2016年4月30日土曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第4週「常子、編入試験に挑む」感想。

毎朝の、元気の源「とと姉ちゃん」も、第4週を終えた。
春から初夏へと季節が移り変わっていく。
春の人事異動や卒業、入学、就職で、ライフスタイルが変化した人も、毎朝の「とと姉ちゃん」と一緒に、毎日の日課を作っていたのではないだろうか。
その「変化のあった視聴者」にとって、どんな困難にもめげない、どんな環境の変化も乗り越えていく、ヒロイン常子は、本当に励まされる存在である。

今週は、しつこく(?)制服問題が出てきた。
NHKにとっても、「ポイント稼げる」テーマであるのかもしれない。
今、女性たちの生き方や生活そのものが、社会問題になっているので、そうしたあたりを、はずさずに描いてくるところが、脚本家・西田征史氏と、プロデューサー・落合将氏の視点の良いところだと思う。

制服、というと、数々の思い出がある、というのが、大半の視聴者ではないだろうか。
私も、甘酸っぱい思い出が、たくさんある。
「♪ セーラーの薄いスカーフで、止まった時間を結びたい~ ♪」
そう、あのスカーフは、とても薄かった。
大人になってから、いわゆる「男子」と話をして、「セーラー服のスカーフって、本当に薄いの?」なんて聞かれたものである。
ついで、「あの服、どうやってできてるの?」「どうやって着るの?」なんて話も、したものである。

セーラーのスカーフが、自分ではうまく結べなくて、女子生徒同士で、休み時間に、結びあいっこなんかもしたものだ。

本当になつかしい。

大半の学校の女子の制服が、セーラー服だったのが、このところは、ブレザースタイルに変化してきているようだ。
AKB48などを見ても、アニメを見ても、高校生や中学生の制服というと、ブレザーである。
つまり、襟つきの上着に、チェックのスカート、といういでたちで、リボンは、縞の入ったようなのを、胸元で留めるようになっている。

「とと姉ちゃん」で、常子の編入した女学校では、いわゆる「赤い棒タイ」スタイルになっている。
これも、昭和の時代には、よく見かけたスタイルである。

こうしたセーラー服の制服スタイルが、いつから変化したのだろうか?
と考えてみると、あれは、おニャン子クラブの全盛期あたりだったのではないだろうか。
例の、あの、可愛い歌である。

それから、同時期に、「スケバン刑事」というのがあって、このスケバンスタイルというのが、セーラー服に、超ロングスカート、というところであった。

本当に、懐かしくもうれしい、制服物語である。
そうそう、松田聖子さんの、「制服」も、甘酸っぱい歌だった…。
あのころ、「東京」というのは、そういうところだったなぁ、なんて思う。


ところで、私の女学校時代、つまり、常子でいうと高校時代、ということなのだが、実は、制服は、着なかった。
北海道の高校ではよくある話だったのだが、制服は決まっていなくて、私服校だったのである。
だから、上着やブラウス、スカートの類が決まっていないだけではなくて、鞄も、靴も、帽子も、全部「自由」だったわけである。
小さな決まりといえば、学校に登校する際には、服のどこか一か所に、校章のバッジをつけてください、ということなのだが…。
誰も付けていなかった。
上履きは、学年で決まっていたかな、と思うが、ただの運動靴だったように思う。

そういう話を、とある年配の、インテリジェンスな男性にお話したところ、「それは非常に、リベラルな学校時代だったね」と言われて、「リベラル」ってそういう意味なんだなぁ、と思った。

また、ファッション大好きな男性からは、「いいなぁ」と心底言われたものである。
この「いいなぁ」は、うらやましいだけではなくて、こうした中学時代、高校時代、いわゆる思春期というのは、ファッションセンスを磨く、最大のチャンスだ、というのである。

アメリカやフランスなどでは、日本のように、学校に制服は存在しない。
それで、お化粧をしたり、エクステンションをしたり、自由なのだそうである。
この、思春期、十代の、一番、人目を気にする時期、あるいは、一番、個性化していく成長期に、日本のように、「制服」で、一元化すると、ファッションセンスが育たないのだそうである。

