と、別の新しい思想との対立が、母と娘のうえにあらわれている状況である。

こうして、時代と思想の変化の激しいときには、女性は、母に「すべて」を求めるのではなくて、ただ、母親として、産んで育ててくれてありがとう、という一点で、母親を愛し認められるのではないか、と私は思う。
親というのは、産みの親であり、育ての親であり、看護師であり、教師でもある。
しかし、時代の変化の激しいときに、親にすべてを求めるのは、親のほうとしても、負担が重い、というものである。
女性は、もっと幸せになろうとするときに、家庭の外に、教師を求めるのがいい、と私は思う。

たとえば、海外の著作に学ぶこともある。
あるいはたとえば、学校の教師に学ぶこともある。
仕事を持てば、仕事の上司、先輩に学ぶこともある。

それを、人生のすべてにおいて、母親に求めるのは、期待のしすぎかもしれない、と私は思うのである。

ドラマを観ていても、滝子の時代、君子の時代、そして、常子の時代、と女性の生き方は、どんどん変化していく。
大きく変化していく。
祖母の時代、母の時代、娘の時代、と何代もかけて、女性たちは、みんなで「女性の生き方」「女性の幸せ」「女性の解放」を、少しずつ、粘り強く、続けてきているのである。

私たち平成の時代の女性たちは、平安時代から、戦国時代、江戸時代、とあまり変化のない女性の生き方を強いられてきた状況から、明治時代、大正、昭和、と駆け抜けるように、大きく扉を開くように、女性の人権を獲得しているのだ、と私は思う。

祖母よりももっと解放された母。
母よりも、もっと解放された娘。
娘よりも、もっともっと幸せになるその孫娘。

女性たちは絆を結んで代々続けて、女性の生き方をもっと幸せにしていく。

そうしたときに、母親を恨んだり憎んだりすることは、よくない、と私は思う。
「君がため」と名付けてくれた、お母さんに、感謝の気持ちを持って、そして、そのお母さんのためにも、もっともっと幸せな娘になって、女性の幸せを、みんなでつかんでいこう。

そういう思いをより強くさせてくれた、この週の「とと姉ちゃん」だった。
これからも、楽しみに観ていきたい、と思う。



君がため春の野に出でて若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ
君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ
ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも


2016年5月12日木曜日

恋愛論・結婚論~一般論として。

恋愛や結婚について、自分の体験そのもの、というよりは、一般論として、思うことを書いてみたいと思います。

恋愛っていうのは、キラキラしていて、ドキドキワクワクしていて、とても素敵なものだと思います。
恋愛ドラマを観ていると、胸がキュンとして、生き生きした気持ちになりますね。

恋愛と結婚って、どういう関係なのかな、ということを、今一度考えてみると、今は、恋愛結婚が当たり前になっているけれど、そうじゃない時代もあったと思うんです。
私がこのごろ思うのは、「結婚は好きな人と、好きになった結果としてするもの」というような大前提が、すごく強くなっている、と思うんです。

私たちの祖父母の時代には、お見合い結婚が一般的でした。
それはそれで、幸せになる人は、幸せになり、そうなれなかった人は、やっぱり、幸せではなかったようです。

どんな出会いだったとしても、どんな縁だったとしても、幸せな夫婦関係を築ける人は、築けた、ということなんじゃないかな、と思います。
こういう話は、私自身が、祖父母や、その年代の人たちに、お話を聞く機会があって、「お見合いだったけれど、幸せだった」という話には、ちょっと意表を突かれた気がしたものです。


人生は、年を取るにしたがって、だんだんと努力の結果、「楽になっていく」ものなんでしょうか。
私は、そうではない、と思います。
人生は、年を取るにしたがって、どんどんと重くなっていくもの、だと思います。
年齢を重ねて大人になれば、責任もありますし、自分で働いて自分で生計を立てなければならないです。
子どものころと比べると、守ってくれる親はいないわけです。
親は年をとって、そのうち介護が必要になりますし、自分自身も年をとります。
病気をしたり、トラブルにあったり、悩みが増えたりします。

仕事の責任も、若いときと比べてとても重くなってきます。
子どもを持てば、子どもを守って育ててあげなければならないですし、子どもの人生に関しても、責任があります。

そういう人生の山、とか、あるいは、嵐、に例えられるたくさんの困難を、一緒に乗り越えていくのが、夫婦というパートナーだと思うんです。

結婚、というのは、パートナーシップではないか、と私は思います。
夫は、男性としての、生まれ持った特質を、妻に提供するでしょう。
妻は、女性としての、生まれ持った特質を、夫に提供するでしょう。
そして、力を合わせれば、チームワークが生まれて、お互いの人生の困難に立ち向かって乗り越えられるようになります。

そうしたときに、必要なのは、人間としての「体力」といったものなのかな、と思います。
健康、という意味での体力もそうですし、知力、判断力、持久力、忍耐力、もしも商売などをしていれば、その商売を成功させる力、時代の変化というような荒波が押し寄せてきたときにも、乗り越えていける力、というものを、よりたくさん持っているパートナーがいると、夫婦として、一緒に、人生の荒波を乗り越えていける、と思います。

恋愛の時期は、この夫婦間のパートナーシップを、絆として、あるいは、お互いに力を合わせる方法として、築く時期なのかな、と思います。
これはやはり、ある程度好きじゃないと、パートナーシップは築けないんじゃないか、と思います。
結婚は、やっぱり相手を好きじゃないと、乗り越えられないような困難がたくさんあると思います。
好きでも乗り越えられないんじゃないか、と思える困難はたくさんあると思います。

たとえば、事故ですとか、重い病気、リストラ、子どものいじめ問題など、あまりにもつらすぎて、家族という人間関係を維持することさえ困難になるほど、たいへんなことが、人生には起こります。
あった愛もなくなるほど、つらいことだって、あるんじゃないか、と思います。

そういうときに、社会的に「結婚」という枠組みは、とてもよいもので、恋愛感情だけで維持される関係とちがって、「今は恋愛している場合じゃない」という状況のときにも、夫婦という関係は維持することができます。
たとえば、世の中が戦争になったとき、などは、恋愛感情で、キラキラと「好き好き」言ってられないんじゃないか、と思うんです。

人生はつらいことのほうが多いんじゃないか、と私は思います。
ただでさえつらい人生なのだから、夫婦とか家庭には、少しでも多くの笑顔があったほうがいいんじゃないか、と思います。

よくお笑い芸人のかたがモテる、と言いますが、一緒にいて楽しい人、こういう人も、人間としての人間力、「体力」のある人なのかもしれないです。

恋愛の出会いのキラキラした時期に、強く深い絆を、パートナーシップをしっかりと組めば、その後の人生の困難を、力を合わせて、乗り越えていくことができると、私は思います。

世の中には、選択の自由があって、「気楽だけど孤独な独身」を選ぶことも、人生の選択だと思います。

私自身は、「煩わしいけれども、にぎやかな、結婚」という選択を選びました。
自分で選択したことなので、パートナシップを維持するために、いろいろな努力をしています。

最近、ツイッターで見かけた言葉で、「結婚なんて、いずれ数年すれば、熱が冷めてしまうもの」ということに関して、興味深い意見がありました。
それは、「なんにもしてないのにパソコンが壊れた」と言っている人と同じことで、「何かし忘れてる」か、「何かしすぎている」か、どちらかなんだよね。
という言葉です。出所がわからなくてごめんなさい。
でも、結婚って、そういうことじゃないかな、と思います。

出発は恋愛のときめきや一目ぼれだったかもしれないし、あるいはお見合いや紹介、婚活、という人もいると思うのですが、その後の、「するべきこと」「してはいけないこと」を、努力して、維持しているか、メンテナンスしているか、っていうことは、とても大事なんじゃないかな、と思います。

