2023年3月30日木曜日

大江健三郎 追悼

 

大江健三郎 追悼

 

先日、ノーベル文学賞作家、大江健三郎が逝去されました。

わたしなりに、大江健三郎先生の作品を読んだ感想を、書いてみます、

 

大江健三郎先生の文学は、一口に「難解だ」と言われることが多いように思います。

わたしも、文章の巧みさから、やはり、何行読んでも、また二行三行もどっては読み直す、というような、解読の難しさを感じたように思います。

 

わたしは、「救い主が殴られるまで」という本の、「燃え上がる緑の木」を読みました。

「救い主が殴られるまで」は、三部作です。

そのうちの、「燃え上がる緑の木」を、熟読しました。

 

難解だと言われながらも、何行もさかのぼって、読み解こうとしたのは、わたしの身近な人に勧められて、その本を貸してもらえたからです。

がんばって読んで、感想を伝えなければならない、その気持ちが、読もうというモチベーションを呼び起こしてくれたのかもしれないです。

 

「燃え上がる緑の木」の、テーマとなるのは、「救い主が表れて、民衆からとてもありがたがられて、支持された」「そのあと、民衆が、救い主に対して、失望するようになり、とうとう、殴られるところまで、批難された」ということです。

 

わたしが思い起こしたのは、たとえば、ナポレオン、そして、ジャンヌ・ダルク、そして、ミャンマーのアウンサン・スー・チーさん。そして、現代の、政治家です。

 

ナポレオンは、フランス革命の時代に、民衆から英雄と呼ばれ、圧倒的な支持を得ました。しかし、わたしたちが、ナポレオンの伝記をどんなに読んでも「わからない」と首を傾げるのは、結局は、セント・ヘレナ島に島流しにされたことです。

 

ジャンヌ・ダルクにしても、そうでしょう。

時代の寵児として風のように登場し、庶民から圧倒的な支持を得ました。

しかし、結局は、火あぶりの計にされてしまいます。

 

これらに共通しているのは、民衆、庶民と呼ばれる人たちの、「救われたい気持ち」「助けてほしい気持ち」「誰かに何かしてほしい気持ち」だということです。

 

大江先生の文学でも、そのとおりの民衆が描かれています。

 

少し前の時代の、地方に在住する人たち、それほど教育もなく、しかし、とても悩みがあった、でも、何が悩みかも、自分自身でもよくわからないような「愚かさ」があったということです。

そこへ、ちょっと神がかりになった、「教祖」のような人が表れて、田の耕し方や、民間療法のような、ケガや病気の治し方を、教えてくれる。

 

現代の、政治家も、民衆のために、一生懸命、福祉政策をしました。

ところが、自然災害が多発するようになり、国家の財政も苦しくなり、災害を救助する、自衛隊も消防団も疲れてきました。

 

わたしが印象的に覚えているのは、台風による水害が起こった時の、ある、地方の若い女性の、ツイッターによる「つぶやき」です。

「水道も止まった。電気も止まった。お風呂も二日も入っていない。政府は何をやっているんだ!」

 

わたしは、この若い女性の言葉に、考え込んでしまいました。

 

この若い女性にとって、「政府」とは、いったい何だったのだろう?と考えてしまいました。

そのときに、大江健三郎先生の、「救い主が殴られるまで」を思い出しました。

 

そのころから、政治家は「自助。共助。公助」という、これまでもこれからも変わらない基本精神を、念押しするようになりました。

わたしも、政治も福祉政策も自然災害も、人間としての生き方も、社会も、「自助。共助。公助」だとわかっています。

そしてその基本を念押しして発言するようにしました。

 

今、日本では、統一地方選が始まろうとしています。

「働き方改革」が、争点になるかもしれないです。

あるいは、共産主義、労働者との、理論戦、そしてデモ隊との衝突になるかもしれません。

彼らは、コロナ、自然災害、という、不可抗力に対して、自分で自分の身を守ることをしないで、「政府がわたしを守るべきだ」「政府が怠っていた」と主張します。

 

わたしは、まさに「救い主が殴られている」状態ではないか、と思います。

 

