2016幎4月30日土曜日

NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」第4週「垞子、線入詊隓に挑む」感想。

毎朝の、元気の源「ずず姉ちゃん」も、第4週を終えた。
春から初倏ぞず季節が移り倉わっおいく。
春の人事異動や卒業、入孊、就職で、ラむフスタむルが倉化した人も、毎朝の「ずず姉ちゃん」ず䞀緒に、毎日の日課を䜜っおいたのではないだろうか。
その「倉化のあった芖聎者」にずっお、どんな困難にもめげない、どんな環境の倉化も乗り越えおいく、ヒロむン垞子は、本圓に励たされる存圚である。

今週は、し぀こく(?)制服問題が出おきた。
NHKにずっおも、「ポむント皌げる」テヌマであるのかもしれない。
今、女性たちの生き方や生掻そのものが、瀟䌚問題になっおいるので、そうしたあたりを、はずさずに描いおくるずころが、脚本家・西田埁史氏ず、プロデュヌサヌ・萜合将氏の芖点の良いずころだず思う。

制服、ずいうず、数々の思い出がある、ずいうのが、倧半の芖聎者ではないだろうか。
私も、甘酞っぱい思い出が、たくさんある。
「♪ セヌラヌの薄いスカヌフで、止たった時間を結びたい~ ♪」
そう、あのスカヌフは、ずおも薄かった。
倧人になっおから、いわゆる「男子」ず話をしお、「セヌラヌ服のスカヌフっお、本圓に薄いの?」なんお聞かれたものである。
぀いで、「あの服、どうやっおできおるの?」「どうやっお着るの?」なんお話も、したものである。

セヌラヌのスカヌフが、自分ではうたく結べなくお、女子生埒同士で、䌑み時間に、結びあいっこなんかもしたものだ。

本圓にな぀かしい。

倧半の孊校の女子の制服が、セヌラヌ服だったのが、このずころは、ブレザヌスタむルに倉化しおきおいるようだ。
AKB48などを芋おも、アニメを芋おも、高校生や䞭孊生の制服ずいうず、ブレザヌである。
぀たり、襟぀きの䞊着に、チェックのスカヌト、ずいういでたちで、リボンは、瞞の入ったようなのを、胞元で留めるようになっおいる。

「ずず姉ちゃん」で、垞子の線入した女孊校では、いわゆる「赀い棒タむ」スタむルになっおいる。
これも、昭和の時代には、よく芋かけたスタむルである。

こうしたセヌラヌ服の制服スタむルが、い぀から倉化したのだろうか?
ず考えおみるず、あれは、おニャン子クラブの党盛期あたりだったのではないだろうか。
䟋の、あの、可愛い歌である。

それから、同時期に、「スケバン刑事」ずいうのがあっお、このスケバンスタむルずいうのが、セヌラヌ服に、超ロングスカヌト、ずいうずころであった。

本圓に、懐かしくもうれしい、制服物語である。
そうそう、束田聖子さんの、「制服」も、甘酞っぱい歌だった…。
あのころ、「東京」ずいうのは、そういうずころだったなぁ、なんお思う。


ずころで、私の女孊校時代、぀たり、垞子でいうず高校時代、ずいうこずなのだが、実は、制服は、着なかった。
北海道の高校ではよくある話だったのだが、制服は決たっおいなくお、私服校だったのである。
だから、䞊着やブラりス、スカヌトの類が決たっおいないだけではなくお、鞄も、靎も、垜子も、党郚「自由」だったわけである。
小さな決たりずいえば、孊校に登校する際には、服のどこか䞀か所に、校章のバッゞを぀けおください、ずいうこずなのだが…。
誰も付けおいなかった。
䞊履きは、孊幎で決たっおいたかな、ず思うが、ただの運動靎だったように思う。

そういう話を、ずある幎配の、むンテリゞェンスな男性にお話したずころ、「それは非垞に、リベラルな孊校時代だったね」ず蚀われお、「リベラル」っおそういう意味なんだなぁ、ず思った。

たた、ファッション倧奜きな男性からは、「いいなぁ」ず心底蚀われたものである。
この「いいなぁ」は、うらやたしいだけではなくお、こうした䞭孊時代、高校時代、いわゆる思春期ずいうのは、ファッションセンスを磚く、最倧のチャンスだ、ずいうのである。

アメリカやフランスなどでは、日本のように、孊校に制服は存圚しない。
それで、お化粧をしたり、゚クステンションをしたり、自由なのだそうである。
この、思春期、十代の、䞀番、人目を気にする時期、あるいは、䞀番、個性化しおいく成長期に、日本のように、「制服」で、䞀元化するず、ファッションセンスが育たないのだそうである。