どちらにしても、より幸せになるために、人生の選択をしていくのではないか、と思います。

ぼくより。
ぼくもそう思います。



2016年5月9日月曜日

2016夏の参院選の争点をどうするか、ということ。

ゴールデンウイークも、明けた。
いよいよ、夏の参院選に向かって、スパートである。
公示日は、6月22日、投開票日は7月10日である。
梅雨の期間の選挙となるが、毎回、参院選というと、梅雨と真夏に重なる、熱い熱いこの季節である。

今回の選挙では、いまだ争点が明確に定まらない、と言われている。
昨年から、反安倍政権に関して、たくさんの声があがっている。
安保法案の採決の際には、国会議事堂前に、たくさんのデモが押し寄せた。
国民的議論となっている。

私たちは、今回の参院選の争点について、長時間討論し、吟味した。
そして、考えたのが、以下のようなことである。

ひとつは、安保法案に関する「盛り上がり」が、下火となっていることである。
私の自宅近所でも、昨年から今年にかけて、玄関に「アベ政治を許さない」という例の書体のポスターが貼られていたが、4月にはいってから、撤収されている。
これはもう、「反安倍」の世論が、終わってしまったということを意味していると思う。

また、それに関して考えると、安保法案の是非についての討論は、議論が出尽くしている。
昨年も、安保法案の採決の直前では、野党側で、質問することが何もない状況だった。

今から、再び安保法案の討論をしても、同じ論議の繰り返しになる。
そうなると、政治や選挙に関して、「飽き」が生じてしまう。

選挙は、充分に討論を戦わせたのちに、国民からの審判を「待つ」ものではない。
選挙は、充分に勝てる作戦を立てて、勝つための闘いをするものだ、と私たちは思う。

勝つためには、女性票と浮動票の行方が、勝負を決するところとなる。
近年、投票率は年々下がっていて、有権者人口の半分にも満たない状況である。
また、今回の選挙からは、18歳選挙法が施行される。
そうしたときに、いかに国民を巻き込んで、政治の渦に入ってもらうか、そして、女性票をどのように動かしていくか、ここが、大事なポイントになってくると私は思う。

私たちは、民進党を応援している。
そして、政権交代をめざしている。
そうしたときに、人口の半分である女性票の動きが、すべてを決すると言っても過言ではない、と私は思う。

また、これは、朝倉聡子が、なんとかこうはできないか、と願っているところであるが、近ごろ、女性たちが、声をあげ始めている、と思う。
テレビニュースでも、女性アナウンサーが、たくさん出てきた。
これは、今年4月からの動きである。
インターネットのニュースでも、日曜日の早朝であったり、平日の昼間であったりするが、女性メディアジャーナリストが、声をあげ始めていて、その声を消すのがむずかしい状況である。

しかし、女性たちは本当に本気で、政治に参画する気持ちがあるのかどうか。
私は、「やれるもんならやってみろ」とは言わないが、一度やらせてみたい、と思ったのである。
これは、私個人の考えというか希望と期待である。

新聞各紙で、論説や社説で、識者からも、さんざんに叩かれながら、議論を深めていくということが、本当に女性たちにできるのだろうか。
政治に参加して、法案を作り、その法案を通すまでの道のりは、茨の道である。
その道を、がんばり通すことができるのかどうか。

女性たちが本当に、この茨の道を通ることができて、女性の意見を法律として成立させられるようになったら、本当に、この世の中は、変化していくと思う。

女性たちが声をあげ始めたのは、ただの不満なのか、それとも建設的に、政治を進めることができるのか。
政治的に目を開いてきた証拠なのか、私は、女性たちに「やらせてみたい」と思ったのである。
それで、主人にお願いして、こうした考えを聞いてもらったわけである。

まだもう少し、争点を決めるまでに日にちがあるようである。
よくやりとりして、メディアの世論形成の作戦と共に、一緒に戦っていきたい。



2016年5月7日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第5週「常子、新種を発見する」感想。

4月から始まった「とと姉ちゃん」も、第5週目。
ゴールデンウイークまっただなかの放送週だった。
こうして、半年間も同じドラマを観続けていると、祝日の週もあれば、雨の続く週もあり、また晴天の週もある。
ゴールデンウイークでお出かけした人にとっても、録画して観る、という選択肢があるから、続けて観ることができて、本当にうれしい。

考えてみれば、5週間もたって、物語はスローな進み方をしている。
常子が子ども時代から始まって、お父さんが亡くなって、東京へ来て、と、なんだかそこまでである。
でも、日々の心模様が丁寧に描かれていて、まったくあきないドラマ進行である。

15歳、女学生の迷ったり戸惑ったりしながら、ひとつひとつ乗り越えていく、その小さな体験の積み重ねが、のちの常子の、「あなたの暮らし」出版への、道筋になっているのだろう、と思う。

今週は、「初恋」というテーマも出されてきた。
お相手は、帝大生で、植物の研究をしている青年である。

常子がのちに、「あなたの暮らし」で、男女平等のパートナシップを持つことになる、天才編集長・花山氏とは、どのようにつながっていくのだろう?と思わせるところがあって、先の展開も含めて興味深い。

もともと、初恋、というのは、娘さんにとって、父親の影響が大きいと言われている。
結婚相手も、父親ととてもよく似ている、と通説として言われている。

自分の場合はどうかな?と思わず考えてしまう。
むしろ、「お父さんとはまったくちがうタイプの人がいい」と強く思っていたように、私は思う。
でも、結婚してみたら、周りの人から、「お父さんとダンナさん、そっくりね」と言われて、「そんなはずはなかったのに…」としょげかえる(?)状況である。

さて、常子の場合は、どうだろうか。
出会った青年、星野武蔵は、まず「武蔵」と書いて「たけぞう」と読むあたりから、父親・竹蔵を想像させる。
そして、たとえば森田屋の大将・宗吉などは、江戸っ子のがらっぱちであるが、それと対照的に、星野さんは、優しくおとなしい印象がある。
植物の研究もしているし、まさに「草食系男子」というところだろうか。

父・竹蔵も、家族に対して、敬語でお話しするような、紳士的で温和な性格だったので、やはり常子は、父の影響をもろに受けているように思える。

しかし、男性というのは、誰もが、森田屋の宗吉のような「男の世界」「男のやり方」というのを、持っているのではないだろうか。
そして、女性たち三人姉妹と母、という家族から見ると、この「がらっぱちさ加減」というのは、ひょっとすると、男性への恐怖心になりかねないほどの、荒っぽさがある。

そこに、奥さん(ファブリーズの人だ!)と、かわいらしい娘さんが花のように寄り添っているのだから、家族というのは不思議なものである。

この宗吉は、常子たち四人家族に関しても、一家の大黒柱の役割を果たしているように思える。

でも、実際に竹蔵が生きていたら、父親というのがそこに厳として存在していたら、娘の常子は、男の子を、家に連れてきたり、ごはんを作ってあげたりは、できないはずである。
このあたりは、母子家庭の、一般家庭とまったくちがうところなのだろう、と思う。
もし父親が生きていたら、水か塩をかけられて「帰れ」と言われたか、あるいは、常子が、「女学生なのに、まだ早い」と、がっちり叱られたところだろうと思う。

母子家庭において、女の子の育て方や、あるいは、思春期になってボーイフレンドができたときに、どのように対応するか、このあたりは、考えさせられるところである。

結局のところ、この初恋は、なんらかのいきさつで「実る」ということはなく、常子は、大人になっていくことになる。
ここで、初恋で痛手を受けて、「もう結婚なんてしない」という経験になっていくのか、それとも、初々しい、キラキラ輝くような恋愛を体験して、「男の子っていいな」「男の子と付き合うと、面白いことや、楽しいことが、いっぱいあるな」と思っていくのか、そのあたりが興味深いところである。

私は、男の子、というのは異性であり、異文化であるから、自分と同じものだけを仲間だと思ったりするのではなくて、知らない人、知らない性質、わからない考え方、わからない価値観を、わかろう、理解しよう、とがんばることは、大事なことだと思う。

男性と女性は、しょせんはちがう生き物なのかもしれないが、その異文化を、「わかろう」「理解しよう」「仲良くしよう」と、すごくがんばったときに、異文化との交流から、素敵なものが生まれてくるのではないか、と思う。