そう言われてみれば、日本人のファッションセンスって、国際的には最悪である。
これは、中学、高校で、「制服」という伝統があるからにちがいない。

異性の目を気にするのも十代のこの時期であるから、本当に、勉強はそっちのけで、毎朝、鏡を見て、衣裳選び、衣裳チェックである。

髪も毎日同じでは学校には行けない。
編み込み技術は女子の必須項目だった。

毎日、同じブラウスや同じ服装で行くわけにもいかない。
親に洗濯をしてもらうわけにいかないので、みんな、自分で洗濯をして、自分でアイロンがけをしていた。

仮に、ブラウス一枚、2900円だとして…。洗い替えを考えると、一週間で5枚は必要になるだろう。
スカート一枚、5900円だとして、三枚は必要だろう。
冬物と夏物、両方必要である。

上着は、カーディガンや、ブレザー、冬のコート、夏の羽織ものである。
それから、入学式や卒業式、あるいは、喪服として、スーツも必要である。

服に合わせた、バッグと帽子、靴も必要で、雨の日にはレインシューズ、雪の日には、長めのブーツ、ということになる。

結果、制服が決まっている学校より、高くつくのは必然である。

また、これは実際体験したから、であるが、ブランドものの服が好き、親に買ってもらえる、という生徒は、メンズビギのTシャツを着てきた。
トラッドでおしゃれに決めてくる男子生徒は、モテモテだった。
ビートルズファッションで、髪も前髪ぱっつんで学校に通っていた生徒もいる。

私も、そうしたファッション環境のなかで、自分らしいファッションセンスを磨いていった…と書きたいところだが、実際には、試行錯誤でたいへんだった。
垢ぬけないTシャツに、だぼだぼジーンズ、こんな格好で、毎日学校にくる生徒は、それなりの立場を覚悟しなければならない。

でも、リベラルで楽しかったと思う。

日本の学校も、すべて私服化するべきではないか、と私は思う。
私の主人も、そう思うそうである。
特に主人は、黒の詰襟を着ていたので、これが、ジーンズにTシャツで学校に行けるなら、楽でいい、というのである。
「夏、涼しい」という。

かの、黒沢和子女史が、衣裳を担当しているドラマ「とと姉ちゃん」。
常子は制服の学校で、どのようにファッションセンスを磨いていったのだろう?
気になるところだ。

今も昔も変わらないのは、「おしゃれしたい」という乙女心だろうか。
私も、スカートのヒダを寝押しして、うまくいかなくて、朝起きて、「きゃ~」となったことがあったなぁ!

♪ だけど、東京で変わってく、あなたの未来はしばれな~い~ ♪


2016年4月27日水曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第3週「常子、はじめて祖母と対面す」感想。

一家の大黒柱であり、唯一の稼ぎ手であった、父・竹蔵を失って、三姉妹と母の四人家族は、生活に困窮するようになる。
父の会社から出されていた援助も、とうとう打ち切りである。
そんなとき、この若い母親は、どんなふうに家族を守って、生活を切り拓こうとしたか。
縁を切ったはずの実家の母親(常子たちにとっては祖母にあたる)のところに、「帰る」という道である。

常子たち三姉妹にとっては、母の母、つまり祖母は、もう亡くなっていると聞かされていたようだ。
子どもたちにとって、生きている人を、死んだという嘘は、本当によくないことだ、と思う。

ここには事情があって、母・君子は、実家から、結婚を反対されて、家を飛び出した、というわけだった。
そのとき、実家の祖母・滝子とは、絶縁状態になったのである。

200年の暖簾を誇る材木問屋の「イエ」、この「イエ」の存続のために、お見合い結婚をさせられそうになったそうである。
それで、「自由に生きたい」「好きな人と結婚したい」と、意志を張って、滝子から勘当された、というわけなのである。

