2014年5月13日火曜日

サッカーワールドカップ・サムライブルー必勝法。

昨日、5月12日、サッカーワールドカップ・日本代表選手の発表があった。
サッカーの世界的な大きな大会というと、いくつかあるが、ワールドカップというと、4年に一度の、世界最大のサッカー大会、ということになる。
今年6月に、ブラジルで開催されるサッカーワールドカップは、決して見逃せない、いや、決して負けられない戦い、と言われている。
日本だけではなく、世界中のサッカーファンが、熱く熱く、燃える戦いである。
このサッカー大会の選手、日本代表になれるのは、日本の国の本当の本物のトップと言えるだろう。
この代表メンバーに選ばれるだけでも、とても栄誉あることだといえると思う。
だから私も、昨日の午後2時のライブ中継は、真剣に見ていた。

こうしてメンバーが決まると、あとは試合の6月までの一か月間、選手たちの調整や作戦が始まる。
街中でも会社の中でも、この戦いの戦略について、おおいに語られるところである。
私も、サムライジャパン、サムライブルーの勝利の方程式を解くのに、夢中である。

まず、私が思うのは、各選手と監督とサポーターが、サッカーのルールを今一度、確かめて、自分のものにすることである。
「そんなこと今更」というかたもいるかもしれないが、実はこのルールをわかっていない人は、案外多いようである。
テレビで試合の中継を見ていれば、すっかり見えるとおり、向かっている向こうに立っている、ネットのついた白い枠、この枠のなかに、サッカーボールを投入すると、これが得点となる。
単純なルールであるかもしれない。

しかし私は、この「目で見えるサッカー」を、自分の買い物カゴに林檎を入れるゲームであると思い込んでいた時期があった。
そして、「敵チーム」は、その私の買い物を、邪魔しようとする存在である、と思っていた。
こういう気持ちで観ていると、サッカーの試合はまったく、邪魔ばかりはいってちっとも買い物が進まない、イラつくゲームである。

ある日あるとき、サッカーの先輩に聞いた話で、これは買い物ゲームではない、とわかった瞬間があった。
サッカー、これはまさに、戦争ゲームなのである。

このご時世で、「戦争」という言葉を口にするともうそれだけで非国民のように扱われるから、いろいろと慎重に言葉を選ばなければならない。
しかし、そうしたことを考えてみても、これは戦争ゲームとしかいいようがない。
私は思う、戦争を、スポーツゲームで行うことで、心と身体が解放されることがあるのではないだろうか。
だから、これは戦争ゲームということで、いいではないか。

その戦争であるが、サッカーコートの四角い白い線の中が、陣地である。
真ん中にセンターラインがあるが、これが国と国との境界線である、と考えてもいい。
自分たちの国、自分たちの領土、自分たちの陣地がある。
そして、敵チームの国、敵の領土、敵の陣地がある。
自分の陣地は守り、絶対に敵軍に踏み込まれないようにする。
そして、境界線を越えて、敵の陣地に乗り込み、核爆弾であるサッカーボールを、敵国の首都に放り込む。
これがゲームの主たるルールなのである。

また、自国の首都であるサッカーゴール、これは、敵国が、ここに核爆弾を放り込もうとして攻めてくるので、守らなければならない。
特に、境界線からこちらに踏み込んでくるのは、領空侵犯である。
ここは、南シナ海である。
中国とベトナムが、境界線付近で、踏み込んだり守ったりしている。
なかなかゴールが決まらない。

ここはクリミア半島である。
ロシアとウクライナが、境界線であるクリミア半島をめぐって、抜きつ抜かれつの戦争を繰り広げており、なかなか得点が決まらない。

領土に侵犯されれば、建物も財宝も獲られるし、女・子どもも獲られてしまう。
それなので、守らなければならない。
これは、男の責務である。

こうして、男たちは団結して軍隊を組み、いやチームを組んで、戦果を争う。
いや、自国の勝利を争う。
そして友情もチームワークも作戦もなく、突撃する。
ヤツラに戦略とか、立ち位置など、関係ない。
求めるのは、己の功名心である。わけない。
やはりそこはスポーツであるから、友情と団結で、仲良くパスを奪い合って、いやもとい、パスを出し合って、連係プレーで、自国の勝利と、自分のヒーロー意識を高揚させて、なんといっても、勝つことが、すべてである。
負けてみろ、女子どもは、敵国のイケメンで背の高いかっこいい選手に花束とすべてを贈呈するのである。
だから、決して負けられない戦いなのである。

ところで、この、自国を守る、サムライジャパンたちの仕事であるが、境界線付近で自国の陣地を守るのは、これが集団的自衛権である。
この境界線を一歩も踏み込ませないために、敵国がこの線まで来ると、命がけで戦う。
そして、この境界線から一歩でも中に入ったら、それは、相手の命がどうなろうと、どんな手段を講じても戦う。
これは、自国の陣地を安全に守るための、権利である。
これが、「国防軍」となる。
まさに、「国」を「防ぐ」ための軍隊である。

ところが、もう一歩これを踏み込んで、自国のサムライが、敵の陣地に積極的に踏み込み、敵国の首都ゴールに核ミサイルを直撃させようとする、これは、攻撃である。
もしも日本が憲法の改正をして、「国防軍」を作るなら、彼らサムライの仕事は、自国の陣地内と境界線上において行われるはずである。
ここから先、他国の陣地と首都に踏み込もうとすると、ここから先が戦争となる。

今、憲法改正をしようとしている与党の皆さまは、いったいどのあたりまでを、「国防軍」の仕事だと考えているのだろうか。
そのあたりを、正確に尋ねたいのである。

私は、正確な意味での「国防軍」には賛成である。
というのは、集団的自衛権は、その名のとおり、権利であるからだ。
第二次世界大戦のあと、マッカーサー氏が来て、日本からこの自衛権を奪っていった。
それなので、今の日本は、境界線から内側に踏み込まれようと、首都に爆弾攻撃を仕掛けられようと、自分で自分を守る権利すら、ないのである。
これは、基本的人権の問題ではないのか。
日本の国にだって、正当防衛はあっていいはずだ。
日本の国が栄えて、金持ちになって、国民がとても幸せに暮らしていて、女の人たちが笑顔でニコニコしていて、子どもたちが生き生きと暮らしている、そうなればなるほど、この豊かな国が「ほしい」と思う隣国が、出てくるのである。

この豊かな国を守りたい、財産も国民も守りたい、守る権利がある、これが集団的自衛権と国防軍の理由である。

憲法改正によって、この権利を取り戻したい、というのが、政府与党の目標なのではないか。
「しかし」である。
「ただし」である。
やっぱり私は、戦争には反対だ。
自国を守る権利は確かである必要があるが、他国を攻める権利はない。
時に戦う人は、攻撃こそ最大の防御である、という。
そうした解釈がなされると、攻撃を始めかねない。
隣国とは、境界線をはさんで、友情の橋をかけて、正式な交易や、正式な外交をするのが、一番望ましいのではないだろうか。
国防軍は、積極的戦争は決してしない、という約束があるのなら、この憲法9条までの道筋に、力を入れたいと思うのだが、どうなのだろう。
本当のところを、聞きたい。