その「素敵なもの」というのは、これまで見たことのない世界だったり、これまで見たことのない知識だったり、あるいは、これまで体験したことのない、自分自身の感情だったりするのかもしれない。

そして、今週の常子がそうであったように、これから一生、生きていくときの、自分自身のポリシーとなるもの、「ごはんをきちんと食べよう」という、信念、自分自身を、発見するものなのかもしれない。

私は、森田屋の宗吉みたいのを、おそれずに理解しあいたい、と思うし、そうしたときに生まれる、キラキラした感情、発見、好奇心、というのを大事にしたい。
もう一歩踏み込んで、男性たちの世界を嫌わずに、おそれずに、互いに歩み寄りたいものだ、といつも思っている。

それが、私自身が初恋や結婚や父親から、体験して得てきた大切な宝物だ、と思う。

新しい発見をさせてくれるドラマ「とと姉ちゃん」。来週も期待して観ています。



2016年5月5日木曜日

NHKドラマ10「コントレール~罪と恋」感想。

ゴールデンウイーク、いかがお過ごしでしょうか。
今年のゴールデンウイークは、テレビやオンデマンドで、ドラマ三昧、というかたも多いかと思います。
テレビドラマは、手軽で無料の楽しみです。
私は、テレビドラマが大好きです。
もともと、映画が大好きなのですが、テレビドラマを好きになった一番の理由は、北海道にいたからかもしれないです。
というのは、真冬の猛吹雪の日が三日も続くと、テレビが一番のお友達になるからです。
テレビは本当に、楽しい友達です。

きょうは、「コントレール」というドラマの再放送を見ました。
昼の「とと姉ちゃん」のあと、ニュースを5分間見て、そのあと放送がすぐ始まったので、なんとなく見てしまいました。

脚本家の、大石静女史は、「セカンドバージン」で、社会現象を起こした、たいそう実力のあるかたです。
今回も、女性たちのリアルなニーズに応えて、このドラマを書きおろしているそうです。

このドラマの設定は、非日常的で、小説にするなら、純文学というより、サスペンスになるかと思います。
日常的に体験できることではないので、そのぶん、エンタテイメント性が強く、本当に実力派だ、と感じさせるほど、うまくできている、と思いました。

でも、このヒロイン、文、の「男性とのお付き合い」は、恋ではなくて、癒しを求めているのではないか、と思います。
夫を事故で亡くしているのだから、心が深く傷ついていて当たり前です。
そういう状態のときに、成長や幸せを求める、発展的な恋ができるか、というと、何か精彩に欠ける状態に溺れていくようです。

こうした、退廃的なドラマを、NHK、という受信料を払っている公共放送で放映するのだから、良家の奥様たちが、内密な情熱を持っている奥様たちが、他の局の昼メロなら見ないけれど、「NHKでいってるんだから、いいんでしょう」ということで、夜の放送ながら、録画をしかけておいて、昼間、ダンナも子どももいないところで、こっそり見るんじゃないか、と思います。
NHKも、立場や責任を、もっとわきまえるべきじゃないか、と思います。

しかし、脚本としてのレベルは、とても高いと思います。
大石静女史は、次には、日テレで、結婚したばかりの北川景子さんを主役にして、新しいドラマを企画しているそうですから、これが期待されます。

それにしても、45歳で、訳ありの「恋」。
これは、「コントレール~罪と恋」ではなくて、「コントレール~罪と更年期」以外のなにものでもない、と思いました。

しかし、子どもがホモ、っていうことが、この世の中にはあるんですね。
お母さんがたの苦労って、本当にいろいろあるんだなぁ、と思います。
これは、切実ですね。


☆追記
それにしても、薄幸な女性って、本当に、「男を見る目」がないですよね。
私だったら、あの男らしい刑事さんと結婚して、再出発しますけどね。



2016年5月4日水曜日

安倍昭恵さんへ。思うこと。

こんにちは。
初夏の候となりました。
いかがおすごしでしょうか。
いくつか、お伝えしようと思うことがあります。
まず最初に、私たちの子どもたちに関しましては、どこの著名人、芸能人のかたもそうでありますように、子どもには子どものプライバシーと将来がありますので、ここでは触れないことにいたします。

次に、フジテレビの月曜9時のドラマ、いわゆる「月9」というものに関して、お伝えいたします。
私はこれまでも、長く、フジテレビの月9ドラマを観てきましたが、こうして、児童養護施設出身の役があるとか、障害を持った役がある、ということは、ありませんでした。
これが、どうしてこういういきさつになったのか、不思議に思っておりました。

つい先ごろ、これがどうしてこういういきさつになったのか、だいたいのところ、わかってきました。
いろいろ考えましたけれども、こうしてまとめてみます。

戦争が、男性の性質の肥大化したもの、だとするなら、母子、というのは、女性の本能の肥大化したもの、といえるかもしれないです。
男性の性質も、女性の性質も、生まれながらに授かったものであり、自然なものですが、権力と一体化すると、なにか尋常ではない方向に向かうように思います。

今年2月には、戦争を強引に押し進めようとする、安倍総理大臣の動きを、止めることができました。
これは、たくさんの人々の力、民意であります。

そしてそのあと、非常に活発に、「女性の権利」ということが、メディアで報道されるようになりました。
これは、一般的な「女性の権利」ではなく、特に貧困の女性、貧困状態にある母子に限ったことのようです。

私と主人は、これまでこうした問題「にも」真剣に取り組んでまいりましたが、以前申し上げました通り、貧困というのは、人類の根源的な課題です。
また、もしも国家予算を使って、こうした「かわいそうな」母子に、お金を渡すのならば、正規に国会を通さなければなりません。

どんなふうに民衆運動をしても、どんなふうに市民運動をしても、国家予算をおろすには、国会を通さなければならないのです。
そうしたところで、昭恵さんの「やり方」は、筋が通っていないのです。
筋が通らないから、実現しないのです。

総理大臣の権限でどうかなるか、といえば、多少はどうかなるかもしれないですが、予算に関してだけは、国会の予算委員会で、多数決で決めなければなりません。

そうしたところを、よくご理解できていなかったので、総理夫人としての、「活動」が、うまくいかなかったのではないか、と思われます。

また、貧困ですとか、障害ですとか、そういった「目に見えてかわいそうな人」にだけ、あれこれと手当をするのは、センチメンタルな女学生にも似て、偏っています。
一国のトップとなれば、大局的な視野にたって、国民全員のことを考えなければなりません。
そうしたときに、「かわいそうな子どもたちにだけ」目をかける、ということ、そればかり考えている状況では、とても総理大臣の妻は務まらないでしょう。
要するに、政治がわかっていなかったのだと思います。

私は、先日、インターネットでたまたま、著作に関する対談を読みました。
安倍昭恵さんは、お子さんが授からなかったので、それに関してのひとつの代償として、「使命」をお持ちになった、ということです。
そして、首都圏の児童養護施設を訪問している、ということです。

それで、フジテレビの月9、たくさんの女性たちが、楽しみに観ているテレビドラマの時間帯に、女性から人気絶大の俳優をもってきて、障害者のドラマを作らせた、ということなのですね。

私も、以前、権力の中枢に着く以前は、テレビドラマの感想を書いていたことがありました。
今でも、書いています。
しかしそれは、皆様が楽しければ、という思いで、書いているものです。
みんなが楽しくて、話題になって、時には人生を考えたり語ったりできる、そんな場を、作ることができたら、という思いで書き始めました。

また、私のブログの読者の皆様には、男性のかたが多いので、男性に、女性の生活リズムを知ってほしい、という思いがありました。
国民の皆さん、女性の皆さんは、こうして朝の支度の時間に、15分間のドラマを楽しんでいるんですよ、一緒に観てみませんか、という気持ちでした。

しかし、安倍昭恵さんは、ご自身の「使命」と確信しているもののために、テレビドラマを使っているのですね。
つまり、子どもを授からなかった代償として、権力を使って、母性本能の肥大化したものを、触れ回っているんですね。
そうした目的で、テレビ制作に口を挟むのは、よくないことです。
立場というものがあります。
ほかの人が、感想を言ったり、要望を言ったりするのとは、わけがちがいます。
これからは、こうしたことは、やめましょう。

テレビドラマ制作の皆さんも、聞いてください。

私は、楽しいドラマ、質のよいドラマ作りのため、あるいは、ただ楽しんでもらえるなら、喜んでもらえるなら、ということで、ドラマの感想を書いてきたのです。
決して、強要はありませんし、まして権力として、介入する気持ちはまったくないです。
でも、私が何か書くと、ドラマも視聴者も盛り上がって面白い、というなら、それは、これからも、一緒に楽しみながら書いていきたいと思います。
どうでしょうか?