しかし、この結婚はうまくいかなかった、という結論になるだろうか、竹蔵は、結核で亡くなってしまったのである。
そうしたときに、祝福されなかった結婚、というのは、あまりにも孤立していて、つらいものである。

親との確執、親とのケンカは、誰でもあることだろう、と思う。
時には価値観のちがいから、縁を切るほど憎くなる、互いにわかりあえなくて対立することもあるだろう。

けれども、やはり結婚するときには、親から、親戚から、ご近所の人々から、友達から、祝福される結婚でありたいものである。

私はこう思う、古いのかもしれないけれども、結婚というのは、夫と妻とのふたりだけのことではなくて、たくさんの人々を縁結びするものである、と。
そして、若い夫婦は、大きな広い環境のなかで、新しい家庭という種を蒔き、その芽を、一生懸命育てていくものではないか、と。
そのときに欠かせないのが、太陽となり雨となり、大地ともなる、家族であり、環境、人間関係である、と思うのである。


個人主義がとても強くなってしまうと、これが良くない方向に傾くと、孤立状態を生んでしまう。
そのなかで、経済的にも精神的にも、追い詰められてしまうのではないか、と思う。

親との葛藤はあるもので、誰もが親を乗り越えて、大人になっていくものなのだろう。
でも、戻るべきところも助けてくれる人も、やはり親なのではないか、と思う。

話は少し横道にそれるようだけれども、「派遣村」というのがあって、都会で職を失くし、家も失くした人たちが、誰にも頼らずに、都会の片隅の屋根のないところで、年越しをする、という社会問題がある。
私は、この報道を見るたびに思うのだけれども、彼らはどうして、実家に、親元に、帰らないのだろうか?

いったん家に帰って、寝る場所と食べるものくらいは、提供してもらって、力をためて、そこからまた新しい就職先を探せばよいではないか、と思うのだ。
しかし、インタビューなどを聞くと、「ちゃんとした職に就いてから、親に報告する」というのである。
故郷に錦を飾るまで帰れない、ということだろうか。
それとも、本当に、何か、親との溝が深くなってしまって、帰りたくない、ということだろうか。

厳しい言い方のようだけれども、私はこうした、親と縁を切ったとか、親に顔見せできない、とかいう人は、他人とは仲良くできるけれども、血のつながった人とは仲良くできない、という人は、やはり何か本人に問題があって、人間関係がうまく構築できない人なのではないか、と思うのである。
そういう人が、派遣村などに集まって、職もなく家もなくさまよっている、というのは、何かとても根の深い問題であるように思う。


ところで、自由恋愛をめざし、家を出て恋愛結婚をした、君子の生き方は、当時、昭和のはじめごろ、としては、とても珍しいものだった、と言えると思う。

父と母が、そうした自由恋愛のもとに結婚したから、常子たち三姉妹も、近代化する日本社会のなかで、一歩リードした生き方、ライフスタイルを生きることになったのではないか、と思われる。

祖母・滝子の気持ちもわからないでもない。
実はきのう、「スタジオパークからこんにちは」を見てしまって、(ときどき見る)ゲストが、滝子役の、大地真央さんだったので、本当におきれいなかたで、みとれてしまった。
それでお話を聞いたのだけれども、役作りという点で、親子、母娘、という点で、とても真剣に取り組んでいらっしゃったと知った。

この祖母・滝子にしてみれば、もしも自分が母親だったら、可愛い娘が、自由恋愛をして「この男性と結婚したい」なんて、誰かを連れてきたら、どんなふうに思うだろう。
うちの主人は「まずぶっとばす」と言っている。

しかし、もしもっと冷静になって、この男性を見てみれば、それは、娘よりも大人であり、人生を長く生きてきて、人を見る目も確かになっているところであるから、「竹蔵」この男に、娘をまかせるわけにいかない、というところは、確実である。

