2014年10月18日土曜日

スーパーグローバル大学構想について。

現在、文部科学省ではさまざまな教育改革や教育の構想があって、そのひとつに「スーパーグローバル大学構想」があるようだ。
全国でいくつかの大学を選定してそこに、多額の予算をかける。
学生も選抜するのか、その予算をどのようなことに使うのか、設備なのか、研究費用なのか、まだはっきりとはわからないようだ。
しかし、教育というのは実験や反証、実証、思索を必要とするものであるから、費用をかければかけるだけ、成果があがる、というのは、確かなことであるようだ。
日本では、先日、ノーベル物理学賞で三人の受賞者を挙げることができた。
日本人の日本としてのとても得意な分野での評価であるように思える。
また、物理学、科学、という分野は、世界的な状況のなかで、正確に比較して、優秀さを決定することができるので、「わかりやすい」とも言えるかもしれない。
一方で、ノーベル文学賞などは、科学の分野とはちがって、「わかりずらい」「評価決定しずらい」分野と言えるかもしれない。

理系の研究には、巨額の資金投資が必要である。
実験設備もそうであるし、実験の失敗の数を裾野として、その上に1パーセントの成功があるわけであるから、あとの99パーセントの資本金を支払うだけの度量が必要だともいえる。

今回、ノーベル物理学賞を受賞した中村修二博士も、アメリカのMITマサチューセッツ工科大学で研究をしていて、成果を上げることができている。
これは、悲しいかな、日本ではこうした研究ができない、とか、こうした研究者が羽を伸ばして研究できる環境が整っていない、ということを意味する。
マサチューセッツ工科大学では、日本では考えられないほどの敷地面積があり、スポーツに打ち込むこともできるし、教授には、家付きはもちろんのこと、家族も暮らせて、思索のための散歩ができる広さの庭まで準備されて、優秀な教授を迎えているのだという。
こうした環境のなかで、アインシュタインも、ファインマンも、研究成果を成し遂げることができた。

日本では、STAP細胞をめぐって、悲しい出来事も起こっている。
すべて、研究のための環境づくりが必要であることを物語っている。
それは、施設であったり、研究に対する世論であったりもするだろう。

大学には、ふたつの目的があるのではないか、と私は考える。
ひとつは、学生が学ぶことである。
もうひとつは、研究者が研究することである。

高校を卒業した学生が学ぶことと、大学院博士号までとった研究者がその後も、教授を続けながら研究をするのは、また別のことであるように思う。
今回のスーパーグローバル大学構想は、後者を意味するのではないだろうか。
すなわち、優秀な研究者に、優秀な研究をさせてあげられるだけの環境を作る、という意味である。

また、大学教育に関しては、地方と都会、という差は、見過ごすことはできない。
しかし、大学教育に関しても、裾野を広げるということは、とても大切である。
おおぜいの学生が基礎的な大学教育を受けることができて、その上で、初めて成り立つグローバル大学構想だろう。

また同時に、飛び級制度や才能ある学生の奨学金制度など、たくさんの、教育制度の見直しは、とても大切である。
アメリカでは、学生への個人教授も積極的になされているようである。
優秀な学生は、その才能を開花させたということで、幸せを感じることもできるだろう。
これからの、グローバルで、かつ、学生の人間としての幸せも考えた教育制度の構想と実現を、とても期待しています。

☆追記

アメリカのマサチューセッツ工科大学では、ランチタイムには学生が食堂に一同に会さなければいけないのだが、たとえスポーツの途中であっても、昼寝の途中であっても、下にどんな格好をしていても、既定のマントさえはおればそれでOKなのだと、いいますね。
とても大きな大学マントだそうです。