安倍昭恵さんはこれ以上、肥大化した本能を満たすために、「かわいそうな人」の援助を、行うべきではないと、私は思います。
政治家の妻として、しっかり務まらなかったことの責任をとって、きちんとした形で、身を引くことが大事なのではないか、と思います。

そうしたわけで、安倍昭恵さんをバックにして、私と主人と、私たちの仲間たちに対して、異常なまでのバッシングをしてきた人たちに、申し上げますが、やめましょう。

しかし、「真田丸」は、面白いですね。
実話を基にしているところがあるんでしょうか。
私たちの騒乱を、ドラマに仕立てるあたりが、製作者としても、芸術家としても、見事だと思います。

歴史的に見ても、政治に騒乱が起こるときに、芸術が発達しているようです。
リアリティがあるから、視聴者の人たちにとっても、本当に映像文化は、のめりこめるくらい、すごみを増してきましたね。

正直、私は、楽しんでいます。

そういうわけですので、これからも、私がドラマ感想を書いたほうがいいと思うなら、そのようにお申し付けください。
でも、きっと、もっと自由に、芸術をしていきたいのではないか、と思います。
そうだとしたなら、このあたりで、安倍昭恵さんも、私も、身を引くことにいたします。
どうぞ、考えてみてくださいね。

では、またね。
ゴールデンウイーク、いい季節ですね! 楽しみましょう!!!


参考 安倍昭恵さん対談 → http://www.bookbang.jp/review/article/509688

2016年5月2日月曜日

好きな人に好かれるために。

俺は、聡子ちゃんのことを見つけてから、一年間はプロポーズまで準備した。
俺はな、もっともっと、聡子ちゃんのことを知ってから、いろいろと近づこうとした。
しかし、聡子ちゃんは、俺のことに気が付かなかった。
俺は、遠くから見守っていた。
俺は思う。
高嶺の花になるべきだ。
彼女のことを、誰かほかの男に取られたら困る、と思って、俺は、焦った。
しかし、焦りは禁物、と思い、じっくりと近づいて、罠にはめよう、と思った。
できるだけ用心して、嫌われないように、そして、気づかれないように、そっと近づいていった。
男というものは、一度狙った獲物は、できるだけ離さないようにする。
せっかく俺の嫁さんになってくれたのだから、困らせないように、泣かせないように、できるだけ優しくする。
そして、嫁さんの好きなものは、なんでも手を出して、やってみる。
たとえば、ドラマが好きだといえば、ドラマを一緒に観る。
これは、嫁さんがひとりで楽しそうに観ているのが、気に入らないからだ。
それで、「おい、一緒に観よう」と言う。
しかし、嫁さんは、「わたし、ひとりで観る」と言ったりする。
そうすると、俺は困る。

俺は、嫁さんが、お料理をしているので、俺もお料理を覚えて、一緒にキッチンに立つようになった。
大事な嫁さんだから、女の子に、火を使わせるわけにいかない。
洗濯も、お食事の支度も、俺がやる。
奥さんは、きれいに着飾って、上品にお座りをしている。
まるで、猫ちゃんみたいだ。

しかし、ここは譲れない。
俺は、女性は社会参加すべきだ、と思う。
仕事を持つべきだ、と思う。
おうちでエプロンをつけて、おままごとをしているだけの人生では、彼女のためにかわいそうだ。
生きがいがある人生、ライフスタイルを送ってほしい。
彼女には才能がある。
その才能を、みんなの前に、堂々と出すべきだ。

俺と彼女は、戦った。
彼女は、おうちで専業主婦になりたかった。
内助の功を果たす、と言った。
教育理論も勉強して、家事も完璧にこなせる女の子だ。
ファッションセンスもいいし、お化粧もきれいにできる。
いつも身だしなみはきちんとしているし、お部屋もきれいに片付けることができる。
それは、うちの奥さんが、いい奥さんになりたいと思って、独身時代から、訓練してきたからだ。
うちの奥さんは思っていた。
「男と言うものは、結局は、奥さんに家にいてほしいものだと思う」そう言っていた。

俺も実は、奥さんが仕事で活躍するようになったら、ちょっとだけやきもちを妬いた。
しかし、俺は、乗り越えてきた。
それは、奥さんのことを、心底好きだったからだ。

何しろ、丸々一年もかけて、計画を練りに練って、公然とした仲になったわけだ。
そう簡単に手放すわけにいかない。
それなので、乗り越えることにした。

正直、奥さんが男のように仕事をするのは、耐え難いこともあった。
また、俺よりも、奥さんのほうが、えらくなって、俺はちぢこまった。
でも、それも乗り越えてきた。
なぜ、乗り越えられたか。
それは、奥さんの優しさと努力のたまものだ。

俺が困っているとき、奥さんはいつも、とても優しかった。
それに、すごくダメになっているときには、叱咤激励もしてくれた。
正直、ぶっとばされるくらい、叱咤激励された。
俺の奥さんは、優しくて、強い女性である。

男勝りというのではない。
男に負けないくらい、言い返せる、そういう度胸があるのである。

ぼくは、正直言って、男をものにしよう、とする方法をなんとか彼女から聞き出したい、と思う女性は、あまり好きじゃない。
なぜかというと、男をハンティングしようとしているからだ。
うちの奥さんは、俺をハンティングしようとはしなかった。
俺が、奥さんをハンティングしたのである。

おわり。

フジテレビ新しい月9「好きな人がいること」の制作発表を見て。

昨夜5月1日、インターネットで、フジテレビのドラマの制作発表が行われた。
「行われた」といっても、バラエティ番組のトークのような、うちとけたかんじだった。
7月からの夏ドラマ、そして、フジの恋愛ドラマ、ということで、すごく楽しみに見た。
「こんなふうに、ドラマって出来上がっていくんだ~!」と、とても楽しいかんじがした。
どうもまず、俳優と女優さんが決まって、それから、「海ロケ」が決まったようなかんじだ。
夏のドラマで、海や海辺のロケ、それから、海辺のレストランのロケ、と、大枠が決まった、という段階であるようだ。

こうして、綺麗で素敵で、まだまだ若くてはつらつとしている女優さんと、まだまだできあがっていない、というかんじの若手の男性俳優さんとを並べて、そこからドラマが始まるらしい。

ドラマ制作って、本当に楽しそうだ、と思う。
才能でいっぱいの彼らを自由に動かして、夏のドラマを作る、ということなのだろう。
私もやってみたい!と思ったぐらい、素敵だ。

海辺のレストランが舞台となるようである。
このレストランを経営しているのが、三人兄弟の長男である。
今の時代に、海辺の一等地にレストランを持っている、ということは、親からもらった財産で起業したか、あるいは、親の代からあるレストランを受け継いだか、というところだろう。
それで、まずは採算の取れる経営を、ということで「お金」にはこだわる長男なのではないだろうか。

次男は、天才シェフ、ということである。
味にはとことんこだわる、食材選びにはお金に糸目をつけない、というこだわり派なのではないだろうか。
これは、長男の経営論とは、対立しそうである。

三男は、お調子者でモテモテ男子だそうである。
お気楽な性格からも、人間関係が広そうで、そのぶん、レストランの経営に関しては、「サービス」といった点で、「もっとサービスでお客さんに奉仕しようよ」というようなことを主張しそうである。
これも、長男や次男と対立しそうである。