なにしろ、竹蔵は、幼いころに両親を失っていて、親戚じゅうをたらいまわしにされながら育った経歴がある。
人間は経歴でも育ちでもないかもしれないが、それは、娘の結婚を考えれば、建前に過ぎない。
第一、実際に、竹蔵の弟は、定職に就かず、「一山当てる」ことを目論んで、ぷらぷらしているではないか。
この弟が、いずれ娘たち一家に、「たかり」にやってくることは、火を見るよりも明らかである。
そんなことくらいは、親である滝子には、お見通しである、ということなのだ。

また、滝子の「イエ」と、「シゴト」であるが、滝子自身が、「大変だったけれども、この道を生きてきてよかった」という強い思いと実感があるのではないだろうか。
そして、何よりも、仕事に誇りを持っている。

「暮しの手帖」の編集者である常子の祖母は、早くから、働く女性であり、管理職でもある、ということなのだ。
そうした祖母の生き方、仕事の仕方から、常子が学んだことも大きいということだろう。

働く女性として、娘にも、生きがいのある、張り合いのある人生を送らせてあげたい、それが、母親としての思いやりであり、娘への愛情だったのではないか、と思うのである。

娘が、家業を継がない、ということは、母にとっては、全人格の否定であり、これまでの母の全人生の否定だったのだろうと思う。
「母親をばかにしているの?」ととても悔しいだろうと思うのである。
親には親の、メンツというものがあって、それを守るために、我が子から尊敬されるために、日々、奮闘しているものだ。

そうした母の気持ちが、なかなか伝わらない。
でも、娘としても、人生経験のある年上の女性から、その体験に基づく教えを、素直に受ける姿勢も、大事だったのではないか、と思える。
言い方や口調もあるだろう。
娘は娘として、母親への愛情や尊敬を、もっと表してもよかったのかな、と思う。
「母親への尊敬」を表さないで、自分の我を通したあたりは、むしろ「お母さんとそっくりの強情娘」ということになるわけだ。

どちらから、セトモノであることをやめて、受け入れる気持ちになってもよいように思った。


ところで、「代々続く家を継ぐ」というのは、そんなに嫌なものなのだろうか?

私は、北海道で育った。
北海道は、開拓100年を少し過ぎたところであり、歴史が浅い。
それなので、「代々続く家」なんて、誰も持っていなかった。
だから、「実家の家業を継ぐ」「継ぐべき家業がある」という人は、珍しかった。
本州から来た友達は、けっこう「家業」のある人が多くて、そういう友達をうらやんだものなのである。

結局のところ、人は、自分にないもの、他人が持っているものが、うらやましくて仕方ないのかもしれない。
けれども昨今の、時代劇ブーム、歴史ブームを見ると、誰もが、個人主義にはあきあきしてきて、ルーツ、アイデンティティを、求めているような気がするのだけれども、どうだろうか?

これから、母と娘、祖母と孫娘は、どんなふうに「女性の幸せ」を追求していくのだろう?
本当に、楽しみな「とと姉ちゃん」である。



2016年4月25日月曜日

フジテレビ月9ドラマ「ラヴソング」感想。

月曜日の夜9時、といえば、フジテレビの月9ドラマ、と定番になっている。
これは、若い女性たちのライフスタイルにしっかりと根付いた、日課である。
月9といえば、「東京ラブストーリー」に始まって、「ロングバケーション」「HERO」と、日本のテレビドラマ史に残る名作を残してきた。

そのフジテレビのドラマが、このところ、視聴率の元気がない、という話である。
私もこのところは、仕事が多忙だったこともあって、撮り貯めしたテレビ番組を見られないときがあって、なんだか月9から遠ざかってしまっていた。

しかし、今回は、昨年、とうとう結婚して全国の女性たちに「ましゃロス」を引き起こした、福山雅治氏が、主演である。
試しに一回だけでも、と見てみた。

そして、落胆した。
あの、ドラマ全盛期、「ドラマのフジ」と呼ばれた看板が、泣くというものである。

まったく、ドラマとして、出来上がっていない、と正直思った。

最初のシーンは、おなじみの、最新流行のインテリアである。
私は、フジの現代ドラマで、最新のインテリアや小物を見るのが大好きなのだが、そのあたりは、期待に応える形である。

