2023年10月5日木曜日
短編小説 自由の女神
小説・自由の女神
母の記憶はただ、とても努力家だった、ということだ。
いろいろな評判で母を言う人たちがいた。
けれど結局、最後の最後まで母をかばってきたのは、
ほかでもない実の娘の私自身だったと思う。
母は、とびきり美人で、とびきり頭がよかった。
父からプロポーズされたときに、
「明眸皓歯」という言葉を言われたそうである。
「美人は歯並びまでいい」という意味なのだそうだ。
それをちょっと自慢そうに話していた母を思い出す。
私が努力家だと思うのはその先だ。
美人に輪をかけて、お化粧やファッションの術がうまかった。
私は娘なりに、年頃になったらお母さんにお化粧を教えてもらえる、と思い込んでいた。
実際に、教えてもらった記憶はない。
ある年齢になったら、紅筆と鏡を持たされた…というのが理想なのだけれど、
そういったドラマティックなエピソードはなかった。
ただ大人になってから思い出したのは、
私の中学校の入学式に、母が私の髪をカールしたことだ。
写真を見て、びっくりした。
母は、子どものときから娘をお人形さんみたいにファッショナブルにしておくことで、自然とファッションやお化粧を教えていたのだと思う。
幼いころの、母の手作り服は、いつも最新の子供服から型紙をとっていた。
母が亡くなったのは、もうずいぶんと前だ。
私は大人になっていたし、もうしばらく長く病床に伏していたから、
父から「いずれもしも」の話をされていた。
けれど、一番勇気づけられたのは、同じ年頃で母を亡くした、
友達の彼女の存在だったと思う。
私は彼女の「母親論」「母親批判」を充分すぎるほど聞き、
充分すぎるほど手紙を書き、母を非難し、母を嘲笑し、
母を笑い飛ばしてきたと思う。
料理が好きで、キッチンを磨くのが好きで、
玄関にお花を飾るのが好きだった。
編み物が好きで、縫物が好きで、ロッキングチェアに憧れていた。
子どもっぽく甘えて口けんかするときもあった。
母の形見で一番に思うのは、
父がアメリカに旅行に行ったときのお土産で、
純金でできたゴールドの四角い板に、
自由の女神像が刻まれたものだ。
母は、父と言い争った日でも、このお気に入りのペンダントをつけた。
その行動はちょっと不思議だった。
昔の時代を生き、
昔の制度の中で、
おしゃれを楽しみ、
日々、キッチンに立ち続けてきた母は、
本当は、自由の女神になりたかったのだと思う。