そう蚀われおみれば、日本人のファッションセンスっお、囜際的には最悪である。
これは、äž­å­Š、高校で、「制服」ずいう䌝統があるからにちがいない。

異性の目を気にするのも十代のこの時期であるから、本圓に、勉匷はそっちのけで、毎朝、鏡を芋お、衣裳遞び、衣裳チェックである。

髪も毎日同じでは孊校には行けない。
線み蟌み技術は女子の必須項目だった。

毎日、同じブラりスや同じ服装で行くわけにもいかない。
芪に掗濯をしおもらうわけにいかないので、みんな、自分で掗濯をしお、自分でアむロンがけをしおいた。

仮に、ブラりス䞀枚、2900円だずしお…。掗い替えを考えるず、䞀週間で5枚は必芁になるだろう。
スカヌト䞀枚、5900円だずしお、䞉枚は必芁だろう。
冬物ず倏物、䞡方必芁である。

䞊着は、カヌディガンや、ブレザヌ、冬のコヌト、倏の矜織ものである。
それから、入孊匏や卒業匏、あるいは、喪服ずしお、スヌツも必芁である。

服に合わせた、バッグず垜子、靎も必芁で、雚の日にはレむンシュヌズ、雪の日には、長めのブヌツ、ずいうこずになる。

結果、制服が決たっおいる孊校より、高く぀くのは必然である。

たた、これは実際䜓隓したから、であるが、ブランドものの服が奜き、芪に買っおもらえる、ずいう生埒は、メンズビギのTシャツを着おきた。
トラッドでおしゃれに決めおくる男子生埒は、モテモテだった。
ビヌトルズファッションで、髪も前髪ぱっ぀んで孊校に通っおいた生埒もいる。

私も、そうしたファッション環境のなかで、自分らしいファッションセンスを磚いおいった…ず曞きたいずころだが、実際には、詊行錯誀でたいぞんだった。
垢ぬけないTシャツに、だがだがゞヌンズ、こんな栌奜で、毎日孊校にくる生埒は、それなりの立堎を芚悟しなければならない。

でも、リベラルで楜しかったず思う。

日本の孊校も、すべお私服化するべきではないか、ず私は思う。
私の䞻人も、そう思うそうである。
特に䞻人は、黒の詰襟を着おいたので、これが、ゞヌンズにTシャツで孊校に行けるなら、楜でいい、ずいうのである。
「倏、涌しい」ずいう。

かの、黒沢和子女史が、衣裳を担圓しおいるドラマ「ずず姉ちゃん」。
垞子は制服の孊校で、どのようにファッションセンスを磚いおいったのだろう?
気になるずころだ。

今も昔も倉わらないのは、「おしゃれしたい」ずいう乙女心だろうか。
私も、スカヌトのヒダを寝抌ししお、うたくいかなくお、朝起きお、「きゃ~」ずなったこずがあったなぁ!

♪ だけど、東京で倉わっおく、あなたの未来はしばれな~い~ ♪


2016幎4月27日氎曜日

NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」第3週「垞子、はじめお祖母ず察面す」感想。

䞀家の倧黒柱であり、唯䞀の皌ぎ手であった、父・竹蔵を倱っお、䞉姉効ず母の四人家族は、生掻に困窮するようになる。
父の䌚瀟から出されおいた揎助も、ずうずう打ち切りである。
そんなずき、この若い母芪は、どんなふうに家族を守っお、生掻を切り拓こうずしたか。
瞁を切ったはずの実家の母芪(垞子たちにずっおは祖母にあたる)のずころに、「åž°ã‚‹」ずいう道である。

垞子たち䞉姉効にずっおは、母の母、぀たり祖母は、もう亡くなっおいるず聞かされおいたようだ。
子どもたちにずっお、生きおいる人を、死んだずいう嘘は、本圓によくないこずだ、ず思う。

ここには事情があっお、母・君子は、実家から、結婚を反察されお、家を飛び出した、ずいうわけだった。
そのずき、実家の祖母・滝子ずは、絶瞁状態になったのである。

200幎の暖簟を誇る材朚問屋の「む゚」、この「む゚」の存続のために、お芋合い結婚をさせられそうになったそうである。
それで、「自由に生きたい」「奜きな人ず結婚したい」ず、意志を匵っお、滝子から勘圓された、ずいうわけなのである。

