楽しみにしていた、この四月から始まったNHK連続テレビ小説「花子とアン」。
カナダの女流作家モンゴメリの「赤毛のアン」を翻訳した、村岡花子さんの伝記をもとにした、ドラマである。
第二週の副題は「エーゴってなんずら?」である。
第一週で、山梨の農家から、東京の女学校に入学してきた花子が、全寮制の女学校の生活に、なかなかなじめないで、苦労している様子が描かれている。
まだまだ、ドラマとして、なんとなく枠が出来てこないというか、キャラクターがうまく定まらない状況で、走り始めた、読み始めの小説にありがちな、もやもやしたキャラの状況である。
たとえば、ブラックバーン校長である。
すごく「こわい」かんじもするけれど、本当は慈愛にあふれた女性教育者なのかもしれない。
英語の富山先生である。とてもきれいな女優ともさかりえさんの、怒った表情は見ていてとてもかわいらしいのだが、それがとてつもなく、厳しい先生なのである。
それから、上級生にも言葉遣いを厳しく管理する女学生がいる。
この女優さんは、お笑いタレントのハリセンボンさんなので、どこかやっぱり笑顔になってしまう。
「お友達になりましょう」と言ってくれたのは、醍醐さんである。
どこかの天皇家か華族の出なのか、と思われるような苗字ではある。
こうしたお嬢様学校のなかで、寄宿生活はつらそうだ。
特に、花子にとっては、山梨の実家の方言を直さなければならない、その上に、英語を覚えなければならないのである。
英語で及第点を取らなくては、その場で落第となり、給費生としては、学校から容赦なく追い出される、というわけなのだ。
ここで私が思ったのは、全寮制の教育のシステムである。
私自身は寮生活はしたことはないが、実習で泊まりがけの教育カリキュラムを受けたことがあり、実際には、周りの人たちが思っているほど、ホームシックにはならなかった。
むしろ、家族からの解放感のほうが大きかったような気がする。
建物も広くて大きいし、給食もみんなで食べるほうが、楽しかったように思う。
友達もいろいろな種類のひとがいて、上級生や、年上、年下、すごく年上の先輩など、夜も朝も、仕事や勉強をしながら、いろいろな世界の話を聞くことができた。
また、相談事も、いろいろできたと思う。
私の友達や家族では、実際に寮生活で勉強した人がいて、さっそく尋ねてみたところ、やはり、強烈なホームシックという気持ちはなかった、という。
やはり、家族からの解放感が大きかったという。
ただ、家族から手紙が来たり、宅配便が届いたりすると、そうそれは友達のほうに届いて自分には届かなかったりすると、そのときは、さすがに寂しいらしい。
そんなこともあって、私は、全寮制の教育システムには、もろ手を挙げて賛成である。
家族や両親、生まれ育った環境から離れて、広い広い世界に飛び出すことができる。
こうして育まれた人格は、とても社交性が生まれているのではないか、と思う。
ところで、この「花子とアン」であるが、第一週が「花子と呼んでくりょう!」であった。
そして、第二週は、女学校の寮生活に入る。
花子のもとの名前は「安東はな」である。
これは、当時、庶民的に、女の子の名前は、ひらがなやカタカナで、二文字であった、そういった風習や流行があったのだろう、と思われる。
また、名前にも格式があり、「○子」と、漢字が一文字に子どもの「子」をつけた名前は、確か家族や皇族のお嬢様の名前として、風習であったように思う。
だから今でも、皇族のお子様で内親王であるお姫様は、漢字に子どもの子、というつけ方となっている。
美智子、紀子、眞子、佳子、愛子、雅子、というふうである。
だから、「子」をつけた名前で呼んでほしい、という願いは、庶民の「はな」から、華族、お嬢様の「花子」に飛び上がりたい、社会階層を飛びぬけてお姫様になりたい、という思いを如実に表したものなのである。
女学校へ行っても、「はな」はまだ、「花子」と呼んでもらうことができない。
「はな」と「花子」の間を行ったり来たりするのが、この「花子とアン」のストーリーの主軸となるところなのだろうか。
「赤毛のアン」も、「アンなんていう平凡な名前」と、平凡であるとか庶民であるとかいうことを、飛び越えたい女の子の素朴な気持ちが、名前に表されている。
アンは、コーデリア、と呼んでほしい、と養父に要望するのだから。
たくさん勉強したら、「はな」は「花子」へと、美しい蝶になれるのだろうか。
これから始まる物語が、とっても楽しみである。