こうした三人兄弟のなかに、主演のヒロイン桐谷美玲が飛び込んでいく。
ヒロインは、パティシエをめざしていて、いつか自分のお店を持ちたい、と夢見ている。
この三人兄弟から、何かしら学ぶところがあるのかもしれないし、この三人に、「夢」を思い出させる役割というのも、あるのかもしれない。

そして、夏の海である。
「みんな重い見えない荷物 肩の上に 抱えてたわ」
だからこそ精いっぱい輝いているから青春時代なのかな、と思う。

きらめく夏の海、お祭り、花火、恋、仕事、将来、夢と希望と挫折、
たくさんの宝物が「好きな人」という言葉に、込められているような気がする。




2016年4月30日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第4週「常子、編入試験に挑む」感想。

毎朝の、元気の源「とと姉ちゃん」も、第4週を終えた。
春から初夏へと季節が移り変わっていく。
春の人事異動や卒業、入学、就職で、ライフスタイルが変化した人も、毎朝の「とと姉ちゃん」と一緒に、毎日の日課を作っていたのではないだろうか。
その「変化のあった視聴者」にとって、どんな困難にもめげない、どんな環境の変化も乗り越えていく、ヒロイン常子は、本当に励まされる存在である。

今週は、しつこく(?)制服問題が出てきた。
NHKにとっても、「ポイント稼げる」テーマであるのかもしれない。
今、女性たちの生き方や生活そのものが、社会問題になっているので、そうしたあたりを、はずさずに描いてくるところが、脚本家・西田征史氏と、プロデューサー・落合将氏の視点の良いところだと思う。

制服、というと、数々の思い出がある、というのが、大半の視聴者ではないだろうか。
私も、甘酸っぱい思い出が、たくさんある。
「♪ セーラーの薄いスカーフで、止まった時間を結びたい~ ♪」
そう、あのスカーフは、とても薄かった。
大人になってから、いわゆる「男子」と話をして、「セーラー服のスカーフって、本当に薄いの?」なんて聞かれたものである。
ついで、「あの服、どうやってできてるの?」「どうやって着るの?」なんて話も、したものである。

セーラーのスカーフが、自分ではうまく結べなくて、女子生徒同士で、休み時間に、結びあいっこなんかもしたものだ。

本当になつかしい。

大半の学校の女子の制服が、セーラー服だったのが、このところは、ブレザースタイルに変化してきているようだ。
AKB48などを見ても、アニメを見ても、高校生や中学生の制服というと、ブレザーである。
つまり、襟つきの上着に、チェックのスカート、といういでたちで、リボンは、縞の入ったようなのを、胸元で留めるようになっている。

「とと姉ちゃん」で、常子の編入した女学校では、いわゆる「赤い棒タイ」スタイルになっている。
これも、昭和の時代には、よく見かけたスタイルである。

こうしたセーラー服の制服スタイルが、いつから変化したのだろうか?
と考えてみると、あれは、おニャン子クラブの全盛期あたりだったのではないだろうか。
例の、あの、可愛い歌である。

それから、同時期に、「スケバン刑事」というのがあって、このスケバンスタイルというのが、セーラー服に、超ロングスカート、というところであった。

本当に、懐かしくもうれしい、制服物語である。
そうそう、松田聖子さんの、「制服」も、甘酸っぱい歌だった…。
あのころ、「東京」というのは、そういうところだったなぁ、なんて思う。


ところで、私の女学校時代、つまり、常子でいうと高校時代、ということなのだが、実は、制服は、着なかった。
北海道の高校ではよくある話だったのだが、制服は決まっていなくて、私服校だったのである。
だから、上着やブラウス、スカートの類が決まっていないだけではなくて、鞄も、靴も、帽子も、全部「自由」だったわけである。
小さな決まりといえば、学校に登校する際には、服のどこか一か所に、校章のバッジをつけてください、ということなのだが…。
誰も付けていなかった。
上履きは、学年で決まっていたかな、と思うが、ただの運動靴だったように思う。

そういう話を、とある年配の、インテリジェンスな男性にお話したところ、「それは非常に、リベラルな学校時代だったね」と言われて、「リベラル」ってそういう意味なんだなぁ、と思った。

また、ファッション大好きな男性からは、「いいなぁ」と心底言われたものである。
この「いいなぁ」は、うらやましいだけではなくて、こうした中学時代、高校時代、いわゆる思春期というのは、ファッションセンスを磨く、最大のチャンスだ、というのである。

アメリカやフランスなどでは、日本のように、学校に制服は存在しない。
それで、お化粧をしたり、エクステンションをしたり、自由なのだそうである。
この、思春期、十代の、一番、人目を気にする時期、あるいは、一番、個性化していく成長期に、日本のように、「制服」で、一元化すると、ファッションセンスが育たないのだそうである。

そう言われてみれば、日本人のファッションセンスって、国際的には最悪である。
これは、中学、高校で、「制服」という伝統があるからにちがいない。

異性の目を気にするのも十代のこの時期であるから、本当に、勉強はそっちのけで、毎朝、鏡を見て、衣裳選び、衣裳チェックである。

髪も毎日同じでは学校には行けない。
編み込み技術は女子の必須項目だった。

毎日、同じブラウスや同じ服装で行くわけにもいかない。
親に洗濯をしてもらうわけにいかないので、みんな、自分で洗濯をして、自分でアイロンがけをしていた。

仮に、ブラウス一枚、2900円だとして…。洗い替えを考えると、一週間で5枚は必要になるだろう。
スカート一枚、5900円だとして、三枚は必要だろう。
冬物と夏物、両方必要である。

上着は、カーディガンや、ブレザー、冬のコート、夏の羽織ものである。
それから、入学式や卒業式、あるいは、喪服として、スーツも必要である。

服に合わせた、バッグと帽子、靴も必要で、雨の日にはレインシューズ、雪の日には、長めのブーツ、ということになる。

結果、制服が決まっている学校より、高くつくのは必然である。

また、これは実際体験したから、であるが、ブランドものの服が好き、親に買ってもらえる、という生徒は、メンズビギのTシャツを着てきた。
トラッドでおしゃれに決めてくる男子生徒は、モテモテだった。
ビートルズファッションで、髪も前髪ぱっつんで学校に通っていた生徒もいる。

私も、そうしたファッション環境のなかで、自分らしいファッションセンスを磨いていった…と書きたいところだが、実際には、試行錯誤でたいへんだった。
垢ぬけないTシャツに、だぼだぼジーンズ、こんな格好で、毎日学校にくる生徒は、それなりの立場を覚悟しなければならない。

でも、リベラルで楽しかったと思う。

日本の学校も、すべて私服化するべきではないか、と私は思う。
私の主人も、そう思うそうである。
特に主人は、黒の詰襟を着ていたので、これが、ジーンズにTシャツで学校に行けるなら、楽でいい、というのである。
「夏、涼しい」という。

かの、黒沢和子女史が、衣裳を担当しているドラマ「とと姉ちゃん」。
常子は制服の学校で、どのようにファッションセンスを磨いていったのだろう?
気になるところだ。

今も昔も変わらないのは、「おしゃれしたい」という乙女心だろうか。
私も、スカートのヒダを寝押しして、うまくいかなくて、朝起きて、「きゃ~」となったことがあったなぁ!