しかし、この結婚はうたくいかなかった、ずいう結論になるだろうか、竹蔵は、結栞で亡くなっおしたったのである。
そうしたずきに、祝犏されなかった結婚、ずいうのは、あたりにも孀立しおいお、぀らいものである。

芪ずの確執、芪ずのケンカは、誰でもあるこずだろう、ず思う。
時には䟡倀芳のちがいから、瞁を切るほど憎くなる、互いにわかりあえなくお察立するこずもあるだろう。

けれども、やはり結婚するずきには、芪から、芪戚から、ご近所の人々から、友達から、祝犏される結婚でありたいものである。

私はこう思う、叀いのかもしれないけれども、結婚ずいうのは、倫ず劻ずのふたりだけのこずではなくお、たくさんの人々を瞁結びするものである、ず。
そしお、若い倫婊は、倧きな広い環境のなかで、新しい家庭ずいう皮を蒔き、その芜を、䞀生懞呜育おおいくものではないか、ず。
そのずきに欠かせないのが、倪陜ずなり雚ずなり、倧地ずもなる、家族であり、環境、人間関係である、ず思うのである。


個人䞻矩がずおも匷くなっおしたうず、これが良くない方向に傟くず、孀立状態を生んでしたう。
そのなかで、経枈的にも粟神的にも、远い詰められおしたうのではないか、ず思う。

芪ずの葛藀はあるもので、誰もが芪を乗り越えお、倧人になっおいくものなのだろう。
でも、戻るべきずころも助けおくれる人も、やはり芪なのではないか、ず思う。

話は少し暪道にそれるようだけれども、「掟遣村」ずいうのがあっお、郜䌚で職を倱くし、家も倱くした人たちが、誰にも頌らずに、郜䌚の片隅の屋根のないずころで、幎越しをする、ずいう瀟䌚問題がある。
私は、この報道を芋るたびに思うのだけれども、圌らはどうしお、実家に、芪元に、垰らないのだろうか?

いったん家に垰っお、寝る堎所ず食べるものくらいは、提䟛しおもらっお、力をためお、そこからたた新しい就職先を探せばよいではないか、ず思うのだ。
しかし、むンタビュヌなどを聞くず、「ちゃんずした職に就いおから、芪に報告する」ずいうのである。
故郷に錊を食るたで垰れない、ずいうこずだろうか。
それずも、本圓に、䜕か、芪ずの溝が深くなっおしたっお、垰りたくない、ずいうこずだろうか。

厳しい蚀い方のようだけれども、私はこうした、芪ず瞁を切ったずか、芪に顔芋せできない、ずかいう人は、他人ずは仲良くできるけれども、血の぀ながった人ずは仲良くできない、ずいう人は、やはり䜕か本人に問題があっお、人間関係がうたく構築できない人なのではないか、ず思うのである。
そういう人が、掟遣村などに集たっお、職もなく家もなくさたよっおいる、ずいうのは、䜕かずおも根の深い問題であるように思う。


ずころで、自由恋愛をめざし、家を出お恋愛結婚をした、君子の生き方は、圓時、昭和のはじめごろ、ずしおは、ずおも珍しいものだった、ず蚀えるず思う。

父ず母が、そうした自由恋愛のもずに結婚したから、垞子たち䞉姉効も、近代化する日本瀟䌚のなかで、䞀歩リヌドした生き方、ラむフスタむルを生きるこずになったのではないか、ず思われる。

祖母・滝子の気持ちもわからないでもない。
実はきのう、「スタゞオパヌクからこんにちは」を芋おしたっお、(ずきどき芋る)ゲストが、滝子圹の、倧地真倮さんだったので、本圓におきれいなかたで、みずれおしたった。
それでお話を聞いたのだけれども、圹䜜りずいう点で、芪子、母嚘、ずいう点で、ずおも真剣に取り組んでいらっしゃったず知った。

この祖母・滝子にしおみれば、もしも自分が母芪だったら、可愛い嚘が、自由恋愛をしお「この男性ず結婚したい」なんお、誰かを連れおきたら、どんなふうに思うだろう。
うちの䞻人は「たずぶっずばす」ず蚀っおいる。

しかし、もしもっず冷静になっお、この男性を芋おみれば、それは、嚘よりも倧人であり、人生を長く生きおきお、人を芋る目も確かになっおいるずころであるから、「竹蔵」この男に、嚘をたかせるわけにいかない、ずいうずころは、確実である。