しかし、いかにも視聴者が、「ましゃにはこんな制服を着てほしい」「ましゃにこんなセリフを言われてみたい」というシーンのてんこ盛り、というところで、女性視聴者の理想を体現した、主人公の姿なのだろうが、結局は、視聴者を甘く見ている、というものである。
視聴者をばかにしているんじゃないか、と思えるストーリー展開もあった。
もう弾かないギター、「追悼」のチラシ、これから、この「訳アリ」で音楽をやめた主人公が、少女との出会いをきっかけに、過去の恋人(きっとたぶん、亡くなった、訳あり)あたりの心の傷をほどいていく、というストーリーだと思う。

そういえば、駆け出しの若い女性シンガーを、ドラマに使ったことも、かつて、そういうドラマあったと思う。

柳の下のどじょうを狙って、「あのときはやったもの」「あのときヒットしたもの」を、追いすぎて、中古ドラマの二番煎じを、何度も繰り返しているのだろうか。

福山雅治氏を起用するなら、もっと新しい、次の福山氏の、可能性を引っ張り出すこともできたのではないだろうか。
女性たちは今、恋をするのも仕事をするのも真剣である。
これまでのラブストーリーにしても、現実に真摯に恋に打ち込み、そして悩む女性たちのバイブルとなってきたから、感情移入できたのである。

「ラヴソング」の主人公像、どの姿をとっても、女性視聴者に、仮想恋愛を誘発しようとする手口が見え見えである。
なにかもっと素直な、純粋なラブストーリーが、かつてのフジドラマにはあった、そう思うと、残念でしかたない。



NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第2週「常子、妹のために走る」感想。

大好きな、竹蔵お父さんが亡くなってしまってから、5年がたっている。
2週目は、子役ではなくて、ヒロインの常子は、高畑充希さんになっている。
元気いっぱいの登場である。
亡きお父さんと約束したこと、三姉妹の「とと」代わりになること、お母さんと妹たちを守ること、このテーマで、常子は、悩み、考えながら、15歳を生きていく。

お母さんも、常子も鞠子も、それなりに自分の力で、父の死を乗り越えたと思われる。
特に長女の常子は、父から重大な使命を託されたので、責任感と、それからきっと、「誇り」があるだろう、と思われる。

末っ子の美子だけは、まだまだ父親のいない自分の人生を、受け入れることができていないようである。
小学校では、お友達がみんな、お父さんのお話をするので、すっかりまいってしまう。
暗い顔をして下を向いて、お友達とも話さないので、ちょっとした仲間はずれになっている。

これは、小さい子どもとしては、いわゆる「問題行動」の状態である。

現代の世の中だったら、学校の先生や、学校カウンセラー、親御さんがいっしょになって、こうした問題行動に取り組むことになるだろう。

ヒロイン常子は、幼い妹の、問題行動に取り組むことになる。
「私にはお父さんがいない」その悲しみをなんとか解決しようとして、「美子には、お母さんも、常子お姉さんも、鞠子お姉さんもいるでしょう」と言ってはみるけれど、「お姉ちゃんなんか大嫌い」「とと姉ちゃんなんか信じない」と、ふてくされて、ひとりで部屋に閉じこもっている。

常子は、美子の「とと」代わりになりたいと、町内の運動会に出て、かつてのお父さんの姿のように、一等賞をとろうとする。

私は思う。
心が傷ついて、友達と比べて自分が劣っているような気がするとき、友達と比べて自分の状況が何か足りないような気がするとき、何よりも落ち込んでいるときに、「やつあたり」をする相手がいることは、ありがたいことだ、と思うのである。