♪ だけど、東京で変わってく、あなたの未来はしばれな~い~ ♪


2016年4月27日水曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第3週「常子、はじめて祖母と対面す」感想。

一家の大黒柱であり、唯一の稼ぎ手であった、父・竹蔵を失って、三姉妹と母の四人家族は、生活に困窮するようになる。
父の会社から出されていた援助も、とうとう打ち切りである。
そんなとき、この若い母親は、どんなふうに家族を守って、生活を切り拓こうとしたか。
縁を切ったはずの実家の母親(常子たちにとっては祖母にあたる)のところに、「帰る」という道である。

常子たち三姉妹にとっては、母の母、つまり祖母は、もう亡くなっていると聞かされていたようだ。
子どもたちにとって、生きている人を、死んだという嘘は、本当によくないことだ、と思う。

ここには事情があって、母・君子は、実家から、結婚を反対されて、家を飛び出した、というわけだった。
そのとき、実家の祖母・滝子とは、絶縁状態になったのである。

200年の暖簾を誇る材木問屋の「イエ」、この「イエ」の存続のために、お見合い結婚をさせられそうになったそうである。
それで、「自由に生きたい」「好きな人と結婚したい」と、意志を張って、滝子から勘当された、というわけなのである。

しかし、この結婚はうまくいかなかった、という結論になるだろうか、竹蔵は、結核で亡くなってしまったのである。
そうしたときに、祝福されなかった結婚、というのは、あまりにも孤立していて、つらいものである。

親との確執、親とのケンカは、誰でもあることだろう、と思う。
時には価値観のちがいから、縁を切るほど憎くなる、互いにわかりあえなくて対立することもあるだろう。

けれども、やはり結婚するときには、親から、親戚から、ご近所の人々から、友達から、祝福される結婚でありたいものである。

私はこう思う、古いのかもしれないけれども、結婚というのは、夫と妻とのふたりだけのことではなくて、たくさんの人々を縁結びするものである、と。
そして、若い夫婦は、大きな広い環境のなかで、新しい家庭という種を蒔き、その芽を、一生懸命育てていくものではないか、と。
そのときに欠かせないのが、太陽となり雨となり、大地ともなる、家族であり、環境、人間関係である、と思うのである。


個人主義がとても強くなってしまうと、これが良くない方向に傾くと、孤立状態を生んでしまう。
そのなかで、経済的にも精神的にも、追い詰められてしまうのではないか、と思う。

親との葛藤はあるもので、誰もが親を乗り越えて、大人になっていくものなのだろう。
でも、戻るべきところも助けてくれる人も、やはり親なのではないか、と思う。

話は少し横道にそれるようだけれども、「派遣村」というのがあって、都会で職を失くし、家も失くした人たちが、誰にも頼らずに、都会の片隅の屋根のないところで、年越しをする、という社会問題がある。
私は、この報道を見るたびに思うのだけれども、彼らはどうして、実家に、親元に、帰らないのだろうか?

いったん家に帰って、寝る場所と食べるものくらいは、提供してもらって、力をためて、そこからまた新しい就職先を探せばよいではないか、と思うのだ。
しかし、インタビューなどを聞くと、「ちゃんとした職に就いてから、親に報告する」というのである。
故郷に錦を飾るまで帰れない、ということだろうか。
それとも、本当に、何か、親との溝が深くなってしまって、帰りたくない、ということだろうか。

厳しい言い方のようだけれども、私はこうした、親と縁を切ったとか、親に顔見せできない、とかいう人は、他人とは仲良くできるけれども、血のつながった人とは仲良くできない、という人は、やはり何か本人に問題があって、人間関係がうまく構築できない人なのではないか、と思うのである。
そういう人が、派遣村などに集まって、職もなく家もなくさまよっている、というのは、何かとても根の深い問題であるように思う。


ところで、自由恋愛をめざし、家を出て恋愛結婚をした、君子の生き方は、当時、昭和のはじめごろ、としては、とても珍しいものだった、と言えると思う。

父と母が、そうした自由恋愛のもとに結婚したから、常子たち三姉妹も、近代化する日本社会のなかで、一歩リードした生き方、ライフスタイルを生きることになったのではないか、と思われる。

祖母・滝子の気持ちもわからないでもない。
実はきのう、「スタジオパークからこんにちは」を見てしまって、(ときどき見る)ゲストが、滝子役の、大地真央さんだったので、本当におきれいなかたで、みとれてしまった。
それでお話を聞いたのだけれども、役作りという点で、親子、母娘、という点で、とても真剣に取り組んでいらっしゃったと知った。

この祖母・滝子にしてみれば、もしも自分が母親だったら、可愛い娘が、自由恋愛をして「この男性と結婚したい」なんて、誰かを連れてきたら、どんなふうに思うだろう。
うちの主人は「まずぶっとばす」と言っている。

しかし、もしもっと冷静になって、この男性を見てみれば、それは、娘よりも大人であり、人生を長く生きてきて、人を見る目も確かになっているところであるから、「竹蔵」この男に、娘をまかせるわけにいかない、というところは、確実である。

なにしろ、竹蔵は、幼いころに両親を失っていて、親戚じゅうをたらいまわしにされながら育った経歴がある。
人間は経歴でも育ちでもないかもしれないが、それは、娘の結婚を考えれば、建前に過ぎない。
第一、実際に、竹蔵の弟は、定職に就かず、「一山当てる」ことを目論んで、ぷらぷらしているではないか。
この弟が、いずれ娘たち一家に、「たかり」にやってくることは、火を見るよりも明らかである。
そんなことくらいは、親である滝子には、お見通しである、ということなのだ。

また、滝子の「イエ」と、「シゴト」であるが、滝子自身が、「大変だったけれども、この道を生きてきてよかった」という強い思いと実感があるのではないだろうか。
そして、何よりも、仕事に誇りを持っている。

「暮しの手帖」の編集者である常子の祖母は、早くから、働く女性であり、管理職でもある、ということなのだ。
そうした祖母の生き方、仕事の仕方から、常子が学んだことも大きいということだろう。

働く女性として、娘にも、生きがいのある、張り合いのある人生を送らせてあげたい、それが、母親としての思いやりであり、娘への愛情だったのではないか、と思うのである。

娘が、家業を継がない、ということは、母にとっては、全人格の否定であり、これまでの母の全人生の否定だったのだろうと思う。
「母親をばかにしているの?」ととても悔しいだろうと思うのである。
親には親の、メンツというものがあって、それを守るために、我が子から尊敬されるために、日々、奮闘しているものだ。

そうした母の気持ちが、なかなか伝わらない。
でも、娘としても、人生経験のある年上の女性から、その体験に基づく教えを、素直に受ける姿勢も、大事だったのではないか、と思える。
言い方や口調もあるだろう。
娘は娘として、母親への愛情や尊敬を、もっと表してもよかったのかな、と思う。
「母親への尊敬」を表さないで、自分の我を通したあたりは、むしろ「お母さんとそっくりの強情娘」ということになるわけだ。

どちらから、セトモノであることをやめて、受け入れる気持ちになってもよいように思った。


ところで、「代々続く家を継ぐ」というのは、そんなに嫌なものなのだろうか?

私は、北海道で育った。
北海道は、開拓100年を少し過ぎたところであり、歴史が浅い。
それなので、「代々続く家」なんて、誰も持っていなかった。
だから、「実家の家業を継ぐ」「継ぐべき家業がある」という人は、珍しかった。
本州から来た友達は、けっこう「家業」のある人が多くて、そういう友達をうらやんだものなのである。

結局のところ、人は、自分にないもの、他人が持っているものが、うらやましくて仕方ないのかもしれない。
けれども昨今の、時代劇ブーム、歴史ブームを見ると、誰もが、個人主義にはあきあきしてきて、ルーツ、アイデンティティを、求めているような気がするのだけれども、どうだろうか?