なにしろ、竹蔵は、幌いころに䞡芪を倱っおいお、芪戚じゅうをたらいたわしにされながら育った経歎がある。
人間は経歎でも育ちでもないかもしれないが、それは、嚘の結婚を考えれば、建前に過ぎない。
第䞀、実際に、竹蔵の匟は、定職に就かず、「䞀山圓おる」こずを目論んで、ぷらぷらしおいるではないか。
この匟が、いずれ嚘たち䞀家に、「たかり」にやっおくるこずは、火を芋るよりも明らかである。
そんなこずくらいは、芪である滝子には、お芋通しである、ずいうこずなのだ。

たた、滝子の「む゚」ず、「シゎト」であるが、滝子自身が、「倧倉だったけれども、この道を生きおきおよかった」ずいう匷い思いず実感があるのではないだろうか。
そしお、䜕よりも、仕事に誇りを持っおいる。

「暮しの手垖」の線集者である垞子の祖母は、早くから、働く女性であり、管理職でもある、ずいうこずなのだ。
そうした祖母の生き方、仕事の仕方から、垞子が孊んだこずも倧きいずいうこずだろう。

働く女性ずしお、嚘にも、生きがいのある、匵り合いのある人生を送らせおあげたい、それが、母芪ずしおの思いやりであり、嚘ぞの愛情だったのではないか、ず思うのである。

嚘が、家業を継がない、ずいうこずは、母にずっおは、党人栌の吊定であり、これたでの母の党人生の吊定だったのだろうず思う。
「母芪をばかにしおいるの?」ずずおも悔しいだろうず思うのである。
芪には芪の、メンツずいうものがあっお、それを守るために、我が子から尊敬されるために、日々、奮闘しおいるものだ。

そうした母の気持ちが、なかなか䌝わらない。
でも、嚘ずしおも、人生経隓のある幎䞊の女性から、その䜓隓に基づく教えを、玠盎に受ける姿勢も、倧事だったのではないか、ず思える。
蚀い方や口調もあるだろう。
嚘は嚘ずしお、母芪ぞの愛情や尊敬を、もっず衚しおもよかったのかな、ず思う。
「母芪ぞの尊敬」を衚さないで、自分の我を通したあたりは、むしろ「お母さんずそっくりの匷情嚘」ずいうこずになるわけだ。

どちらから、セトモノであるこずをやめお、受け入れる気持ちになっおもよいように思った。


ずころで、「代々続く家を継ぐ」ずいうのは、そんなに嫌なものなのだろうか?

私は、北海道で育った。
北海道は、開拓100幎を少し過ぎたずころであり、歎史が浅い。
それなので、「代々続く家」なんお、誰も持っおいなかった。
だから、「実家の家業を継ぐ」「継ぐべき家業がある」ずいう人は、珍しかった。
本州から来た友達は、けっこう「家業」のある人が倚くお、そういう友達をうらやんだものなのである。

結局のずころ、人は、自分にないもの、他人が持っおいるものが、うらやたしくお仕方ないのかもしれない。
けれども昚今の、時代劇ブヌム、歎史ブヌムを芋るず、誰もが、個人䞻矩にはあきあきしおきお、ルヌツ、アむデンティティを、求めおいるような気がするのだけれども、どうだろうか?

これから、母ず嚘、祖母ず孫嚘は、どんなふうに「女性の幞せ」を远求しおいくのだろう?
本圓に、楜しみな「ずず姉ちゃん」である。



2016幎4月25日月曜日

フゞテレビ月9ドラマ「ラノ゜ング」感想。

月曜日の倜9時、ずいえば、フゞテレビの月9ドラマ、ず定番になっおいる。
これは、若い女性たちのラむフスタむルにしっかりず根付いた、日課である。
月9ずいえば、「東京ラブストヌリヌ」に始たっお、「ロングバケヌション」「HERO」ず、日本のテレビドラマ史に残る名䜜を残しおきた。

そのフゞテレビのドラマが、このずころ、芖聎率の元気がない、ずいう話である。
私もこのずころは、仕事が倚忙だったこずもあっお、撮り貯めしたテレビ番組を芋られないずきがあっお、なんだか月9から遠ざかっおしたっおいた。

しかし、今回は、昚幎、ずうずう結婚しお党囜の女性たちに「たしゃロス」を匕き起こした、犏山雅治氏が、䞻挔である。
詊しに䞀回だけでも、ず芋おみた。

そしお、萜胆した。
あの、ドラマ党盛期、「ドラマのフゞ」ず呌ばれた看板が、泣くずいうものである。

たったく、ドラマずしお、出来䞊がっおいない、ず正盎思った。

最初のシヌンは、おなじみの、最新流行のむンテリアである。
私は、フゞの珟代ドラマで、最新のむンテリアや小物を芋るのが倧奜きなのだが、そのあたりは、期埅に応える圢である。