ハリウッド映画が好きです。

ハラハラドキドキしながらも、ハッピーエンドです。

冒険とヒーローがスカッとします。

一方で、フランスのカンヌ映画で受賞された作品には、考えさせられます。

それを観た人に、深く考えさせる映画が、世界のトップレベルだと評価されています。

わたしは、以前、ハリウッド映画のようなストーリーを「作ろうかな」と考えていたら、ある友人から「結局は、中産階級向けでしょ」と言われて、「なるほど」と思いました。

 

ノーベル文学賞もそうでしょう。

娯楽作品は読んでいて、楽しい、ワクワクする。それも文学です。

でも、ノーベル文学賞は、中産階級を読者とした娯楽ではなくて、

世界中の、トップレベルの経営者、政治家、作家、芸術家が、「それもそうだ」「民衆ってこうだ」と思える文学です。

トップレベルの人たちの、苦しみも悩みも気持ちも文章にして書き表し、彼らの気持ちと疑問に応え、そして、共通の疑問をわかちあうのが、ノーベル文学賞なのだ、と思います。

 

そのテーマこそが、「救い主が」「英雄が」いずれ、甘えた愚かな庶民から、「殴られる」ということなのだと思うのです。

 

大江健三郎先生と対比されるのが、日本では、五木寛之先生の文学です。

五木寛之先生の「親鸞」では、主人公の親鸞が、一生を通して、貧困層から支持され続けていました。

そこに「問題点」があるように思います。

貧困層へ、ある意味ボランティア活動をしていた僧侶が、一生、ナポレオンでなく、ジャンヌ・ダルクでなく、慕われていった、本当にそうでしょうか。

わたしは、疑問に思います。

 

大江健三郎先生の文学が、難解だと言われるのは、その文体にあるのではなく、そこに描かれる人間の本質が、庶民である読者には、理解されずらいからではないか、と思います。

 

それは、「本当は民衆は、愚かでいたいのだ」「本当は民衆は、不幸でいたいのだ」「民衆は甘えているのだ」「人間は平等ではないのだ」という、本質を描いたからではないか、と思います。

 

大江先生。素晴らしい文学を書いてくださって、本当にありがとうございました。

時代を越えて、大江先生の文学は、いつまでも残り、読み継がれていくものと、確信します。

いま一度、大江先生の作品を買い求め、読み直したい、その気持ちです。

追悼申し上げます。

2023年3月29日水曜日

「えこひいき」という言い方について。

 このごろ、

「なぜえこひいきするのです?」と、聞かれることがあります。

私自身は、「えこひいき」をした気持ちはないのですが、

一般的に、学校の生徒が、「えこひいき」を感じる場合について、

考えを書いてみます。


ひとつは、クラスのなかで、今、「伸び盛り」の生徒がいること。

この生徒に声をかけて、もっと伸びるように、

良くない方向へ伸びないように、気にかけてあげることが、必要なのだと思います。


もうひとつは、問題を抱えている生徒がいること。

これは、「悪い問題」に限らないのですが、

「何か悩んでいるな」と、その生徒から感じ取ったら、

「どうしたの?」「何かあったの?」と声をかけることが、必要かな、と思います。


伸び盛りの生徒に「だけ」声をかけると、他の生徒が伸びないのではないか、

という考えもあります。

しかし、ひとりを伸ばしてあげると、他の生徒も、一緒に伸びるものです。


また、良い意味でのライバル意識は、互いに成長する、という相乗効果を生むことがあります。


「声をかけやすい生徒に声をかける」ということもあるかもしれないです。

その生徒のひとりひとりの個性を考えて、

「このひとりに声をかける」ということが、あります。


「えこひいき」と感じるのは、個人の主観の問題かもしれないです。

もっと声をかけてほしい、その気持ちに、教員も、大人も、寄り添っていくべきかもしれないです。

2023年3月19日日曜日

3月19日 誕生日に思うこと。


 こんにちは。

わたしは、きょう、誕生日を迎えました。

家族で、ささやかに、祝っています。

これから一年にしたいことは、まず、

スマートシティの世界一早い成功、です。

それから、原油に代わるエネルギーの成功です。

それから、安心·安全な、インターネットの法律の整備です。

それから、世界共通の法定通貨を使った、システムの構築です。

一生懸命がんばります。



プレゼントに本をもらいました。




猫も、祝ってくれています。