常子も鞠子もお母さんも、美子のために、翻弄される。
頭を悩ませる。
本当に困っている。

誰かひとりでも、「わたし」のために、こんなに困ってくれる人がいたら。
誰かを、本当に心から困らせて、悩ませて、時には泣かせることができたら。

そうしないと、とても癒えない心の傷、というのが、あるのだと思う。
誰かを、困らせて困らせて困らせて、そうしないと、とても心のバランスがとれない、ということなのだ。

逆に言えば、どんなに心が傷ついたときにでも、へそを曲げて、八つ当たりする相手がいる、ということは、とても大事なことで、どんなことも乗り越えられる、大事な人間関係になる。

世の中のお母さん、お父さんたちは、子どもの八つ当たりに対して、厳しい態度をとることもあるかもしれないけれども、学校や友達付き合いで傷ついた心を、家庭で癒すことができるのは、家庭の大切や役割だと思う。

常子と鞠子、そしてお母さんは、幼い美子にとって、大切な家族環境になっている。
家族を営み、家族を健全に維持している。
暖かい家族のなかで、幼い心、父を失った柔らかい心は、確実に、力強く、癒されていくのである。

とてもよい、第二週目であった。


2016年4月22日金曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」主題歌「花束を君に」宇多田ヒカル。


花束を君に

普段からメイクしない君が
薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう
涙色の
花束を君に

花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう
涙色の
花束を君に

2016年の4月から始まった、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。
ここ数年、朝のテレビ小説は、とても面白くて楽しくて、視聴率もグングンあがっているそうである。
そうしたなか、始まった新しいドラマは、「どんなふうになるかな」と、とても注目されているようだ。
私も、「どんなふうになるかな」「ヒロインはどんな道を選んで、どんなふうに悩んで、どんなふうに成長していくのかな」と、一緒に観て、一緒に悩んで、一緒に笑っている。

今回のドラマは、お父さんを早くに亡くした三姉妹とお母さんとが、昭和の時代をたくましく生き抜いていくストーリーである。
ヒロイン・常子の出発点、原点となるのは、早くに亡くなった、父親との「約束」である。
常子は、一生かけて、父・竹蔵との約束を守る。
そして、妹たちと母を守って、強くたくましく明るく生きるのである。

主題歌となった「花束を君に」は、この物語の、原点を歌った歌のようである。
「ようである」と書いたのは、宇多田ヒカルさんのこの歌が、いろいろな意味にとれる歌だからである。

宇多田ヒカルさんは、15歳のときに、「Automatic」で、鮮烈にデビューした。
アメリカのR&B、リズム&ブルースに、日本語の歌詞を見事に乗せた歌は、私たちにとって、とても新鮮だった。
それで夢中になったのだが、いざカラオケに行ってみると、歌えない。
日本で産まれて、アメリカで育った宇多田さんの、宇多田さんにしか歌えない、アメリカとも日本ともつかない、ミックスされた歌は、私たちにとっては、とてもむずかしかった。

今回の、「花束を君に」も、歌ってみると、本当にむずかしい。
聴いているだけならば、耳に心地よく、素直に伸びていく歌なのに、いざ歌おうと思うと、半音高かったり、八分音符ひとつ早く入っていたりして、本当にむずかしい。
宇多田さんならではの、本当に才能が生きた歌だ、と思う。

そして、宇多田さんの歌詞には、「宇多田ワールド」「宇多田主義」ともいうべき、思想・哲学があって、それは、生きる意味とか、恋心の深さとか、悲しみとか慈しみとかを表しているのである。

これまでにも、宇多田さんのアルバムを購入して、何度も聞き返したけれども、深い河のような、何か深淵に触れるような気持ちがして、気楽には聞けないかんじのときもあった。

今回の「花束を君に」の歌詞も、「君」が、男性なのか女性なのか、ドラマとリンクしていなければ、はっきりとはわからないところがある。
「薄化粧した朝」とは、結婚式なのか、お葬式なのか、それも、はっきりとわからないところもある。

