大江健三郎 追悼
先日、ノーベル文学賞作家、大江健三郎が逝去されました。
わたしなりに、大江健三郎先生の作品を読んだ感想を、書いてみます、
大江健三郎先生の文学は、一口に「難解だ」と言われることが多いように思います。
わたしも、文章の巧みさから、やはり、何行読んでも、また二行三行もどっては読み直す、というような、解読の難しさを感じたように思います。
わたしは、「救い主が殴られるまで」という本の、「燃え上がる緑の木」を読みました。
「救い主が殴られるまで」は、三部作です。
そのうちの、「燃え上がる緑の木」を、熟読しました。
難解だと言われながらも、何行もさかのぼって、読み解こうとしたのは、わたしの身近な人に勧められて、その本を貸してもらえたからです。
がんばって読んで、感想を伝えなければならない、その気持ちが、読もうというモチベーションを呼び起こしてくれたのかもしれないです。
「燃え上がる緑の木」の、テーマとなるのは、「救い主が表れて、民衆からとてもありがたがられて、支持された」「そのあと、民衆が、救い主に対して、失望するようになり、とうとう、殴られるところまで、批難された」ということです。
わたしが思い起こしたのは、たとえば、ナポレオン、そして、ジャンヌ・ダルク、そして、ミャンマーのアウンサン・スー・チーさん。そして、現代の、政治家です。
ナポレオンは、フランス革命の時代に、民衆から英雄と呼ばれ、圧倒的な支持を得ました。しかし、わたしたちが、ナポレオンの伝記をどんなに読んでも「わからない」と首を傾げるのは、結局は、セント・ヘレナ島に島流しにされたことです。
ジャンヌ・ダルクにしても、そうでしょう。
時代の寵児として風のように登場し、庶民から圧倒的な支持を得ました。
しかし、結局は、火あぶりの計にされてしまいます。
これらに共通しているのは、民衆、庶民と呼ばれる人たちの、「救われたい気持ち」「助けてほしい気持ち」「誰かに何かしてほしい気持ち」だということです。
大江先生の文学でも、そのとおりの民衆が描かれています。
少し前の時代の、地方に在住する人たち、それほど教育もなく、しかし、とても悩みがあった、でも、何が悩みかも、自分自身でもよくわからないような「愚かさ」があったということです。
そこへ、ちょっと神がかりになった、「教祖」のような人が表れて、田の耕し方や、民間療法のような、ケガや病気の治し方を、教えてくれる。
現代の、政治家も、民衆のために、一生懸命、福祉政策をしました。
ところが、自然災害が多発するようになり、国家の財政も苦しくなり、災害を救助する、自衛隊も消防団も疲れてきました。
わたしが印象的に覚えているのは、台風による水害が起こった時の、ある、地方の若い女性の、ツイッターによる「つぶやき」です。
「水道も止まった。電気も止まった。お風呂も二日も入っていない。政府は何をやっているんだ!」
わたしは、この若い女性の言葉に、考え込んでしまいました。
この若い女性にとって、「政府」とは、いったい何だったのだろう?と考えてしまいました。
そのときに、大江健三郎先生の、「救い主が殴られるまで」を思い出しました。
そのころから、政治家は「自助。共助。公助」という、これまでもこれからも変わらない基本精神を、念押しするようになりました。
わたしも、政治も福祉政策も自然災害も、人間としての生き方も、社会も、「自助。共助。公助」だとわかっています。
そしてその基本を念押しして発言するようにしました。
今、日本では、統一地方選が始まろうとしています。
「働き方改革」が、争点になるかもしれないです。
あるいは、共産主義、労働者との、理論戦、そしてデモ隊との衝突になるかもしれません。
彼らは、コロナ、自然災害、という、不可抗力に対して、自分で自分の身を守ることをしないで、「政府がわたしを守るべきだ」「政府が怠っていた」と主張します。
わたしは、まさに「救い主が殴られている」状態ではないか、と思います。
ハリウッド映画が好きです。
ハラハラドキドキしながらも、ハッピーエンドです。
冒険とヒーローがスカッとします。
一方で、フランスのカンヌ映画で受賞された作品には、考えさせられます。
それを観た人に、深く考えさせる映画が、世界のトップレベルだと評価されています。
わたしは、以前、ハリウッド映画のようなストーリーを「作ろうかな」と考えていたら、ある友人から「結局は、中産階級向けでしょ」と言われて、「なるほど」と思いました。
ノーベル文学賞もそうでしょう。
娯楽作品は読んでいて、楽しい、ワクワクする。それも文学です。
でも、ノーベル文学賞は、中産階級を読者とした娯楽ではなくて、
世界中の、トップレベルの経営者、政治家、作家、芸術家が、「それもそうだ」「民衆ってこうだ」と思える文学です。
トップレベルの人たちの、苦しみも悩みも気持ちも文章にして書き表し、彼らの気持ちと疑問に応え、そして、共通の疑問をわかちあうのが、ノーベル文学賞なのだ、と思います。
そのテーマこそが、「救い主が」「英雄が」いずれ、甘えた愚かな庶民から、「殴られる」ということなのだと思うのです。
大江健三郎先生と対比されるのが、日本では、五木寛之先生の文学です。
五木寛之先生の「親鸞」では、主人公の親鸞が、一生を通して、貧困層から支持され続けていました。
そこに「問題点」があるように思います。
貧困層へ、ある意味ボランティア活動をしていた僧侶が、一生、ナポレオンでなく、ジャンヌ・ダルクでなく、慕われていった、本当にそうでしょうか。
わたしは、疑問に思います。
大江健三郎先生の文学が、難解だと言われるのは、その文体にあるのではなく、そこに描かれる人間の本質が、庶民である読者には、理解されずらいからではないか、と思います。
それは、「本当は民衆は、愚かでいたいのだ」「本当は民衆は、不幸でいたいのだ」「民衆は甘えているのだ」「人間は平等ではないのだ」という、本質を描いたからではないか、と思います。
大江先生。素晴らしい文学を書いてくださって、本当にありがとうございました。
時代を越えて、大江先生の文学は、いつまでも残り、読み継がれていくものと、確信します。
いま一度、大江先生の作品を買い求め、読み直したい、その気持ちです。
追悼申し上げます。