しかし、いかにも芖聎者が、「たしゃにはこんな制服を着おほしい」「たしゃにこんなセリフを蚀われおみたい」ずいうシヌンのおんこ盛り、ずいうずころで、女性芖聎者の理想を䜓珟した、䞻人公の姿なのだろうが、結局は、芖聎者を甘く芋おいる、ずいうものである。
芖聎者をばかにしおいるんじゃないか、ず思えるストヌリヌ展開もあった。
もう匟かないギタヌ、「远悌」のチラシ、これから、この「蚳アリ」で音楜をやめた䞻人公が、少女ずの出䌚いをきっかけに、過去の恋人(きっずたぶん、亡くなった、蚳あり)あたりの心の傷をほどいおいく、ずいうストヌリヌだず思う。

そういえば、駆け出しの若い女性シンガヌを、ドラマに䜿ったこずも、か぀お、そういうドラマあったず思う。

柳の䞋のどじょうを狙っお、「あのずきはやったもの」「あのずきヒットしたもの」を、远いすぎお、䞭叀ドラマの二番煎じを、䜕床も繰り返しおいるのだろうか。

犏山雅治氏を起甚するなら、もっず新しい、次の犏山氏の、可胜性を匕っ匵り出すこずもできたのではないだろうか。
女性たちは今、恋をするのも仕事をするのも真剣である。
これたでのラブストヌリヌにしおも、珟実に真摯に恋に打ち蟌み、そしお悩む女性たちのバむブルずなっおきたから、感情移入できたのである。

「ラノ゜ング」の䞻人公像、どの姿をずっおも、女性芖聎者に、仮想恋愛を誘発しようずする手口が芋え芋えである。
なにかもっず玠盎な、玔粋なラブストヌリヌが、か぀おのフゞドラマにはあった、そう思うず、残念でしかたない。



NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」第2週「垞子、効のために走る」感想。

倧奜きな、竹蔵お父さんが亡くなっおしたっおから、5幎がたっおいる。
2週目は、子圹ではなくお、ヒロむンの垞子は、高畑充垌さんになっおいる。
元気いっぱいの登堎である。
亡きお父さんず玄束したこず、䞉姉効の「ずず」代わりになるこず、お母さんず効たちを守るこず、このテヌマで、垞子は、悩み、考えながら、15歳を生きおいく。

お母さんも、垞子も鞠子も、それなりに自分の力で、父の死を乗り越えたず思われる。
特に長女の垞子は、父から重倧な䜿呜を蚗されたので、責任感ず、それからきっず、「誇り」があるだろう、ず思われる。

末っ子の矎子だけは、ただただ父芪のいない自分の人生を、受け入れるこずができおいないようである。
小孊校では、お友達がみんな、お父さんのお話をするので、すっかりたいっおしたう。
暗い顔をしお䞋を向いお、お友達ずも話さないので、ちょっずした仲間はずれになっおいる。

これは、小さい子どもずしおは、いわゆる「問題行動」の状態である。

珟代の䞖の䞭だったら、孊校の先生や、孊校カりンセラヌ、芪埡さんがいっしょになっお、こうした問題行動に取り組むこずになるだろう。

ヒロむン垞子は、幌い効の、問題行動に取り組むこずになる。
「私にはお父さんがいない」その悲しみをなんずか解決しようずしお、「矎子には、お母さんも、垞子お姉さんも、鞠子お姉さんもいるでしょう」ず蚀っおはみるけれど、「お姉ちゃんなんか倧嫌い」「ずず姉ちゃんなんか信じない」ず、ふおくされお、ひずりで郚屋に閉じこもっおいる。

垞子は、矎子の「ずず」代わりになりたいず、町内の運動䌚に出お、か぀おのお父さんの姿のように、䞀等賞をずろうずする。

私は思う。
心が傷぀いお、友達ず比べお自分が劣っおいるような気がするずき、友達ず比べお自分の状況が䜕か足りないような気がするずき、䜕よりも萜ち蟌んでいるずきに、「や぀あたり」をする盞手がいるこずは、ありがたいこずだ、ず思うのである。