また、薄化粧した「君」に、花束を贈ろうとしている「私」あるいは「僕」が、「君」とどんな関係なのかも、しっかりと明記されていないところがある。
だから、どんなふうにも、捉えることができる歌詞になっている。

「私」は、実は姉である常子で、「君」は、妹の鞠子かもしれない。
普段からあまりおしゃれはしないほうだけれども、その妹の鞠子が、いよいよお嫁さんに行く朝になって、結婚式の化粧をしているのかもしれない。
これまで見守ってきた姉としては、寂しかったり、うれしかったり、そう、うれし涙の、「涙色」かもしれないのだ。

そうして、幾重にも、想像を広げていけるのが、宇多田ワールドの、歌詞である。

それでも、ストレートに捉えれば、これは、常子が、亡くなる直前の父親と、交わした約束のことを描いているのだろう、と考えられる。
もしも、このあと、父親が「死」という終わりを迎えるのでなければ、この約束はそれほど重みを感じさせるものにはならなかったかもしれない。
「始まりと終わりの狭間」は、生きている間、出会って顔を突き合わせている間なのかもしれない。
その約束を、守ろう、としている。

あの父親が、常子に約束してほしかったのは、「三姉妹、女の子どうし、仲良く、たくましく、明るく生きていってほしい」
「そして、みんな幸せになってほしい」
「約束だよ」
という意味ではなかっただろうか。

最初の一週間で、父は消えてしまう。
残された、母と三姉妹、眠る前には、お布団を敷いて、皆で語り合うシーンが印象的である。
仲良く、明るく、そして、嘆くだけでなく幸せに、幸せに、どこまでも幸せになってほしい、幸せになることが、それが約束なんだ、と私は思うのである。

これから半年間、常子、鞠子、美子、三人姉妹の物語が続く。
ここに、母と祖母も集まって、女性たちが一生懸命生きていく物語が続く。
その物語の、15分の最初には、「お父さん」との約束の歌が、流れるのである。

リズムも、メロディも、とてもむずかしい歌である。
この歌を、心地よく歌えるまで、半年もかかるかもしれない。
でもそうやって、一生懸命、「お父さん」との約束を、果たしていきたい、と思う。
そういう、歌なんじゃないだろうか。
さあ、花束を、君に。








2016年4月8日金曜日

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第一週「常子、父と約束する」感想。

毎朝、楽しみに観ている、NHK朝の連続テレビ小説は、秋から春までの放送「あさが来た」を終えた。
最終回のラストシーンでは、菜の花畑で再会する、夫婦の姿が描かれた。
視聴率もずっと高く、国民的な人気を維持した「あさが来た」の、このラストシーンには、感激の声も多いという。
本当によいドラマだった。
私も、大変な冬の季節を迎えていたが、その寒さを乗り越えるのに、本当に心の支えになってくれたドラマだった。
ありがたいことだ、と思う。

そして、4月からは、新しい季節、新しい人生、新しいドラマが始まる。
「とと姉ちゃん」は、前評判も高い、期待できるドラマである。

「暮しの手帖」という、昭和の時代に一世を風靡した、女性雑誌の創刊をした女性・大橋鎭子さんがモデルとなっている。
私は、どんなドラマになるのかな、とインターネットを駆使して、「暮しの手帖」や、モデルとなった大橋女史のことや、名編集長と呼ばれた花森安治氏のことも、おおまかに調べてみた。
それから、NHKのホームページもいろいろ読んでみた。

あれこれと、見どころの多いドラマのようである。
今回のドラマは、安倍政権の影響を大きく受けているようである。
「あさが来た」のときも、登場人物である、主人公の姉「はつ」の生き方や考え方、暮らし方を通して、「質素につつましく生活する」ということを、国民に訴えたかったようである。
今回の、「とと姉ちゃん」でも、「つつましい暮らしを大切にする」ということを、国民、特に女性たちに訴えたかったのではないか、と思う。
それは、安倍政権が、戦争をしようと計画していたからだと思う。