これから、母と娘、祖母と孫娘は、どんなふうに「女性の幸せ」を追求していくのだろう?
本当に、楽しみな「とと姉ちゃん」である。



2016年4月25日月曜日

フジテレビ月9ドラマ「ラヴソング」感想。

月曜日の夜9時、といえば、フジテレビの月9ドラマ、と定番になっている。
これは、若い女性たちのライフスタイルにしっかりと根付いた、日課である。
月9といえば、「東京ラブストーリー」に始まって、「ロングバケーション」「HERO」と、日本のテレビドラマ史に残る名作を残してきた。

そのフジテレビのドラマが、このところ、視聴率の元気がない、という話である。
私もこのところは、仕事が多忙だったこともあって、撮り貯めしたテレビ番組を見られないときがあって、なんだか月9から遠ざかってしまっていた。

しかし、今回は、昨年、とうとう結婚して全国の女性たちに「ましゃロス」を引き起こした、福山雅治氏が、主演である。
試しに一回だけでも、と見てみた。

そして、落胆した。
あの、ドラマ全盛期、「ドラマのフジ」と呼ばれた看板が、泣くというものである。

まったく、ドラマとして、出来上がっていない、と正直思った。

最初のシーンは、おなじみの、最新流行のインテリアである。
私は、フジの現代ドラマで、最新のインテリアや小物を見るのが大好きなのだが、そのあたりは、期待に応える形である。

しかし、いかにも視聴者が、「ましゃにはこんな制服を着てほしい」「ましゃにこんなセリフを言われてみたい」というシーンのてんこ盛り、というところで、女性視聴者の理想を体現した、主人公の姿なのだろうが、結局は、視聴者を甘く見ている、というものである。
視聴者をばかにしているんじゃないか、と思えるストーリー展開もあった。
もう弾かないギター、「追悼」のチラシ、これから、この「訳アリ」で音楽をやめた主人公が、少女との出会いをきっかけに、過去の恋人(きっとたぶん、亡くなった、訳あり)あたりの心の傷をほどいていく、というストーリーだと思う。

そういえば、駆け出しの若い女性シンガーを、ドラマに使ったことも、かつて、そういうドラマあったと思う。

柳の下のどじょうを狙って、「あのときはやったもの」「あのときヒットしたもの」を、追いすぎて、中古ドラマの二番煎じを、何度も繰り返しているのだろうか。

福山雅治氏を起用するなら、もっと新しい、次の福山氏の、可能性を引っ張り出すこともできたのではないだろうか。
女性たちは今、恋をするのも仕事をするのも真剣である。
これまでのラブストーリーにしても、現実に真摯に恋に打ち込み、そして悩む女性たちのバイブルとなってきたから、感情移入できたのである。

「ラヴソング」の主人公像、どの姿をとっても、女性視聴者に、仮想恋愛を誘発しようとする手口が見え見えである。
なにかもっと素直な、純粋なラブストーリーが、かつてのフジドラマにはあった、そう思うと、残念でしかたない。



NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第2週「常子、妹のために走る」感想。

大好きな、竹蔵お父さんが亡くなってしまってから、5年がたっている。
2週目は、子役ではなくて、ヒロインの常子は、高畑充希さんになっている。
元気いっぱいの登場である。
亡きお父さんと約束したこと、三姉妹の「とと」代わりになること、お母さんと妹たちを守ること、このテーマで、常子は、悩み、考えながら、15歳を生きていく。

お母さんも、常子も鞠子も、それなりに自分の力で、父の死を乗り越えたと思われる。
特に長女の常子は、父から重大な使命を託されたので、責任感と、それからきっと、「誇り」があるだろう、と思われる。

末っ子の美子だけは、まだまだ父親のいない自分の人生を、受け入れることができていないようである。
小学校では、お友達がみんな、お父さんのお話をするので、すっかりまいってしまう。
暗い顔をして下を向いて、お友達とも話さないので、ちょっとした仲間はずれになっている。

これは、小さい子どもとしては、いわゆる「問題行動」の状態である。

現代の世の中だったら、学校の先生や、学校カウンセラー、親御さんがいっしょになって、こうした問題行動に取り組むことになるだろう。

ヒロイン常子は、幼い妹の、問題行動に取り組むことになる。
「私にはお父さんがいない」その悲しみをなんとか解決しようとして、「美子には、お母さんも、常子お姉さんも、鞠子お姉さんもいるでしょう」と言ってはみるけれど、「お姉ちゃんなんか大嫌い」「とと姉ちゃんなんか信じない」と、ふてくされて、ひとりで部屋に閉じこもっている。

常子は、美子の「とと」代わりになりたいと、町内の運動会に出て、かつてのお父さんの姿のように、一等賞をとろうとする。

私は思う。
心が傷ついて、友達と比べて自分が劣っているような気がするとき、友達と比べて自分の状況が何か足りないような気がするとき、何よりも落ち込んでいるときに、「やつあたり」をする相手がいることは、ありがたいことだ、と思うのである。

常子も鞠子もお母さんも、美子のために、翻弄される。
頭を悩ませる。
本当に困っている。

誰かひとりでも、「わたし」のために、こんなに困ってくれる人がいたら。
誰かを、本当に心から困らせて、悩ませて、時には泣かせることができたら。

そうしないと、とても癒えない心の傷、というのが、あるのだと思う。
誰かを、困らせて困らせて困らせて、そうしないと、とても心のバランスがとれない、ということなのだ。

逆に言えば、どんなに心が傷ついたときにでも、へそを曲げて、八つ当たりする相手がいる、ということは、とても大事なことで、どんなことも乗り越えられる、大事な人間関係になる。

世の中のお母さん、お父さんたちは、子どもの八つ当たりに対して、厳しい態度をとることもあるかもしれないけれども、学校や友達付き合いで傷ついた心を、家庭で癒すことができるのは、家庭の大切や役割だと思う。

常子と鞠子、そしてお母さんは、幼い美子にとって、大切な家族環境になっている。
家族を営み、家族を健全に維持している。
暖かい家族のなかで、幼い心、父を失った柔らかい心は、確実に、力強く、癒されていくのである。

とてもよい、第二週目であった。


2016年4月22日金曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」主題歌「花束を君に」宇多田ヒカル。


花束を君に

普段からメイクしない君が
薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう
涙色の
花束を君に

花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう
涙色の
花束を君に

2016年の4月から始まった、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。
ここ数年、朝のテレビ小説は、とても面白くて楽しくて、視聴率もグングンあがっているそうである。
そうしたなか、始まった新しいドラマは、「どんなふうになるかな」と、とても注目されているようだ。
私も、「どんなふうになるかな」「ヒロインはどんな道を選んで、どんなふうに悩んで、どんなふうに成長していくのかな」と、一緒に観て、一緒に悩んで、一緒に笑っている。

今回のドラマは、お父さんを早くに亡くした三姉妹とお母さんとが、昭和の時代をたくましく生き抜いていくストーリーである。
ヒロイン・常子の出発点、原点となるのは、早くに亡くなった、父親との「約束」である。
常子は、一生かけて、父・竹蔵との約束を守る。
そして、妹たちと母を守って、強くたくましく明るく生きるのである。

主題歌となった「花束を君に」は、この物語の、原点を歌った歌のようである。
「ようである」と書いたのは、宇多田ヒカルさんのこの歌が、いろいろな意味にとれる歌だからである。

宇多田ヒカルさんは、15歳のときに、「Automatic」で、鮮烈にデビューした。
アメリカのR&B、リズム&ブルースに、日本語の歌詞を見事に乗せた歌は、私たちにとって、とても新鮮だった。
それで夢中になったのだが、いざカラオケに行ってみると、歌えない。
日本で産まれて、アメリカで育った宇多田さんの、宇多田さんにしか歌えない、アメリカとも日本ともつかない、ミックスされた歌は、私たちにとっては、とてもむずかしかった。

今回の、「花束を君に」も、歌ってみると、本当にむずかしい。
聴いているだけならば、耳に心地よく、素直に伸びていく歌なのに、いざ歌おうと思うと、半音高かったり、八分音符ひとつ早く入っていたりして、本当にむずかしい。
宇多田さんならではの、本当に才能が生きた歌だ、と思う。

そして、宇多田さんの歌詞には、「宇多田ワールド」「宇多田主義」ともいうべき、思想・哲学があって、それは、生きる意味とか、恋心の深さとか、悲しみとか慈しみとかを表しているのである。

これまでにも、宇多田さんのアルバムを購入して、何度も聞き返したけれども、深い河のような、何か深淵に触れるような気持ちがして、気楽には聞けないかんじのときもあった。

今回の「花束を君に」の歌詞も、「君」が、男性なのか女性なのか、ドラマとリンクしていなければ、はっきりとはわからないところがある。
「薄化粧した朝」とは、結婚式なのか、お葬式なのか、それも、はっきりとわからないところもある。