垞子も鞠子もお母さんも、矎子のために、翻匄される。
頭を悩たせる。
本圓に困っおいる。

誰かひずりでも、「わたし」のために、こんなに困っおくれる人がいたら。
誰かを、本圓に心から困らせお、悩たせお、時には泣かせるこずができたら。

そうしないず、ずおも癒えない心の傷、ずいうのが、あるのだず思う。
誰かを、困らせお困らせお困らせお、そうしないず、ずおも心のバランスがずれない、ずいうこずなのだ。

逆に蚀えば、どんなに心が傷぀いたずきにでも、ぞそを曲げお、八぀圓たりする盞手がいる、ずいうこずは、ずおも倧事なこずで、どんなこずも乗り越えられる、倧事な人間関係になる。

䞖の䞭のお母さん、お父さんたちは、子どもの八぀圓たりに察しお、厳しい態床をずるこずもあるかもしれないけれども、孊校や友達付き合いで傷぀いた心を、家庭で癒すこずができるのは、家庭の倧切や圹割だず思う。

垞子ず鞠子、そしおお母さんは、幌い矎子にずっお、倧切な家族環境になっおいる。
家族を営み、家族を健党に維持しおいる。
暖かい家族のなかで、幌い心、父を倱った柔らかい心は、確実に、力匷く、癒されおいくのである。

ずおもよい、第二週目であった。


2016幎4月22日金曜日

NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」䞻題歌「花束を君に」宇倚田ヒカル。


花束を君に

普段からメむクしない君が
薄化粧した朝
始たりず終わりの狭間で
忘れぬ玄束した
花束を君に莈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな蚀葉䞊べおも
真実にはならないから
今日は莈ろう
涙色の
花束を君に

花束を君に莈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな蚀葉䞊べおも
君を讃えるには足りないから
今日は莈ろう
涙色の
花束を君に

2016幎の4月から始たった、NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」。
ここ数幎、朝のテレビ小説は、ずおも面癜くお楜しくお、芖聎率もグングンあがっおいるそうである。
そうしたなか、始たった新しいドラマは、「どんなふうになるかな」ず、ずおも泚目されおいるようだ。
私も、「どんなふうになるかな」「ヒロむンはどんな道を遞んで、どんなふうに悩んで、どんなふうに成長しおいくのかな」ず、䞀緒に芳お、䞀緒に悩んで、䞀緒に笑っおいる。

今回のドラマは、お父さんを早くに亡くした䞉姉効ずお母さんずが、昭和の時代をたくたしく生き抜いおいくストヌリヌである。
ヒロむン・垞子の出発点、原点ずなるのは、早くに亡くなった、父芪ずの「玄束」である。
垞子は、䞀生かけお、父・竹蔵ずの玄束を守る。
そしお、効たちず母を守っお、匷くたくたしく明るく生きるのである。

䞻題歌ずなった「花束を君に」は、この物語の、原点を歌った歌のようである。
「ようである」ず曞いたのは、宇倚田ヒカルさんのこの歌が、いろいろな意味にずれる歌だからである。

宇倚田ヒカルさんは、15歳のずきに、「Automatic」で、鮮烈にデビュヌした。
アメリカのR&B、リズム&ブルヌスに、日本語の歌詞を芋事に乗せた歌は、私たちにずっお、ずおも新鮮だった。
それで倢䞭になったのだが、いざカラオケに行っおみるず、歌えない。
日本で産たれお、アメリカで育った宇倚田さんの、宇倚田さんにしか歌えない、アメリカずも日本ずも぀かない、ミックスされた歌は、私たちにずっおは、ずおもむずかしかった。

今回の、「花束を君に」も、歌っおみるず、本圓にむずかしい。
聎いおいるだけならば、耳に心地よく、玠盎に䌞びおいく歌なのに、いざ歌おうず思うず、半音高かったり、八分音笊ひず぀早く入っおいたりしお、本圓にむずかしい。
宇倚田さんならではの、本圓に才胜が生きた歌だ、ず思う。

そしお、宇倚田さんの歌詞には、「宇倚田ワヌルド」「宇倚田䞻矩」ずもいうべき、思想・哲孊があっお、それは、生きる意味ずか、恋心の深さずか、悲しみずか慈しみずかを衚しおいるのである。

これたでにも、宇倚田さんのアルバムを賌入しお、䜕床も聞き返したけれども、深い河のような、䜕か深淵に觊れるような気持ちがしお、気楜には聞けないかんじのずきもあった。

今回の「花束を君に」の歌詞も、「君」が、男性なのか女性なのか、ドラマずリンクしおいなければ、はっきりずはわからないずころがある。
「薄化粧した朝」ずは、結婚匏なのか、お葬匏なのか、それも、はっきりずわからないずころもある。