その戦争も無事回避され、パナマ文書も見つかって、世界情勢は大きく変わろうとしている。
そうした時期に、今さらながら、「質素倹約つつましい暮らし」を、国民に訴える必要はないのかもしれない。
言論統制はもう解けたのである。

しかし、放送が始まって、実際に見てみると、「昭和の暮らし」の、丁寧さ、美しさが伝わってきて、これは「見どころ」といっても差し支えない気がしてきた。
戦後の高度経済成長期が終わって、平成の世の中は、「もっと昭和の時代を見直そう」という気風が広がっている。
若い女性の間にも、「ナチュラルで丁寧な暮らし」が、静かに、自然に支持を広げているように思われる。

朝食の前に、鏡に向かって髪を梳かす、とか、ちゃぶ台を丁寧に拭くこと、きんとんを作るときに、ふかしてから裏ごしすること、着物は畳に広げて丁寧にたたむこと…。
あるいは、ふすまに空いた穴は、桜の花形に切った紙で、きれいに貼って補修すること…。
どれをとっても、「美しい暮らし」という気がする。
「暮しの手帖」の基本になった、三姉妹とご両親の、昭和の暮らしである。
こうしたところを、見どころとして見ていきたいように思う。

「昭和の暮らし」につながっていくところでは、目をキラキラさせて、見つめたいところがある。衣裳の担当が、映画監督・黒沢明氏のご息女である、黒沢和子さんである、ということである。
「暮しの手帖」の前身となった「スタイルブック」が、衣装、ファッションの雑誌であるので、ドラマ全編を通して、ファッションには、とてもとても、期待できそうで、うれしい、と思うのである。

見どころはまだまだある。
私が、疑問にも思い、問題にも思うのは、「とと姉ちゃん」の成長過程である。
つまり、母子家庭の父親代わりになった、長女の成長する姿である。
なんらかの理由で、ある家庭が母子家庭になると、残された親、母親が、長女、あるいは長男を、夫代わりにしてしまうことがある。
そうしないと、未亡人にとっては、家庭を形成できない、ということかもしれない。

これは、長男、長女にとって、アイデンティティの形成期に、大きな影響を及ぼすことは、みなが知っているとおりである。
幼いながら、夫代わりを果たさなくてはならない子どもが、いわゆる「子どもらしい成長期」を持つことができず、親に充分甘えることができずに、精神的な発達の偏りを起こしてしまう、ということである。

そして、小さいときはまだしも、大人になってから、ノイローゼや、うつ病になってしまう。

今回のヒロインの背景は、最初から、母子家庭の父親代わり、ということで、見ていてかわいそうでしかたないかんじがする。
このあたりを、脚本家の西田征史氏がどのような手腕で描いていくのか、注目されるところである。


見どころは、まだもうひとつある。
私が思う大きな見どころは、ヒロイン常子の恋愛と結婚である。
モデルとなった大橋女史は、結婚されていない。
しかし、「暮しの手帖」の名編集長・花森安治氏とは、かなり接近した仲であったようである。
仕事上の最高のパートナーでありながら、結婚はしなかった、恋愛という仲でもなかったことを、周囲の人たちにも世間にも、強く訴えているようである。
この姿は、ドイツの哲学者、サルトルと、女性論で名高いボーヴォワールのことを連想させる。
ボーヴォワールの著作「第二の性」は、フェミニズムを思う女性にとっては、必読の書である。

結婚しない、「恋人」とも呼びあわない、対等な男女関係がそこにはあったのではないか、と私には思われるのである。
このあたりで、現代社会の、結婚や恋人や、恋愛や男女平等に関わる、たくさんの不満や疑問に対して、ヒロイン常子が、あるひとつの「男女のありかた」「わたしたちの形」を、提案してくれるのではないか、と思うのである。

美しい、一冊の雑誌、一遍のエッセー。
清く明るく美しい昭和の時代に、新しい女性の生き方を広げていった、ヒロイン「とと姉ちゃん」このドラマに、期待したいと思う。