また、薄化粧した「君」に、花束を贈ろうとしている「私」あるいは「僕」が、「君」とどんな関係なのかも、しっかりと明記されていないところがある。
だから、どんなふうにも、捉えることができる歌詞になっている。

「私」は、実は姉である常子で、「君」は、妹の鞠子かもしれない。
普段からあまりおしゃれはしないほうだけれども、その妹の鞠子が、いよいよお嫁さんに行く朝になって、結婚式の化粧をしているのかもしれない。
これまで見守ってきた姉としては、寂しかったり、うれしかったり、そう、うれし涙の、「涙色」かもしれないのだ。

そうして、幾重にも、想像を広げていけるのが、宇多田ワールドの、歌詞である。

それでも、ストレートに捉えれば、これは、常子が、亡くなる直前の父親と、交わした約束のことを描いているのだろう、と考えられる。
もしも、このあと、父親が「死」という終わりを迎えるのでなければ、この約束はそれほど重みを感じさせるものにはならなかったかもしれない。
「始まりと終わりの狭間」は、生きている間、出会って顔を突き合わせている間なのかもしれない。
その約束を、守ろう、としている。

あの父親が、常子に約束してほしかったのは、「三姉妹、女の子どうし、仲良く、たくましく、明るく生きていってほしい」
「そして、みんな幸せになってほしい」
「約束だよ」
という意味ではなかっただろうか。

最初の一週間で、父は消えてしまう。
残された、母と三姉妹、眠る前には、お布団を敷いて、皆で語り合うシーンが印象的である。
仲良く、明るく、そして、嘆くだけでなく幸せに、幸せに、どこまでも幸せになってほしい、幸せになることが、それが約束なんだ、と私は思うのである。

これから半年間、常子、鞠子、美子、三人姉妹の物語が続く。
ここに、母と祖母も集まって、女性たちが一生懸命生きていく物語が続く。
その物語の、15分の最初には、「お父さん」との約束の歌が、流れるのである。

リズムも、メロディも、とてもむずかしい歌である。
この歌を、心地よく歌えるまで、半年もかかるかもしれない。
でもそうやって、一生懸命、「お父さん」との約束を、果たしていきたい、と思う。
そういう、歌なんじゃないだろうか。
さあ、花束を、君に。








2016年4月8日金曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第一週「常子、父と約束する」感想。

毎朝、楽しみに観ている、NHK朝の連続テレビ小説は、秋から春までの放送「あさが来た」を終えた。
最終回のラストシーンでは、菜の花畑で再会する、夫婦の姿が描かれた。
視聴率もずっと高く、国民的な人気を維持した「あさが来た」の、このラストシーンには、感激の声も多いという。
本当によいドラマだった。
私も、大変な冬の季節を迎えていたが、その寒さを乗り越えるのに、本当に心の支えになってくれたドラマだった。
ありがたいことだ、と思う。

そして、4月からは、新しい季節、新しい人生、新しいドラマが始まる。
「とと姉ちゃん」は、前評判も高い、期待できるドラマである。

「暮しの手帖」という、昭和の時代に一世を風靡した、女性雑誌の創刊をした女性・大橋鎭子さんがモデルとなっている。
私は、どんなドラマになるのかな、とインターネットを駆使して、「暮しの手帖」や、モデルとなった大橋女史のことや、名編集長と呼ばれた花森安治氏のことも、おおまかに調べてみた。
それから、NHKのホームページもいろいろ読んでみた。

あれこれと、見どころの多いドラマのようである。
今回のドラマは、安倍政権の影響を大きく受けているようである。
「あさが来た」のときも、登場人物である、主人公の姉「はつ」の生き方や考え方、暮らし方を通して、「質素につつましく生活する」ということを、国民に訴えたかったようである。
今回の、「とと姉ちゃん」でも、「つつましい暮らしを大切にする」ということを、国民、特に女性たちに訴えたかったのではないか、と思う。
それは、安倍政権が、戦争をしようと計画していたからだと思う。

その戦争も無事回避され、パナマ文書も見つかって、世界情勢は大きく変わろうとしている。
そうした時期に、今さらながら、「質素倹約つつましい暮らし」を、国民に訴える必要はないのかもしれない。
言論統制はもう解けたのである。

しかし、放送が始まって、実際に見てみると、「昭和の暮らし」の、丁寧さ、美しさが伝わってきて、これは「見どころ」といっても差し支えない気がしてきた。
戦後の高度経済成長期が終わって、平成の世の中は、「もっと昭和の時代を見直そう」という気風が広がっている。
若い女性の間にも、「ナチュラルで丁寧な暮らし」が、静かに、自然に支持を広げているように思われる。

朝食の前に、鏡に向かって髪を梳かす、とか、ちゃぶ台を丁寧に拭くこと、きんとんを作るときに、ふかしてから裏ごしすること、着物は畳に広げて丁寧にたたむこと…。
あるいは、ふすまに空いた穴は、桜の花形に切った紙で、きれいに貼って補修すること…。
どれをとっても、「美しい暮らし」という気がする。
「暮しの手帖」の基本になった、三姉妹とご両親の、昭和の暮らしである。
こうしたところを、見どころとして見ていきたいように思う。

「昭和の暮らし」につながっていくところでは、目をキラキラさせて、見つめたいところがある。衣裳の担当が、映画監督・黒沢明氏のご息女である、黒沢和子さんである、ということである。
「暮しの手帖」の前身となった「スタイルブック」が、衣装、ファッションの雑誌であるので、ドラマ全編を通して、ファッションには、とてもとても、期待できそうで、うれしい、と思うのである。

見どころはまだまだある。
私が、疑問にも思い、問題にも思うのは、「とと姉ちゃん」の成長過程である。
つまり、母子家庭の父親代わりになった、長女の成長する姿である。
なんらかの理由で、ある家庭が母子家庭になると、残された親、母親が、長女、あるいは長男を、夫代わりにしてしまうことがある。
そうしないと、未亡人にとっては、家庭を形成できない、ということかもしれない。

これは、長男、長女にとって、アイデンティティの形成期に、大きな影響を及ぼすことは、みなが知っているとおりである。
幼いながら、夫代わりを果たさなくてはならない子どもが、いわゆる「子どもらしい成長期」を持つことができず、親に充分甘えることができずに、精神的な発達の偏りを起こしてしまう、ということである。

そして、小さいときはまだしも、大人になってから、ノイローゼや、うつ病になってしまう。

今回のヒロインの背景は、最初から、母子家庭の父親代わり、ということで、見ていてかわいそうでしかたないかんじがする。
このあたりを、脚本家の西田征史氏がどのような手腕で描いていくのか、注目されるところである。


見どころは、まだもうひとつある。
私が思う大きな見どころは、ヒロイン常子の恋愛と結婚である。
モデルとなった大橋女史は、結婚されていない。
しかし、「暮しの手帖」の名編集長・花森安治氏とは、かなり接近した仲であったようである。
仕事上の最高のパートナーでありながら、結婚はしなかった、恋愛という仲でもなかったことを、周囲の人たちにも世間にも、強く訴えているようである。
この姿は、ドイツの哲学者、サルトルと、女性論で名高いボーヴォワールのことを連想させる。
ボーヴォワールの著作「第二の性」は、フェミニズムを思う女性にとっては、必読の書である。

結婚しない、「恋人」とも呼びあわない、対等な男女関係がそこにはあったのではないか、と私には思われるのである。
このあたりで、現代社会の、結婚や恋人や、恋愛や男女平等に関わる、たくさんの不満や疑問に対して、ヒロイン常子が、あるひとつの「男女のありかた」「わたしたちの形」を、提案してくれるのではないか、と思うのである。

美しい、一冊の雑誌、一遍のエッセー。
清く明るく美しい昭和の時代に、新しい女性の生き方を広げていった、ヒロイン「とと姉ちゃん」このドラマに、期待したいと思う。