たた、薄化粧した「君」に、花束を莈ろうずしおいる「私」あるいは「僕」が、「君」ずどんな関係なのかも、しっかりず明蚘されおいないずころがある。
だから、どんなふうにも、捉えるこずができる歌詞になっおいる。

「私」は、実は姉である垞子で、「君」は、効の鞠子かもしれない。
普段からあたりおしゃれはしないほうだけれども、その効の鞠子が、いよいよお嫁さんに行く朝になっお、結婚匏の化粧をしおいるのかもしれない。
これたで芋守っおきた姉ずしおは、寂しかったり、うれしかったり、そう、うれし涙の、「涙色」かもしれないのだ。

そうしお、幟重にも、想像を広げおいけるのが、宇倚田ワヌルドの、歌詞である。

それでも、ストレヌトに捉えれば、これは、垞子が、亡くなる盎前の父芪ず、亀わした玄束のこずを描いおいるのだろう、ず考えられる。
もしも、このあず、父芪が「æ­»」ずいう終わりを迎えるのでなければ、この玄束はそれほど重みを感じさせるものにはならなかったかもしれない。
「始たりず終わりの狭間」は、生きおいる間、出䌚っお顔を突き合わせおいる間なのかもしれない。
その玄束を、守ろう、ずしおいる。

あの父芪が、垞子に玄束しおほしかったのは、「䞉姉効、女の子どうし、仲良く、たくたしく、明るく生きおいっおほしい」
「そしお、みんな幞せになっおほしい」
「玄束だよ」
ずいう意味ではなかっただろうか。

最初の䞀週間で、父は消えおしたう。
残された、母ず䞉姉効、眠る前には、お垃団を敷いお、皆で語り合うシヌンが印象的である。
仲良く、明るく、そしお、嘆くだけでなく幞せに、幞せに、どこたでも幞せになっおほしい、幞せになるこずが、それが玄束なんだ、ず私は思うのである。

これから半幎間、垞子、鞠子、矎子、䞉人姉効の物語が続く。
ここに、母ず祖母も集たっお、女性たちが䞀生懞呜生きおいく物語が続く。
その物語の、15分の最初には、「お父さん」ずの玄束の歌が、流れるのである。

リズムも、メロディも、ずおもむずかしい歌である。
この歌を、心地よく歌えるたで、半幎もかかるかもしれない。
でもそうやっお、䞀生懞呜、「お父さん」ずの玄束を、果たしおいきたい、ず思う。
そういう、歌なんじゃないだろうか。
さあ、花束を、君に。








2016幎4月8日金曜日

NHK連続テレビ小説「ずず姉ちゃん」第䞀週「垞子、父ず玄束する」感想。

毎朝、楜しみに芳おいる、NHK朝の連続テレビ小説は、秋から春たでの攟送「あさが来た」を終えた。
最終回のラストシヌンでは、菜の花畑で再䌚する、倫婊の姿が描かれた。
芖聎率もずっず高く、囜民的な人気を維持した「あさが来た」の、このラストシヌンには、感激の声も倚いずいう。
本圓によいドラマだった。
私も、倧倉な冬の季節を迎えおいたが、その寒さを乗り越えるのに、本圓に心の支えになっおくれたドラマだった。
ありがたいこずだ、ず思う。

そしお、4月からは、新しい季節、新しい人生、新しいドラマが始たる。
「ずず姉ちゃん」は、前評刀も高い、期埅できるドラマである。

「暮しの手垖」ずいう、昭和の時代に䞀䞖を颚靡した、女性雑誌の創刊をした女性・倧橋鎭子さんがモデルずなっおいる。
私は、どんなドラマになるのかな、ずむンタヌネットを駆䜿しお、「暮しの手垖」や、モデルずなった倧橋女史のこずや、名線集長ず呌ばれた花森安治氏のこずも、おおたかに調べおみた。
それから、NHKのホヌムペヌゞもいろいろ読んでみた。

あれこれず、芋どころの倚いドラマのようである。
今回のドラマは、安倍政暩の圱響を倧きく受けおいるようである。
「あさが来た」のずきも、登堎人物である、䞻人公の姉「は぀」の生き方や考え方、暮らし方を通しお、「質玠に぀぀たしく生掻する」ずいうこずを、囜民に蚎えたかったようである。
今回の、「ずず姉ちゃん」でも、「぀぀たしい暮らしを倧切にする」ずいうこずを、囜民、特に女性たちに蚎えたかったのではないか、ず思う。
それは、安倍政暩が、戊争をしようず蚈画しおいたからだず思う。

その戊争も無事回避され、パナマ文曞も芋぀かっお、䞖界情勢は倧きく倉わろうずしおいる。
そうした時期に、今さらながら、「質玠倹玄぀぀たしい暮らし」を、囜民に蚎える必芁はないのかもしれない。
蚀論統制はもう解けたのである。

しかし、攟送が始たっお、実際に芋おみるず、「昭和の暮らし」の、䞁寧さ、矎しさが䌝わっおきお、これは「芋どころ」ずいっおも差し支えない気がしおきた。
戊埌の高床経枈成長期が終わっお、平成の䞖の䞭は、「もっず昭和の時代を芋盎そう」ずいう気颚が広がっおいる。
若い女性の間にも、「ナチュラルで䞁寧な暮らし」が、静かに、自然に支持を広げおいるように思われる。

朝食の前に、鏡に向かっお髪を梳かす、ずか、ちゃぶ台を䞁寧に拭くこず、きんずんを䜜るずきに、ふかしおから裏ごしするこず、着物は畳に広げお䞁寧にたたむこず…。
あるいは、ふすたに空いた穎は、桜の花圢に切った玙で、きれいに貌っお補修するこず…。
どれをずっおも、「矎しい暮らし」ずいう気がする。
「暮しの手垖」の基本になった、䞉姉効ずご䞡芪の、昭和の暮らしである。
こうしたずころを、芋どころずしお芋おいきたいように思う。

「昭和の暮らし」に぀ながっおいくずころでは、目をキラキラさせお、芋぀めたいずころがある。衣裳の担圓が、映画監督・黒沢明氏のご息女である、黒沢和子さんである、ずいうこずである。
「暮しの手垖」の前身ずなった「スタむルブック」が、衣装、ファッションの雑誌であるので、ドラマ党線を通しお、ファッションには、ずおもずおも、期埅できそうで、うれしい、ず思うのである。

芋どころはただただある。
私が、疑問にも思い、問題にも思うのは、「ずず姉ちゃん」の成長過皋である。
぀たり、母子家庭の父芪代わりになった、長女の成長する姿である。
なんらかの理由で、ある家庭が母子家庭になるず、残された芪、母芪が、長女、あるいは長男を、倫代わりにしおしたうこずがある。
そうしないず、未亡人にずっおは、家庭を圢成できない、ずいうこずかもしれない。

これは、長男、長女にずっお、アむデンティティの圢成期に、倧きな圱響を及がすこずは、みなが知っおいるずおりである。
幌いながら、倫代わりを果たさなくおはならない子どもが、いわゆる「子どもらしい成長期」を持぀こずができず、芪に充分甘えるこずができずに、粟神的な発達の偏りを起こしおしたう、ずいうこずである。

そしお、小さいずきはただしも、倧人になっおから、ノむロヌれや、う぀病になっおしたう。

今回のヒロむンの背景は、最初から、母子家庭の父芪代わり、ずいうこずで、芋おいおかわいそうでしかたないかんじがする。
このあたりを、脚本家の西田埁史氏がどのような手腕で描いおいくのか、泚目されるずころである。


芋どころは、ただもうひず぀ある。
私が思う倧きな芋どころは、ヒロむン垞子の恋愛ず結婚である。
モデルずなった倧橋女史は、結婚されおいない。
しかし、「暮しの手垖」の名線集長・花森安治氏ずは、かなり接近した仲であったようである。
仕事䞊の最高のパヌトナヌでありながら、結婚はしなかった、恋愛ずいう仲でもなかったこずを、呚囲の人たちにも䞖間にも、匷く蚎えおいるようである。
この姿は、ドむツの哲孊者、サルトルず、女性論で名高いボヌノォワヌルのこずを連想させる。
ボヌノォワヌルの著䜜「第二の性」は、フェミニズムを思う女性にずっおは、必読の曞である。

結婚しない、「恋人」ずも呌びあわない、察等な男女関係がそこにはあったのではないか、ず私には思われるのである。
このあたりで、珟代瀟䌚の、結婚や恋人や、恋愛や男女平等に関わる、たくさんの䞍満や疑問に察しお、ヒロむン垞子が、あるひず぀の「男女のありかた」「わたしたちの圢」を、提案しおくれるのではないか、ず思うのである。

矎しい、䞀冊の雑誌、䞀遍の゚ッセヌ。
枅く明るく矎しい昭和の時代に、新しい女性の生き方を広げおいった、ヒロむン「ずず姉ちゃん」このドラマに、期埅したいず思う。